亡き父を想う時
「はぁぁ…。駄目だなぁ私って。なんでこんな時に熱出しちゃうんだろ。
打ち上げ、楽しみにしてたのに…。」
二次会を断念した帰りのタクシーの中。
隣の健人にもたれ掛かった雪見が、深いため息をつく。
「今日は仕方ないでしょ。相当熱あると思うよ。だって、めっちゃ熱いもん!」
雪見のおでこに手を当てた健人が、「寒くない?」と聞きながら自分のストールを外し、
雪見の首にクルクルッと巻いてやる。
「ありがと。健人くんは折り返し戻ってね。みんなが待ってる。
私なら心配いらないよ。帰ったら大人しく寝てるから。」
高熱のせいか、雪見は肩で息をしていた。
「こんな病人置き去りにして、自分だけ飲みに行くような、薄情な奴に見える?
いいんだよ、一次会はきっちり出たんだから。
きっと今頃当麻が、俺たちの分も盛り上げてくれてるさ。
それに常務が『業務命令だ!』って言ってただろ?業務命令違反は減給処分なのっ!」
そう言って健人が笑って見せる。
いつも、さり気ない健人の優しさに、雪見は救われるのだった。
夜が明けて朝7時。雪見はそっとベットを抜け出しシャワーを浴びる。
一晩中汗をかいたお陰で、どうやら熱はほぼ下がったようだ。
今日の午前中は撮影の予備日だったので仕事はない。
午後二時からは三人で、ツアー告知ポスターの撮影がある。
昨夜遅くまで台本を読みながら看病してくれた健人は、ギリギリまで寝かしてやろう。
雪見はコーヒーを落とし、カフェオレを作ってからパソコン前に座る。
高熱の後で少し頭は重たいが、どうやら風邪では無かった事に安堵し、
早速仕事の続きに取りかかった。
宇都宮のためにパソコン上で作ったアルバムを、一ページずつプリントアウトする。
愛しそうに猫に頬ずりする顔。みずきのことを、父親の優しい眼差しで見つめる横顔。
二人で寄り添い、健人の写真集を覗き込みながら見せる笑顔。
そこに写し出されているのは、眼光鋭い大俳優の顔ではなく、完全に素に戻った
娘を想う父の顔であった。
それを眺めてた雪見が、ふと亡くなった父を思い出す。
死んでから、もう23年も経つんだ。早いなぁ…。
父さんが生きてたら、今の私を見てなんて言うだろう。
ふらふらと色んな事に首を突っ込んで!って、カメラマン一筋に生きた父さんなら怒るかな。
それとも、たった一度きりの人生なんだ。好きなように、思い残す事なく生きなさい、
と励ましてくれるかな。
あ、でもその前に、33にもなって、まだ嫁にも行ってないのか!って
渋い顔をするかもね。
ごめんね、父さん。それはムリだわ。
だって私、あんな若いアイドルを彼氏にしちゃったんだから…。
宇都宮の写真に父の顔を重ね、久しぶりに心の中で対話していると、
寝室から『あんな若いアイドル』が起きてきた。
「おはよ!もう仕事してんの?熱は?」
びっくりしながら健人が後ろからおでこに手を回し、雪見の熱の具合を確かめる。
「うん、まぁまぁかな?これ、この前写した写真?」
焼き上がったばかりの一枚を手に取り、ワンショットずつ眺めた。
やっぱり雪見は凄いカメラマンなんだと改めて思う。
あんな大俳優が、人生最後の時を飾る大事な写真を、この人に託すのだから…。
「早く宇都宮さんに見せてあげたいの。仕事の前に病院へ届けようと思って。
そうだ!健人くんも一緒に行かない?宇都宮さん、健人くんの写真集見て、
会ってみたいって言ってたんだよ!健人くんと当麻くんに。
これからの日本を背負って立つ二人に、伝えておきたいことがあるって…。」
「えっ?」
雲の上の存在である大先輩の言葉が、嬉しくないはずはない。
だが…。その言葉に応えられるだけの実力が、果たして自分には備わっているだろうか。
託される言葉が、自分たち若手俳優への『遺言』となる事が判っているだけに、
二つ返事で「行く!」とは言えなかった。
「もう…会えなくなる人なんだよね、一生…。
私、演技の事はよくわからないけど、もし自分と同じ職業の大先輩が、
最後に何かアドバイスをくれるとしたら、私はその言葉を聞いてみたい。」
雪見は、亡くなった父のアドバイスを聞いてみたいと思った。
大先輩のカメラマンである、父の言葉を…。
「当麻…。じゃ当麻も連れて行きたい!俺一人なら、何を話せばいいのかわからないけど、
あいつと一緒なら、色々聞いてみたいことがある。」
「ほんと!?二人が来たら、絶対宇都宮さん、喜んでくれると思う!
ねぇ!当麻くんに電話してみて!車で迎えに行くからって。」
健人が「あいつ電話に出るかなぁ。」と言いながら、ケータイを取り出す。
確かに、二日酔いでダウンしてる気もする…。が、予想外にすぐ電話が繋がった。
「もしもし、当麻?俺だけど!昨日は悪かったな、一人で宴会係やらせちゃって。
もしかして二日酔いでぶっ倒れてた?え?飲んでる暇なかったって?ゴメンゴメン!
あのさぁ、仕事前に宇都宮さんのお見舞い行くんだけど、お前も一緒に行かない?」
健人からの突然の誘いに、ケータイの向こうから叫び声が聞こえた。
「うそっ!?マジ俺も一緒に行っていいの!?やばっ!どんなカッコしてけばいいんだろ?
めっちゃ緊張する!えー!少し酒臭いかな?どーしよう!!」
「なに、テンパってんの?一人で。そりゃ大先輩に初めて会うんだから
俺も緊張はするけど、別に怒られに行く訳じゃないんだから…。
十一時頃迎えに行くって、ゆき姉言ってる。んじゃ、後でね!」
電話を切ったあと、当麻の慌てっぷりを健人から聞き、雪見は大笑いした。
「それってまさしく、彼女の親に初めて会う彼氏の、王道の反応だよねー!」
「えーっ!?そうなのぉ!?そーいうこと?当麻とみずきって、デキテんのぉ?」
「いや、これからそうなると思う。私が見る限り、まだ付き合ってはいないな!
キャー!当麻くんの反応が楽しみっ!こうしちゃいられん!早く完成させなくちゃ!」
雪見は大急ぎで最後の仕上げに取りかかる。
だが、みずきに連絡することを、出掛ける直前まですっかり忘れていた。