感謝の気持ち
雪見のバッグの中で、ずっしりとその存在をアピールする健人の写真集。
その重みは二人の愛の重みにも思えてきて、大事に抱え込むようにして
歌のレッスン前に事務所へ寄った。
「お疲れ様です。小野寺常務はいらっしゃいますか?」
解熱剤が効いてきて、少し楽になった身体で受付嬢に聞いてみる。
「常務は明日まで大阪出張です。あ、今野部長なら戻られてますけど。」
雪見にとっての今野はマネージャーであるのだが、事務所での肩書きは
マネジメント部長なのだ。
そんな偉い人が、健人から私のマネージャーになってくれたなんて、
今更ながら二人には申し訳ない気がした。
それと同時に心遣いに感謝して、何が何でもこの写真集とCDデビューの成功を、
お世話になった今野にプレゼントしなくては!と気を引き締める。
雪見は今野のデスクへ飛んで行き、目の前に写真集を差し出した。
「お疲れ様です!今野さん、やっと出来ましたよ写真集!
あとは少しだけ手直しして完成です。見てもらえますか?」
「とうとう出来たか!どれどれ…。」
今野が真剣な顔をして、ゆっくりとページをめくってゆく。
雪見は緊張の面持ちで、今野の表情の変化を伺った。
「いいねぇ!俺の見てきた素の健人だ。
いや、俺でさえ見たことない健人の方が多いかも。
これはファンにとっては、たまらん写真集だぞ!」
今野がニコニコしながら見入っているのを見て、雪見はホッと一安心した。
「あいつは幸せな奴だよ。こんな腕のいいカメラマンに写してもらったんだから。
ありがとな!雪見ちゃんのお陰で、今までで一番の写真集に仕上がったよ。」
「とんでもないです!私の方こそ、ただの猫カメラマンだった私に
こんな素敵な仕事を任せていただいて、今野さんには心から感謝しています。
本当にありがとうございました!」
雪見は頭を下げながら、初めて今野に会った日の事を思い出していた。
真由子の家で健人の写真集を目にし、突然思い立って何かに引き寄せられるように事務所に来た。
アポも取ってなかったのに、タイミング良く今野と健人が帰ってきて、
「私に健人の写真集のカメラマンをやらせて欲しい!」と直訴したっけ。
あの日が無ければ、今の私と健人もいなかった…。
今野が最後のページをめくると、そこには各人に宛てたお礼の言葉が
健人自身の字で書かれており、デビューからずっとマネジメントをしてくれてる
今野に対する感謝の気持ちも、健人らしい言葉で綴られていた。
「あいつめ!泣かせるようなこと書きやがって!健人の策略か?」
顔は笑っていたが、瞳には涙が光っている。
その涙は気付かぬ振りをしてあげよう。
「あ!健人くんには写真集が仕上がったこと、まだ内緒にしといて下さいね!
いきなり見せて、ビックリさせたいから。」
「了解!もうそろそろレッスンだろ?今日も頑張っておいで!」
「はいっ!頑張ります!」
雪見は、今野が喜んでくれた事が嬉しくて、上へ行くエレベーターを待つ間、
勝手に顔がにやけていたのだと思う。
「チン!」という音と共に開いた空間の中には、驚いた顔の当麻が立っていた。
「当麻くん!」
驚いたのは雪見も同じだ。事務所に来たのかと思って横によけたが、
降りる気配が無いのでエレベーターに乗り込んだ。
見ると、雪見が押そうと思っていた階のボタンが、すでに押してある。
「もしかして、当麻くんもレッスン?」
「うん、まぁ。今しか時間が取れないから…。」
とだけ会話して、あとは気まずい沈黙が流れた。
一週間前の「みずき事件」以来、健人と当麻の仲はギクシャクしているらしい。
当事者の雪見は、当麻がみずきを気にかけ出したのが判っていたので、
みずきの肩を持つのも当然か…と案外冷静だったのだが、健人は雪見を思うあまり
まだ当麻を許せずにいる。
今日のラジオ出演も、どんな風に二人を取り持とう…と頭を悩ませていただけに、
雪見は予定外の当麻との遭遇に戸惑っていた。
「あのさぁ…。」
当麻が何かを言いかけたところでエレベーターは到着。
ドアが開くと、レッスンを終えたばかりらしい当麻の後輩達が「お疲れ様です!」と
二人に進路を空けた。
「お疲れ!」
当麻がそのままスタスタ歩き出すので、雪見も慌てて「お疲れ様です!」と
若き先輩達に頭を下げながら、当麻の背中を追いかける。
と、急に当麻が立ち止まったので、危なく衝突寸前であった。
「なんなの!?」
「みずきを…、許してやってね。」
当麻は振り向きもせず後ろを向いたまま、ぼそっと言った。
「私は別に何とも思ってないよ、みずきさんの事。」
そう告げると当麻はクルッと回れ右をし、「本当に?」と聞く。
きっと当麻も一週間、彼なりに色々考えていたのだろう。
その瞳があまりにも真剣過ぎて、中途半端な言い方はできないぞと思った。
「だけど、頼みを聞くか聞けないかは別問題だから。」
「もう…結果は出したの?」
「まだ。そう簡単に解けるような宿題じゃない。私の今後の生き方に関わる問題だから。
多分、最後の最後まで悩み続けると思う。」
「そうだね…。じゃ、また後で。」
当麻はそう言って、自分のレッスン室へと消えて行く。
横顔に、少し落胆の色を滲ませながら…。
その日雪見のレッスンは、風邪のせいも半分はあるが、心も身体も喉の調子も悪くて、
一週間後が憂鬱になるほど散々な内容であった。
午後三時半。レッスンを終え、ラジオ局へ向かう前に考え事がしたくて
事務所近くにある大きな公園へと歩き出した。
途中で温かな缶コーヒーを買い、ポケットに忍ばせる。
誰も座っていないベンチを見つけ、ふぅ!と座り込むと同時に視線の先に、
タイミング良くなのか悪くなのか、よもぎ色の猫を発見してしまった。
野良猫を目にしたら最後、黙って眺めていられる雪見ではない。
その時点で、なぜここに来たのかは頭の中から削除され、反射的に鞄の中から
カメラを取り出し猫に近づいていた。
「いい子だねぇ!少しだけ撮らせてね。」
その猫はこの公園で餌をもらって生活しているらしく、人慣れしてて
雪見がカメラを構えても逃げようともしない。
嬉しくなって夢中でシャッターを切り続け、危うく時間を忘れるところだった。
「やばっ!もうこんな時間!遅刻しちゃう!」
慌ててタクシーを拾い、ラジオ局へと駆け込んだ。すでに健人も到着している。
「ギリギリセーフ!間に合ったぁ!」
ところがみんな、ギョッとした顔してこっちを見てる。
「どうしたの!?ゆき姉、その格好!」
健人が目を丸くして指をさすので、変なコーディネイトだったか?と
自分の格好を改めて見直すと、お気に入りのコートが泥だらけでビックリ!
どうやら雪見は無意識の内に、いつもと同じく寝転がりながら撮影をしていたらしい。
大勢の人がくつろぐ都心の公園で…。