二人だけの前夜祭
「健人くん、間に合うのかなぁ…。」
握り締めたケータイの時計に、何度も目をやっては辺りを見渡した。
だが、まだそれらしい人影も車も近寄っては来ない。
健人の姿を捜しながら、雪見はぼんやりと街中に視線を泳がせた。
年が明けての新年四日。
大体の企業が仕事始めで、夜の街も新年会に繰り出した人々で賑わっている。
が、たまーに見かける振り袖姿の女の子と店先の飾りが、辛うじて正月を思わせるぐらいで、
昔ほど酔客の足元が振らついてないのは不況のせいか。
こうして一年は毎年同じような始まり方をし、いつの間にか何のことはない日常に戻り、
知らぬ間にまた年末へと歩き出しているのだ。
「だもんね、私もいつの間にか33にもなってる訳だ…。
あーあぁ…。六月には34だって!今更ながらビックリするわ。」
街の喧噪をいいことに、思いきり口に出して愚痴ってみる。
しかし、思ったほどスッキリもしないし、一人で喋ってるのも端から見ると怪しいので、
また大人しく健人捜しに戻ることにした。
雪見がそれからキョロキョロすること十分。
やっと見覚えのある車が近づいて来た。健人の乗った及川マネージャーの車だ!
思わず雪見の顔がほころぶ。
「お疲れ様でしたぁ!」
グレーのニットコートの裾を翻し、颯爽と車から降りてきた健人の姿は
今更ながらに格好良かった。
「ごめん、ゆき姉!遅くなって。だいぶ待ったよね?」
嬉しそうに雪見に歩み寄った健人はハットを目深に被り、いつもの大きな黒縁眼鏡を
掛けてはいるが、明らかにその辺を歩いてる酔っぱらい達とはオーラが違った。
「ううん、ぜーんぜん!私も結構ギリギリに来たから。」
芯から冷え切った身体を誤魔化し、平然とした顔で言ったつもりだったが…。
「嘘だぁ!鼻の頭が真っ赤だし。手、貸してみ!うわっ!めっちゃ冷たいじゃん!
ごめんごめん!早く店入ろう!
…って、ここ相当高いんじゃないの?大丈夫なわけ?
しかも俺、いつもとあんまり変らないカッコなんだけど…。」
健人は店を見上げて躊躇した。
「大丈夫!健人くんのファッションは、いつだって抜かりないでしょ?
それに料金は、この招待券にすべて含まれてるって言ってたから。
真由子と香織からのデビュー祝い!有り難いよねー、親友って。
健人くんへのクリスマスプレゼントを探し出してくれたのも、ここに予約入れてくれたのも
真由子なんだよ!今度きちんとお礼しなくっちゃね!
さ、入ろう入ろう!もうお腹ぺっこぺこ!」
雪見が健人の手を引いて、重厚な木製のドアを押し開ける。
その瞬間、温かな空気といい匂いが二人の身体を包み込み、それだけで
幸せな気分になってきた。
「あったかーい!あ、予約の浅香です!少し遅れてごめんなさい!」
受付で名乗ると黒服のイケメンが、一瞬健人の顔を見てハッとした表情を見せたが、
すぐににっこり微笑んで頭を下げた。
「お待ちしておりました、浅香様。ご案内致します。どうぞこちらへ。」
チラッと目をやった一階のフロアは、すでにラストオーダーの9時半を過ぎていたので、
客は美味しい余韻に浸りながらコーヒーを飲んだり、デザートを食べたりしていた。
イケメンくんは受付すぐ横にある緩やかな木の階段を、ギシッギシッと
年代を感じさせる音をさせて登って行く。
雪見たちも後に続いたが、ピカピカに磨き上げられた手摺りが古き良き時代を感じさせ、
ちょっとしたテーマパークの中にいるような感覚に陥った。
「こんな街中に、こんな建物が残ってるなんて…。お店自体がご馳走みたいですね!」
雪見はレトロな感じが大層気に入り、上機嫌で後ろからイケメンくんに声を掛ける。
「ありがとうございます。こちらのお部屋をご用意させて頂きました。」
そう言いながら二階の一室のドアを開けると、すでにテーブルの上には
ワインクーラーに入った白ワインが、二人の到着を待ちわびていた。
席に着くと丁度のタイミングで前菜が運ばれ、冷えた白ワインがグラスに注がれる。
思わず雪見が「うわっ、美味しそう!」と声を上げた。
さぁ!二人きりのデビュー前夜祭の始まりだ!
ドアが閉められた後、「乾杯!」とグラスを小さく合わせる。
「うーん、美味しいっ!真由子、『お祝いだからワインも奮発しておいたよ!』
って言ってたけど、ホント高そうな味がする!」
「やっべぇ、マジ高そう!それにここって、なかなか予約が取れない店なんでしょ?
凄いね!真由子さんって。」
「うん、ラストギリギリの時間しか取れなかったって言ってたけど、丁度良かったよね!
これより早い時間は、健人くん無理だったもん!」
そう言った後はなぜか二人とも、照れて一瞬口をつぐんでしまった。
お互いの顔を、大きな三本のキャンドルの炎だけが照らし出す。
初めてのデートのように、ドキドキするのはどうしてだろう。
「えへっ。なんかいつもだって、家で二人きりでご飯食べてるのに、
シチュエーションが変ると照れちゃうねっ。なんでだろ。」
雪見が高級ワインをグイッと飲み干し、この状況を打開しようとした。
「ずーっとバタバタしてたもんね、今日まで。明日からはもっと忙しくなるし…。
丁度良かったよ。デビュー前に、きちんとゆき姉に話しておきたい事があったんだ。」
健人もグイッとワインを飲み干し、ふーっ…と息を深く吐いた。
「えっ?」
雪見は、ただのデビュー前祝いディナーのつもりが、健人の口から発せられた
「きちんと話しておきたい事」という想定外の言葉によって、ドキドキが
さらに加速してしまった。
「ち、ちょっと待って!いい話?悪い話?あ、もうちょっと後で聞いてもいい?
せっかくのご馳走が、喉を通らなくなると困るから!」
その時、次の料理を運んでイケメンくんが入って来た。
「あ、あのぅ、私達が最後のお客なんですよね?
お料理、全部いっぺんに出して頂いて構いませんから!デザートまで全部テーブルに
並べちゃって下さいっ!」
でも…と渋るイケメンくんを説得し、すべてが運ばれるのをじっと待つ。
最後のデザートとポットに入れられたコーヒーが、テーブルの上に窮屈そうに並び
「では、ごゆっくりとお召し上がり下さいませ。失礼致します。」とドアが閉められる。
その途端、雪見の心臓は再び大きくうねり出す。
やっぱり目の前のご馳走は、喉を通りそうもなかった。