夢を持つことの意義
みずきから送られてきたメールの病院名を告げ、タクシーに一人乗る。
途中で花屋さんに寄ってもらい、まだ正体を知らぬ大物俳優のために
大きな花束を作ってもらった。
再びタクシーに乗り込み、窓の外を流れる景色を眺める。
街は、あと十日ほどで十二月が到来することを前提に彩られていた。
車が進むにしたがい、次第に不安が押し寄せて来る。
『ごめんなさい。今はお引き受けできません…。今はお引き受け出来ません…。』
心の中で呪文の練習をするかのように、何度も繰り返してみた。
『大丈夫、ちゃんと言えるから…。大丈夫、落ち着け、雪見!』
本当は自分が怖かった。命のカウントダウンが始まった人を目の前にしたら、
自分が違う事を言い出すのではないか、と…。
自分の意志を押し通せる状況に無い場合、私はどうするのが正解なのだろう。
答えは出ていたはずなのに。健人のそばにずっといるって約束したのに…。
段々と病院が近づくにつれ、雪見の心は反対に離れたがっている。
こんな事なら、もっと時間をかけてレコーディングしてくればよかった。今更ながらの後悔。
「着きましたよ!」無情な運転手の声でタクシーを降りる。
目の前には、大きな病院が立ちはだかっていた。
すでに診療時間の過ぎた、土曜日午後の病院ロビーは閑散としていて、
面会に来た家族と患者、あるいは入院中の彼女を見舞いに来た彼氏と彼女、
というような人達が数名、束の間のおしゃべりを楽しんでいる。
雪見も隅っこにあるベンチに腰掛け、みずきに『今ロビーについたよ。』とメールした。
すぐに、『今行くから。』との返事がある。
みずきは朝から、オーナーの病室にいたらしい。
程なくして、みずきがエレベーターから降りて、微笑みながら雪見の前にやって来た。
「お疲れ様!随分と早くに終ったのね!ビックリしちゃった。」
「うん!私って短期集中型なの。あ、これオーナーにお見舞い。
ここの病院、お花は大丈夫だった?今、お花を持ち込めない病院も多いから…。」
不安げにおずおずと差し出したが、みずきは笑顔で受け取った。
「ありがとう!綺麗なお花!オーナーの部屋は特別室だから、何でも有りなのよ。
さっそく飾らせてもらうわね!じゃ、行こう。」
と、みずきがエレベーターに向かって歩き出そうとした時、横から声が掛かった。
「あのぅ…、華浦みずきさん…ですよね?私ファンなんです!サインもらえますか?」
見ると、さっきロビーで彼氏らしき人と楽しそうにお喋りしてた、若い女の子だった。
どうやら雪見の手渡した大きな花束が、えらくみずきを目立たせてしまったらしい。
つぐみと同年代ぐらいに見えるその子は、パジャマの襟元からのぞく肌が抜けるように白く
はかなげだが、なぜか髪が巻き髪で、パジャマ姿には不釣り合いなキャスケットを被っている。
「こんなのしかなくてごめんなさい!」
そう言いながら彼女が差し出したのは、薬の入った袋とボールペンだ。
「ここに小さくていいです。サインと一言、頑張れ!って書いて もらえれば…。
そしたらこれを見ながら、まだまだ治療を頑張っちゃいます!」
可愛くガッツポーズをした。
「いいですよ。お名前は?あ、袋の表に書いてあるよね。え?なんて読むの、これ?」
「読めないですよね!一つの夢って書いて、そのまんま『ひとむ』って読むんですけど。
田中一夢って言います。男の子の名前みたいですよね。
けど親が、一つの夢に向かって生きて行くようにって付けたらしくて、
今頃やっと自分の名前が好きになったとこです。」
「そう!素敵なお名前ね!あなたの夢はなに?」
雪見に花束を持ってもらい、近くの壁に薬袋を押し当てサインをしながら彼女に聞いた。
「優しいけど時々怒る看護師さん!ワガママばっかり言う弱気な患者を、本当のお姉ちゃんみたいに、絶妙なタイミングで叱れる看護師になりたい!
私の担当の看護師さんが、まさしくそんな人なんです。
だから私、ここまで頑張ってこられた。癌なんですけどねっ。」
彼女は笑っていた。向日葵のように輝く笑顔で。
「なれるわよ!あなたなら、きっとなれる!応援してるから頑張ってね。
あ、けどこの袋、間違って捨てちゃわないでよ!」
そう笑いながら彼女に返した袋には、『一夢さんへ 強く願えば夢は叶う!』
と書いてあり、みずきのサインと今日の日付が入れてあった。
「雪見さん、お花何本かもらってもいい?」
「もちろん!」
雪見が差し出した花束から、みずきは彼女に似合いそうな花を五、六本引き抜き、
「はい!私からのお見舞い!って、本当はこっちのお姉さんからもらったお花なんだけど。
あ、いいこと教えてあげる!このお姉さん、これからデビューするアーティストなの!
すっごく素敵な歌を歌う人だから、よく覚えておいてね!」
いきなりみずきに紹介されて、雪見は慌てた。
「えーっ!そうなんですかぁ!?どうりで綺麗な人だと思ったんだぁ!
あの、サインもらってもいいですか?」
彼女は二人ともが芸能人だと解って、えらくテンションが上がってる。
柱の陰でコソコソやってたのだが、徐々に人の集まる気配がしてきた。
雪見の事は誰も知らないが、みずきの事は誰もが知ってる。早くこの場を立ち去らなくては。
「あー、ごめんなさいっ!まだサインの練習してなくて。
浅香雪見って言います。もし良かったら応援して下さいね!じゃ、お大事に!」
最後に急いでみずきが握手をし、足早にエレベーターに飛び乗った。
「ふぅぅ…。危うく騒ぎになるとこだった!
ごめんね!雪見さんの歌の歌詞、勝手に彼女に書いちゃった。頭に浮かんできたから…。」
「いえいえ、光栄です!」
「抗癌剤で髪が抜けちゃったのね、彼女。だからかつらに帽子被って…。
一番おしゃれを楽しみたい年頃だものね。
でも、彼女の明るい前向きさがあれば、きっと乗り越えてくれると思う。
夢に向かって生きるって、大切な事だよね…。」
そう言ったあと、みずきは急に黙り込んだ。
みずきが何を言いたいのかを、その沈黙の余韻の中から雪見は感じ取る。
上へ上へと上るエレベーターの中、二人はそれ以上何も語らなかった。
「チン!じゅうにかいです」機械的な音声が響き、扉が開く。
「着いたよ。オーナーが待ってる。行こう。」
みずきがスタスタと、病室に向かって足を進めた。
その後ろを、重い足取りの雪見が背中を見つめる。
と、鞄の中のケータイが、音の無いままブルブルと震え出した。
見るとそれは健人からのメール。
今、ここで見るわけにはいかない。心がぐらついてしまう。
雪見はケータイを開きもせずに、また鞄に押し込んだ。
この扉の向こうに待ってる人は、一体誰なの?