小さな約束
「どこで何して来たわけ!?転んじゃったの?」
健人が駆け寄り、雪見のコートの泥をパタパタと払ってくれる。
「やだぁ!私、こんな格好でここまで来たのぉ?
ロビーでみんなが私のこと見てるから、ちょっとは有名人になったんだ!
って思ったのに。恥ずかしいっ!」
「で、どうしたのさ?この泥。」当麻が笑いながら聞いてきた。
「レッスン終った後、少し時間があったから公園で猫撮ってたんだけど…。
多分夢中になって、いつもの仕事みたいに寝転がっちゃったんだと思う。」
「思う、って自分じゃ覚えてないの?しっかりしてよ!ゆき姉。」
健人は半ば呆れながら言ったのだが、改めてよく判ったことがある。
雪見は本当に猫が好きなんだ、根っからの猫カメラマンなんだ、と言うことを…。
雪見は、お気に入りのコートを汚してしまい悲しかったが、そのお陰で
健人と当麻の間に笑いが生まれ、ギクシャクしていた二人の関係に少し
和んだ空気が流れてくれたので、それで良しとした。
「放送一分前です!」スタジオの中がいつも通りの緊張感に包まれる。
「ゆき姉?なんか顔が赤いけど、そんなにスタジオ暑い?」
向かい側に座る当麻が、雪見をふと見て聞いた。
「え?あぁ、なんかバタバタしちゃったからかな?大丈夫だよ、気にしないで。
さぁ!今日も気合い入れて行こう!」
そうは言ったものの、雪見は解熱剤が切れかかり、徐々に寒気に襲われ出した。
本当に気合いで乗り切らなくちゃ…。
「めっきり空気が冷たくなった今日この頃だけど、みんなは風邪なんか
引いてないかな?三ツ橋当麻です。
今日も健人とゆき姉を迎えて、30分たっぷりとおしゃべりや音楽をお届けします。
では、『当麻的幸せの時間』、今週もスタート!」
当麻のタイトルコールによって、30分の生放送が始まる。
体調が次第に悪くなってきた雪見にとって、ゴールは遙か彼方に思えた。
健人と当麻は何事も無かったかのように、相変わらず息のあったトークで盛り上がるが、
雪見は頭がボーッとして、最小限相づちを打つのが精一杯。
寒気はどんどん増すばかりで、かなりの高熱が予想できゾッとする。
『ヤバイよ、ヤバイ!寄りによってこの時期に熱出すなんて、タイミング悪すぎ。
みんなにバレないように、早く治さなきゃ!明日病院行く暇あるかな…。』
そんなことを考えてて、雪見は二人の会話が上の空だった。
「…だろぅ?で、ゆき姉はどう思う?」
「へ?何が?」
「何が?って…。さては俺の話を聞かないで、晩飯の事でも考えてたでしょ!まったく。」
「えへへっ!ばれちゃった?」
どうにかこうにか乗り切って、やっと本日の放送もエンディングを迎える。
「では、また来週金曜日にお会いしましょう!お相手は三ツ橋当麻と…。」
「斎藤健人。」「浅香雪見でした。バイバーイ!」
「はい!オーケーです!お疲れ様でしたぁ!」
の声を合図に、雪見は大きく「ふぅぅ…。」と息を吐く。
そして、一刻も早く家に帰らなくちゃ!と誰よりも先に放送ブースを飛び出した。
「お疲れ様でした!お先に失礼しまーす!」
スタッフに挨拶して出て行こうとしたとき、後ろから当麻に呼び止められる。
「えっ?もう帰っちゃうの?ゆき姉、反省会は?」
「すべて反省してます!ごめんなさい!ってことで、よろしく。またね、当麻くん!」
どうにか今日一番の笑顔を作って、スタジオを後にした。
酔ってもないのに足元がフワフワしてる。
なんとかタクシーを拾い、マンションに到着。
真っ先にキッチンに直行したのは、健人との約束を守るため。
最後のエネルギーと気力を全部使って、大好物のチーズハンバーグをなんとか作り終えた。
あとはサラダと卵スープで、今日の晩ご飯は勘弁してもらおう。
テーブルの上に料理を並べてホッとした途端、雪見は電池の切れた人形のように
身体の自由が利かなくなり、カクンとソファーに座り込んでしまった。
「もうだめ…。動けないや…。」
そのまま気を失うかのように、スーッと眠りに落ちてゆく。
それから二時間ほどが経った頃、予定通りに仕事を終えた健人が帰って来た。
「ただいまー!やった!ハンバーグのいい匂い!」
玄関先で健人の声が聞こえた気がして、雪見は虚ろに目を開く。
頭では、ソファーから立ち上がり、玄関へ「お帰り!」と出迎えに行こうとしてるのだが、
身体が鉛のように重たくて言うことをきかない。
そうこうしてるうちに健人がリビングに入って来た。
「ただいま!腹減ったぁ!ゆき姉のハンバーグ、楽しみに…。
ゆき姉?どうしたの?コート着たままで。めっちゃ顔赤いけど…。」
明らかに雪見の様子がおかしい事に気付いた健人が、雪見の頬に触れて驚いた。
「嘘だろっ!?凄い熱だよ!もしかして、ラジオ局に居たときから?
なんであの時言わなかったのさ!早くベッドで寝なきゃ駄目だ!立ち上がれる?」
「私なら大丈夫だから、ご飯食べて。あ、でも冷めちゃったね…。
ごめん、作りたてを食べさせたかったけど、今日は無理だった。
お風呂もまだ沸かしてないや…。」
「そんなこと、どうでもいいって!今、薬持ってくる!」
健人は救急箱から解熱剤を取り出し、水と共に雪見に手渡した。
「ありがとう。一晩寝れば熱は下がると思うから…。
こんな時に風邪引くなんて、アーティストになる自覚無さ過ぎだよね。
健人くんに移すわけにいかないから、私はここで寝る。」
「何言ってんの!病人をこんなとこに寝かしておけるわけないだろっ!
ちゃんとベッドで寝なきゃダメだって。ほら、着替えて大人しく寝なさい!」
健人が雪見の手を引いて寝室に連れて行こうとするが、雪見はその場を離れようとはしなかった。
「わかった。でも健人くんがご飯食べてる間だけ、ここにいさせて。」
「しょうがないなぁ!ゆき姉はそういうとこ、頑固なんだから。
少し元気になったみたいで良かった。じゃ、急いで着替えて来るね。」
健人が、「めちゃめちゃ美味いっ!」と言いながらハンバーグを頬張るのを、
雪見は嬉しそうに眺めている。
そのうち安心したように瞳を閉じて、すやすやと眠ってしまった。
食事を終えた健人が、そっと雪見をソファーから抱き上げる。
『こんなに熱があるのに、俺とのこんなちっぽけな約束を守ろうとして…。
ありがとね、ゆき姉。』
愛しくて愛しくて胸が熱くなる。
腕の中にいる雪見は、少しだけ土の匂いがした。