悲しい酒
「みずきっ!」
人の大勢集まった居間にみずきが姿を現すと、皆から一斉に声が上がった。
「良かった!心配したぞ!時間が無いんだ。すぐに葬儀の打ち合わせに入ろう!」
宇都宮の事務所サイドと思われる人が、あっという間にみずきをさらって行く。
隣室の大きなテーブル周りには、宇都宮の事務所代表と、みずきの事務所代表、
両方のマネージャー、葬儀屋、コーディネーター、写真屋等々、あらゆる立場の人達が
宇都宮勇治最後の大舞台を作り上げようと、すでに席に着いて待っていた。
それにしても凄い人の数!
時間と共に人の出入りが一層激しくなり、芸能事務所関係者と思われる人達が、
ケータイ片手にあちこちと、慌ただしく連絡を取り合っている。
遺体の安置してある居間に続いた広い和室にも、早々に訃報を聞きつけ駆けつけた
近しい人々が溢れかえり、泣いたり眉をしかめて話し込んだり騒々しい。
あれじゃ宇都宮さん、ゆっくり寝てもいられないや。可哀想に…。
みずきから引き離された雪見は、誰も知る人のいない人混みに、ぽつんと
置き去りにされた迷子のように、ただその場に立ち尽くしていた。
『取りあえず役目は果たしたし、ここにいても邪魔になるだけだから、
一旦家に帰ろっか…。
でも、みずきさん、何か食べてくれるといいんだけど…。』
遠くのみずきに目を向けると、真剣な表情でみんなと打ち合わせをしている。
葬儀の準備に関しては、どうやら心配はなさそうだ。
だが、すでに憔悴しきっているのは明白で、ノーメイクのせいか顔色も悪い。
近くにいて世話を焼いてやりたいのは山々だが、今は葬儀の段取りに皆が忙しく、
どこの誰とも判らぬ雪見が入り込む隙間など、皆無であるのは明らかだった。
『大丈夫かなぁ、みずきさん…。心配だけど仕方ない。
仕事が終ってから夜にでも、また様子を見に来よう。』
誰も雪見になど気にも留めてないので、そのまま静かに帰ろうとした。
が、その時である。
「津山泰三さんが到着しましたっ!」と大声が聞こえた。
「おじいちゃん!」
その声に反応し、みずきがガタッと椅子を揺らして立ち上がる。
「ちょっと、ごめんなさい!」と言いながら、人をかき分けて玄関へと出て行った。
やがて人の壁が二つに割れ、あいだから出て来たのは、みずきが押す車椅子に乗った
津山泰三であった。
ざわついていた部屋が、一瞬でシーンと静まり返る。
雪見も、そのやつれ果てた津山の姿に息を飲んだ。
近くにいた人達のひそひそ話によれば、津山は宇都宮の最期をみずきと共に看取った後、
その場に倒れてそのまま入院したらしい。
「津山さん、大丈夫ですか?あまりご無理をなさらずに…。」
宇都宮の事務所の幹部らしき人達が、車椅子をぐるっと取り囲み、津山に弔問の礼を言う。
二言三言、言葉を交わして津山は、みずきに手を借りて車椅子を降りたあと、
一歩ずつ踏みしめて宇都宮の枕元へと座り、あぐらをかいた。
「ゆうちゃん、遅くなってごめんよ。一人で退屈だったろ。
舞台の準備が出来るまで、俺と一杯やって待ってよう。
家からとっておきの酒を持ってきたぞ!
ゆうちゃんが退院したら、一緒に飲もうと思ってた酒だ。おい!酒と茶碗を頼む!」
津山が、マネージャーに持って来させた日本酒の一升瓶を抱え、湯飲み茶碗二つに酒を注ぐ。
そのうちの一つを宇都宮の枕元に、もう一つを自分が持ち「お疲れ!」と言いながら、
ぐびっぐびっと中身を飲み干した。
「おじいちゃん!ダメよ、朝からそんな飲み方しちゃ!」
それを目撃したみずきが、再び打ち合わせを中座して津山に駆け寄る。
「どうだ、みずき!お前も一緒に飲まないか!」
「なに言ってるの!私は今それどころじゃないのよ!
お願いだから、大人しくしててちょうだい!」
みずきが苛立ちを隠せずに声を荒げた。
が、すぐに言い過ぎたと気付き「ごめん、おじいちゃん…。」と目をそらして謝ったあと、
打ち合わせの席に素早く戻った。
気まずい空気が部屋に重く垂れ込める。
だが皆は、何も見なかったふりをしてお互いお喋りを再開し、誰も津山の側に
近づく者はいなかった。
叱られて津山は、またひとり背を丸めて酒を注ぐ。
その姿に大御所俳優の威厳や光などはどこにもなく、ただの老人にしか今は見えない。
その一部始終を片隅で見ていた雪見は、その『ただの老人』が可哀想に思えて仕方なかった。
無二の親友を亡くし、どんなにか悲しみに打ちひしがれていることだろう。
それを涙ではなく酒によって紛らわそうとしてるのが、痛いほど伝わってくる。
『誰かそばにいてあげてよ!』
そう心の中で叫んで辺りを見回しても、誰もそんなことを気に留める者もなく、
それぞれが自分のことに忙しい。
雪見は一層『ただの老人』が哀れに思え、あろうことか次の瞬間無意識に
フラフラと歩き出し、気が付けば津山の横に座っていた。
「あの…。もし良かったら、私もご相伴させてもらっていいですか?」
その時の津山の驚いた顔といったら!
だが一番驚いたのは、そんなセリフを吐いて津山の横にいつの間にか座ってる
当の雪見本人だった。
「あ!いや、その…私、なに言ってるんだろ!ごめんなさい!失礼致しました!」
そう言って漫画のように、ピューッと立ち去ろうと立ち上がった時、
津山がガシッと雪見の手首を掴んで笑顔で見上げた。
「わしに付き合ってくれるのか?お嬢さん!そりゃ嬉しいぞ!まずは一杯。」
津山は、丸いお盆にたくさん載ってる湯飲み茶碗から、シワシワの手で
一つを雪見に差し出し、一升瓶を抱える。
雪見はもう引っ込みが付かなくなり、腹を決めて座り直し、茶碗を両手で受けた。
「ゆうちゃん、良かったな!綺麗どころが加わってくれたぞ!
やっぱり酒の席には若い娘がいないとな。楽しい宴会になりそうだ!」
どうやら津山は、一度『秘密の猫かふぇ』で雪見と飲んだ事を忘れているようだ。
と言うか、すっぴんで着の身着のまま飛び出して来た雪見に、気付くはずはなかった。
『宴会ぃ?さすがの私でも、朝から日本酒はきっついなぁ!
一杯ぐらいならって思ったんだけど。でも…。』
本当に嬉しそうに酒を飲んでる津山を見て、まっ、いいか!と開き直った。
忙しいみずきに代わって、自分が少しでも役に立てるなら。
そこに眠ってる宇都宮も喜んでくれるなら、それでいいやと思った。
午後からは健人くんと一緒に、雑誌の対談なんだけど…。