悪い夢
『ゆき姉、こんなとこでなんで寝てんだろ…。一体この部屋で何してたんだ?』
そーっとドアを閉め、健人は部屋の中をぐるりと見回す。
ゆったりとした店内に比べ、そのオーナー室は想像外に狭かった。
鰻の寝床と呼ばれるような細長い造りの部屋で、片側を通路にして手前には
雪見が持ってきたと思われる花が飾られたデスク、その隣りに雪見の眠るシングルベッド、
一番奥に大きな書棚があるだけの、ごくシンプルな部屋である。
だがこれも宇都宮の遊び心なのだろう。
店内と同じに壁に取り付けられた、たいまつを模した間接照明が地下洞窟の隠し部屋を思わせ、
もしかすると書棚の奥に、秘密の通路でもあるんじゃないかと想像させられた。
「んなわけ、ないよね…。」
小さく呟いて健人は雪見の前を素通りし、書棚をちょっとだけ押してみる。
…んなわけ、やっぱりなかった。
「何やってんだ?俺。ゆき姉を迎えに来たんだっつーの!」
どうもこの部屋に入った者は、独り言を言いたくなるらしい。
「ゆき姉、起きて!ゆき…!」
雪見を起こそうと、健人が近づいたその時である。
閉じた雪見の瞳から、一筋の涙が頬を伝ってベッドにポトリと落ちた。
『えっ!?』
だが、起きてる様子はない。何か悪い夢でも見てるのか。
だとしたら早く悪夢から目覚めさせてやろうと、健人は雪見を揺り起こす。
「ゆき姉、起きて!ゆき姉!」
ハッと目を見開いた雪見は、目の前にいる健人に驚いた。
「健人くん!?うそ、本物の健人くんだ!
良かった…。どっかに行っちゃったかと思った…。」
雪見はベッドの上で天井を向いたまま、顔を両手で覆って涙を流す。
「どうしたのさ。悪い夢でも見てたの?俺はどこへも行かないよ。」
どんな夢を見てたのだろう。胸がキュンとして、雪見の頭をそっと撫でた。
「ゆき姉こそ、俺に黙ってどっか行くのやめてくれる?心配で心臓が痛くなったよ。」
心の底からそう思っていたが、ふざけた振りして心臓を押さえながら、
ばたりと雪見の隣りに倒れ込んだ。
「うわっ!このベッド、俺らの好きなやつじゃん!
なるほどね!これならゆき姉が熟睡するのも無理ないわ。
最近ずっと、あんまり寝てなかったもんね。
…ねぇ。一人でマスコミのインタビューに答えたんだって?どうして?」
健人が狭いベッドの上でうつ伏せに向きを変え、雪見の涙を指先でぬぐいながら聞いてみる。
「ごめん…。健人くんのファンを悲しませちゃいけないと思ったから…。
ステージの上から会場を見渡して、私一人のせいでこんなに大勢の人を、
悲しませちゃいけないと思った。だから…。
ごめんね、勝手な事して…。」
雪見が寝返りを打ち、健人にギュッとしがみつく。
そんな雪見が健気で可哀想で、健人も力一杯抱き締めた。
「俺こそごめん…。最後の挨拶で…みんなにゆき姉のこと言おうと思ってたんだ。
だけど…言えなかった。
当麻みたく言いたかったのに、ファンの顔見たら何にも言えなかった。
ほんっと情けない奴だよね、俺って…。」
そう言いながら、健人は自分で納得した。
だから俺はいつも、ゆき姉が自分の前から消え去ることに怯えてるんだ。
自業自得なんだ、と…。
しかし、その恐怖は雪見とて同じであった。
いつも悪い夢を見る。
健人が自分を捨て、もっと若くて可愛い人の元へ行ってしまう夢…。
結局、お互いがお互いを失う恐怖と戦いながら、毎日を暮らしている。
こんなにもすぐ隣りにいるのに。こんなにも相手を愛しているのに…。
いくら抱き締めてもキスしても、埋めることの出来ない何かがそこにある限り、
二人の間の微妙な誤差は、どんどん広がるばかり…。
その日のライブの打ち上げは、クリスマスの浮かれ気分も手伝って午前三時過ぎまで続いた。
そこでも終始仲の良い親戚を演じた二人は、ヘトヘトに疲れ果てて帰宅し、
ラッキーが倒したツリーを起こす気力もなく、ベッドに潜り込んだ。
それから三日後。
「あーあぁ!なんでクリスマスが終ると、こんなに疲れてんだろ?」
「それはね、あんたが年々老化してるからっ!」
雪見の問いかけに、容赦なく真由子が突っ込んだ。
ここ数年、クリスマスの二、三日後に、真由子宅で忘年会をやるのが決まりだ。
メンバーは勿論香織を加えての、いつもの三人。
例年だと、料理や酒の買い出しからイベントとして三人で楽しむのだが、今年は違ってた。
雪見がコンサートツアーの打ち合わせがあり、すべて準備が整ってからの参加になったのだ。
「いやぁ、すみませんねぇ!こんなご馳走作って頂いて。」
お客さんになって席に着いた雪見が、恐縮して頭をぺこりと下げる。
「雪見も、すっかり忙しい有名人になっちゃったもんね。
去年のこの日には、まったく想像もしてなかったわ。でも私、すっごく嬉しいの!」
いつも優しい香織は、今日も変らず穏やかな笑顔を雪見にくれた。
「別に、あんただけのために作った料理じゃないから!
あ!健人の分は冷蔵庫に入ってるから、帰りに忘れないで持ってってよ!
ちゃんと、『真由子が作ったの!』って伝えてよねっ!」
冷えたビールと一緒に席に着いた真由子が、いつも通りの毒を吐く。
「私も作ったのに…。」
可哀想に、アイドルおたくの真由子にかかっては、香織でさえも抹消されてしまうのだ。
「んじゃ、とにかく乾杯といきますか!一年お疲れ!カンパーイ!」
真由子の音頭で今年も忘年会がスタートした。
「あー、ウマイっ!やっぱ、このメンバーと飲むお酒が一番だ!
うわっ!このローストビーフのソース、めちゃめちゃ美味しいっ!
やだ、こっちの料理も新作でしょ?後でレシピ教えてよね!
あ、私が持って来たチーズも絶対美味しいから、次、ワインいっちゃう?」
スタートと同時に異常に喋りまくる雪見。思わず真由子と香織が顔を見合わせた。
「ねぇ、あんた。しばらく会わないうちにどうしちゃったの?
すっかり芸能人の仲間入りして、性格まで変っちゃったわけ?
それとも…健人となんかあった?」
明らかにいつもの雪見と違うテンションを、真由子は鋭く指摘する。
長年の親友とは、どうしていつもすべてをお見通しなんだろう…。
プツンと切れた真珠のネックレスのように、雪見の瞳から涙がコロコロ転がり落ちた。