最期の芝居
しんとした病室に、コポコポとコーヒーが落ちる音だけが響く。
ここが病院の一室である事を忘れさせる芳しい香り。
この香りのお陰で雪見は、ひどく冷静にいられることに気が付いた。
「ブラックでいい?」 「ええ。」
本当は雪見も健人もブラックコーヒーは飲めないのだが、今はこの冷静さを保つため
あえてブラックで飲もう。気付け薬として…。
大好きな物を飲めない患者の目前で、飲み食いするのは大層気が引けたが
みずきが「気にしないで。」とケーキを頬張るのを見て、雪見もコーヒーにだけは口を付ける。
相変わらず苦い。充分、気付け薬としての役割を全うしてくれた。
「あの…。先ほどの失格とは、どのような意味でしょうか?
正直にお話します。本当は今日、すべてをお断りするつもりでここに来ました。」
「だったらそれでいい。みずきが君に頼み込んだようだが、すまんかったな。」
ベッドの柵越しに宇都宮の顔がある。
さっき雪見と猫の話をした時には、あんなに柔和な顔をしていたのに、
今は無表情に天井を見つめるだけだ。
「でも、さっき気が変わりました。私に『秘密の猫かふぇ』を手伝わせて下さい!」
「雪見さん!」みずきが驚いている。
「お話を聞いて下さい。先日、改装されたお店を拝見させて頂きました。
随所に猫の習性や気持ちを考えた改装がされていて、オーナーは心から
猫に愛情を注いでいらっしゃるのだなと感じました。
それに私とオーナーの夢はよく似てる気がします。
だからみずきさんに、『猫かふぇで夢を実現しないか?』と誘われた時は、
正直言って迷いました。
でも、どう考えてみても、私がオーナーを継ぐというのは違うと思うのです。
継ぐべき人は、他にいるはずです。」
そう言いながら雪見は、静かにみずきの方を見た。
「えっ!?」みずきが微かに動揺している。
避けたい事に対して、お鉢が回ってきそうな風向きに動揺してるのか、
それとも何か違う理由でもあるというのか。
「とにかく。オーナーを引き継ぐという選択肢は、私の中ではすでにありません。
でも、猫たちのために、私に出来ることでお店の手伝いをさせて頂きたいのです。」
「たとえば?」恐る恐るみずきが聞いてきた。
「たとえば、お店の猫たちの写真集を作って、猫のために寄付してくれた人にプレゼントするとか、
すべての猫のポートレートを店内に飾って、新しい飼い主捜しをするとか。
私に出来る事と言ったら写真を撮る事ぐらいしかないけど、それでも何か力になりたいの!」
雪見は、目の前に横たわる人の命の灯火が、あと僅かで消えてしまうことを肌で感じていた。
今日初めて会った人なのに、この人のために何かをしてあげたいと強く思った。
だが、宇都宮の返事は…。
「気持ちだけ、有り難く頂戴しておくよ…。私がこの世から去ってもなお、その思いが変わらなければ、
いつの日か店の猫たちに力を貸してやって欲しい。」
「どうして今じゃ駄目なんですか?私、写真なら仕事の合間にいくらでも写せます!」
「今の君は、猫のためにじゃなくて、この私のために何かをしようと思ってるはずだ。
私が求めている人材は、人のためにではなく、猫のためを一番に考える人材だ。
お客さんを一番に考えるのは接客係だけでいい。
死に行く老いぼれごときに、心を動かしているようでは失格ということ。」
宇都宮に心を見透かされた雪見は、返す言葉を失っていた。
自分の命よりも猫の命が大事。宇都宮の圧倒的な猫への愛に、打ちのめされた。
『私の半端な愛なんて、愛のうちに入らない。そういう事か…。』
自分は猫が大好きなんです!猫に対する愛なら誰にも負けません!みたいな顔をして
堂々と猫カメラマンを名乗ってたのに、砂粒ほどの愛のカケラしか入ってなかった気さえしてた。
「もう一度、あの猫を見せてくれんか。」うなだれる雪見に宇都宮が声をかける。
雪見は気を取り直し、またさっきの写真集を手に取ると、宇都宮の見やすい角度や
距離を気にしながらページを開いた。
「この猫の事がずっと気になってたんだ…。まさかこんな所で会えるなんてね。
最期に会わせてくれてありがとう。嬉しかったよ…。」
尻尾の曲がった三毛猫を見つめながら、宇都宮は一筋涙を流した。
人生の終演をまもなく迎えようとしているこの名優に、雪見もみずきも
涙をこらえる事など出来なかった…。
「あれで良かったんですか、オーナー。」雪見が帰ったあと、みずきが静かに聞いた。
「二人きりで居るときに、オーナーはやめなさい。
お前こそ、本当にいいのかい?女優業との両立はなかなか大変だぞ?」
「いいんです。覚悟を決めましたから。
まぁ、ほとんどは支配人にお任せしちゃいますけど。
私は猫たちのために、資産の運用さえしっかりとすればいいんですよね?」
「あぁ。あとは支配人に頼んでおくから。
それにいつか、雪見さんはきっとお前を助けてくれるだろう。
人にも猫にも心配りの出来る、優しい彼女のことだ。その時が来たら、必ず手を貸してくれる。
それを今日、この目で確かめられて安心したよ。」
「ごめんなさい、私のわがままでこんな事になって。
もっと早くに私が決断すれば、雪見さんにも迷惑かけずに済んだのに…。」
「今からでも彼女に本当の事を打ち明けて、サポートを頼んだ方が いいんじゃないのか?」
宇都宮が心配そうに、みずきの顔を下から覗き込んだ。
「いいえ、彼女はデビューを控えて、これからが一番大変な時。
彼女の心が読めちゃった以上、甘えるわけにはいかない。
お願いすれば彼女は、自分の気持ちを誤魔化してでも私を助けようとする。
私のせいで、彼との仲を壊したくはないから…。
でも、雪見さんが全てをお見通しだったのかと思って焦ったわ。」
そう言いながら、みずきがクスッと笑った。
「あれはきっと偶然だよ。彼女になら、なんでも話して大丈夫だ。
あんな人がお前のそばにいてくれるなら、お父さんは安心してあの世へ行ける…。」
「お願いだから、そんな事は言わないで。もう少し、私のお父さんでいて欲しかった…。 」
やせこけた頬に手を伸ばし、泣きながら何度も何度も撫でてみる。
この温もりが、一日でも長く感じられますように…。
みずきは、生涯を独身で通した宇都宮の、養子に出した隠し子だった…。