約束
「ごめーん!定休日だった!せっかく健人くんに、私のイチ押しパスタ
ご馳走しようと思ったのにぃ!」
『秘密の猫かふぇ』を出た二人は、健人のレコーディング前に腹ごしらえしようと、
雪見の行きつけカフェにやって来た。
が、月に一度しかない定休日が、運悪く今日だったのだ。
「いいよ、ドライブスルーのハンバーガーで。今はあんまり騒がれたくない気分。
スタジオの近くに、公園の駐車場があったよね?
そこに車止めて、時間までゆき姉と二人でいたい。」
レコーディングスタジオ集合まであと二時間。
またナーバスになってきた健人を、少しでもリラックスさせて送り出すのが私の使命!
今日はなんでも健人の言う事を聞いてあげよう。
「よし!じゃあ私はベーコンレタスバーガーにしよーっと!」
ドライブスルーで昼食を買い込み、スタジオ近くの公園駐車場に車を止める。
「たまにはこんなデートもいいね。一緒に暮らし出してから、どっかに出掛けるって
めったに無くなったもん。二人で旅行とか、行きたいなぁー!」
雪見がハンバーガーを頬張りながら、あれこれ健人に話しかける。
だが健人は口数も少なく、スモークガラス越しのグレーの景色を眺めるばかり。
『そっとしておいた方が良さそうかな…。』
そう思いながら雪見はコーヒーを飲み、外に目をやる。
と突然、「あ、猫!」と健人が一言。
「うそっ!どこどこ!?」
「あそこ。」健人の指差す方には、確かに白い猫がいた。
しかし、猫と言う言葉はこんな時、言ってはいけないNGワードだ。
雪見のカメラマンスイッチをONにしてしまい、健人の事など忘れ去られるに決まってる。
案の定、次の瞬間にはすでに鞄からカメラを取り出し、ドアを開けて飛び出して行った。
雪見が真剣な顔でシャッターを切る様子を、車の窓越しに眺める健人。
今にもまた寝転がりそうな勢いで、見てる方がヒヤヒヤしてくる。
すると猫の前にしゃがみ込んだ雪見が、健人に向かって手招きをした。
キャップを目深に被り、辺りをうかがって車の外に出る。
「見て!この子、もうすぐお母さんになるんだよ!」
見ると白猫のお腹は、はち切れんばかりに膨らんでる。
「ほんとだ!全然逃げない人懐っこい猫だね。」
「子供が出来てから捨てられた猫だよ、きっと。可哀想に…。」
よく見ると確かに、ずっと野良猫だったという毛並みではない。
「元気な赤ちゃんを産むんだよ。」
雪見は涙を浮かべ、いつまでも白猫の頭を撫で続ける。
気持ち良さそうに撫でられた後、その猫は満足したように歩き出した。
「連れて帰りたかったでしょ。」健人が猫を見送りながら雪見に聞く。
「仕方ないよ。うちのマンション、動物は二匹までの決まりだから…。」
撮影旅行中も、こんな猫には時々出会う。
その度に人間の身勝手さに怒り悲しみ、それと同時に何も出来ぬ自分が嫌になる。
「はぁぁ…。」雪見がしゃがんだままため息をついた時、健人がぽつりと背中から言った。
「やりなよ。」
「えっ?」
雪見には健人が何を言っているのか、すぐには解らなかった。
「猫かふぇのオーナー、やってみれば?」
健人の言葉に驚いて雪見は立ち上がり、振り向いて顔を見つめる。
眼鏡の奥の瞳はいつも通りに優しかった。
が雪見には、その瞳が嘘をついてるようにも思えた。
「だって店の資金は全部、今のオーナーが出してくれるんでしょ?
基本方針さえ守れば、あとはゆき姉の好きなようにやっていい、って言ってくれてるんだから。
自分の思うようにやってみればいいじゃん。」
「だめ…。今はまだできない…。」
「なんで?ゆき姉の夢がすぐに実現するんだよ?こんなチャンスないだろ!」
健人は少しいらついたように大きな声を出してしまい、何人かの人が振り向いた。
「ごめん。とにかく車に乗って話そう。」
車に乗ってはみたものの、健人は黙り込んでいる。
雪見は、レコーディング前に健人の精神状態を悪くしてしまった事を後悔した。
時間も無い。きちんと自分の気持ちを話して、健人を落ち着かせなくては…。
「健人くん。私の正直な気持ちを聞いて。確かに、こんなチャンスは二度と無いと思う。
私の夢を実現するのに、一番大変なのは資金の調達だから。
今この話を受けたら、そんな苦労も無く夢が実現する。
でもね…。こんな話を今するのは不謹慎だけど、現実問題として赤の他人の遺産で
私の夢を実現するって事でしょ?
私が孫であるとか親族なら、有り難く遺志を継ぐ。
だけど私は、みずきさんのただの知人。オーナーとは縁もゆかりもない。
そんな私が後を継いで、自分の夢を実現するって言うのは違うと思うの。」
しばらくの沈黙の後、健人がやっと口を開いた。
「でも…。オーナーに残された時間は少ないんだよ。
みずきが他の人を捜してる時間なんて、あるかな…。」
「そうだね…。難しいかも知れないし、反対に思いっきり簡単かも知れない。
猫好きなんていくらでもいるし、あなたをオーナーにしてあげます!
なんて言ったら、二つ返事で引き受ける人は大勢いるのかも…。」
「そうだよね。そんな夢みたいな話、そうそう無いもんね。
じゃあ、ゆき姉が断ったって、そんなに困らないか!
良かった…。本当は引き受けるんじゃないかと思ってた。
そしたらゆき姉とは、すれ違いの生活になっちゃうのかな、って…。」
健人の顔に、少しずつ笑顔が戻ってきたようだ。
「私、やるなんて一度でも言ったっけ?最初から心は決まってたよ。
今の私は、健人くんのためだけに生きる、って…。
健人くんが毎日仕事を頑張れるように、美味しい料理を作って疲れを癒やしてあげるのが
私の仕事だなって。ちゃーんとそばに居るから、安心して。」
そう言って雪見はにっこり微笑んだ。
「ほんとだね?俺のそばにずっといてよ!」
「うん!約束!あ、でも、まずは今日のレコーディング、頑張ってよねっ!
私が大好きなイケメン俳優斎藤健人は、仕事に関してはいつも完璧にこなすんだから。」
「よっしゃ!任せといて!なんか、今ならめちゃめちゃ上手く歌える気がしてきた!
じゃ、最後まで頑張れるおまじないして!」
また雪見にだけ見せる甘えた顔で、子供みたいにおねだりをした。
「しょーがないなぁ!」
そんな顔してこっちを見られたら、キスするしかないじゃない。
雪見は健人の耳元で「だーい好きっ!」とささやいたあと、長い長いキスをした。
大丈夫。どんな時でも自分の力を信じて。
さぁ、新しい世界の扉を開けに、行ってらっしゃい!