長い一日の終わりに
「やっと終ったぁ!軽く打ち合わせとか言っといて、結局二時間もかかったじゃん!
俺、腹減って死にそう!早く飯食いに行こう!」
常務やマネージャー連中が出て行った会議室のテーブルに、当麻がぐだっと突っ伏して
悲鳴に近い声を上げた。
「ほんと、今日PVの打ち合わせするなんて、言ってたっけ?
明日って聞いてたけど…。」
健人が訝しげに首を傾げる。
「ごめーん!私のせい!私が突然事務所に顔出したから、常務がついでに今日やっちゃえって…。
しかも取材まで受ける事になるなんて、私も思ってなかったもん!
だって、私服にハゲハゲの化粧だったんだよ?恥ずかしかった!」
雪見の言葉に、当麻がムクッと頭を持ち上げて一言。
「で、誰が悪いの ?」
「はい、私です…。」
三人で大笑いした後、久しぶりに『どんべい』に行こう!と話がまとまりタクシーに乗った。
「めっちゃ久々じゃね?マスター、俺たちの顔忘れてるかも。」
「ほんと、三人で飲みに行くこと自体、久しぶりだよね。
けど、今日って土曜日じゃない?お店混んでそう!
私はいいとして、二人とも気を付けて入ってよ!バレないようにねっ!」
仕事帰りの開放感で、タクシーの中がウキウキしてる。
雪見にとっては、色々あった長い一日の終りに、こうして健人と当麻と一緒にいれる事が
とても嬉しかったし気が晴れた。
それは、ずっと雪見を案じていた健人にしても同じことで、とにかく雪見が
泣いたり落ち込んだりせず、笑顔で隣りにいる事に安堵していた。
当麻に気付かれぬよう、健人がそっと隣りに手を伸ばし、雪見がそこにいる事を
確かめるようにして、ギュッと左手を握り締める。
手のひらに伝わる温もりと、薬指の指輪の固い感触。
一瞬ドキッとした雪見だったが、すぐに健人の目を見てにっこりと微笑んだ。
『大丈夫!私はここにいるよ!』と…。
土曜の夜の『どんべい』は、冗談抜きに混んでいた。
キャップを不自然なくらい目深にかぶりマスクをした二人は、とんでもなく怪しかったが、
満員客たちはそれぞれのお喋りに忙しく、二人のことは幸いにして眼中に無かった。
カウンター内で焼き鳥を焼いてたマスターが、すぐに三人に気付く。
が、平静を装って「おう、いらっしゃい!久しぶりだね!」と一般客と同じ態度で迎え入れ、
『早く部屋に入んな!』と目配せした。
そそくさといつもの部屋に入り、ホッと一息。
キャップを脱いでマスクを外してると、いいタイミングでマスターがビールと焼き鳥を運んで来た。
「ちょっとちょっと!しばらくだったねぇ!三人とも元気そうで何よりだ!
まずは乾杯しよう!今日は俺のおごりだから。」
「何言ってるの、マスター!ちゃんと払うから心配しないで。」
「いや、そうじゃなくて、CDデビュー祝いの前渡し!
デビューしちゃったらさ、今以上忙しくなって益々来れなくなるだろ?
だからちょっと早いけど、今日祝ってやりたいの。
俺さ、もう自分の身内の事みたいに嬉しくて嬉しくて…。」
マスターの目がみるみるうちに潤んで、今にも涙が溢れそうだった。
「やだぁ!マスター、もう相当飲んでるでしょ?まぁ、取りあえず乾杯しよう。カンパーイ!」
雪見の音頭で飲み会がスタートする。
「マスター、こっちこそごめんね。
いっつもお店混んでるのに、いつ来るか解んない俺らのために、この部屋空けといてくれて。」
健人が申し訳なさそうに謝った。
「何言ってんだよ、水くさい!前に約束しただろ?
この部屋は永久に三人の専用部屋なんだから、余計な心配すんなって!
ま、時々俺が二日酔いで仕事サボるのに、使わせてもらってはいるけどね。
じゃ、料理いっぱい用意してくるから、ごゆっくり!
雪見ちゃん、ビールはセルフでお願いな!好きなだけ飲んでいいから。 」
「ありがとね、マスター!もし万が一ヒットしたら、恩返しするから!」
「じゃあ、何が何でもヒットしてもらわなくちゃな!」
マスターが高らかに笑いながら、部屋のふすまを閉めた。
「ほんと、いい人だよね、マスターって。いつか必ず恩返ししないとな…。」
健人がそう言いながら、ゴクリゴクリと喉を鳴らしてビールを飲む。
「あー、やっぱ仕事帰りの一杯って最高!
ねぇねぇ、そう言えばさ、レコーディング何回歌ってOK出たの?
今野さんが、最速記録を更新した!って騒いでたから。
俺らなんて、これでもか!ってくらい歌わされたのにさ。」
焼き鳥に手を伸ばしながら、健人が雪見に聞いてきた。
「うーんとね、着いてすぐウォーミングアップに一回でしょ?
そんで本番で二回歌ったかな?それで終った。
今考えたら、人生で一回きりの体験だったのに、あんまり記憶に残って
ないんだよね。もっと楽しめば良かったかな?
けど私って、最初の歌に全エネルギー注ぎ込んじゃうから、その後は何回歌っても
大した歌にはならないの。だから、まぁいっか!って感じで。」
「そーいうとこ凄いよね、ゆき姉って!豪快というか、何というか…。
こだわらないとこは徹底してこだわらない!みたいな?」
「なにそれ?健人くんだって同じじゃん!
洋服や髪型にはこだわるのに、部屋の片付けには、まーったくこだわらないでしょ!
この前、健人くんのマンション掃除に行ったけど、廃墟寸前だったよ!なんで、あーなるの?
あ、当麻くん、もうビール無いね。今持って来る!」
と、雪見が立ち上がろうとした時、今まで黙っていた当麻が急に口を開いた。
「ところでさ…。」
その言葉で雪見は、当麻が何を言いたいのかをすぐに理解した。
とうとう来たか…と覚悟を決めて座り直す。
きっと当麻はこのセリフのタイミングを、ずっと見計らっていたに違いない。
事務所の中でも、タクシーの中でも…。
健人にしたって、早く聞きたかったに決まってる。
『秘密の猫かふぇ』オーナーとみずきと、そして雪見の間で何が話し合われ、
どう決定が下されたのかを…。
それを充分解っていながらも雪見は、その時を延ばし延ばしにしてきてしまった。
「解ってる。みずきさんとの話し合いの事、聞きたいんでしょ?
ビール持って来てからでもいい?ちょっとだけ待ってて。」
冷たいビールを一気に飲み干したら、きちんと話すことにしよう。
そのために健人に会いに来たのだから…。