眠れぬ夜
「あれ?ゆき姉、どうかした?」
健人にかかってきた電話の後、ビールがそのまま雪見の前に放置されてるのを見て、
健人が顔を覗き込む。
「え?あ、あぁ、なんでもない。大沢さんって言うんだ。
一応私も三月までは同じ事務所だから、いつか会う事があるかな?」
ほんとはそんな事、聞きたいわけじゃないのに、どうしても本心は言えなかった。
『彼女とは、仲良しなの?』って…。
画面の中の「ガリ勉くん」は、少しも「ガリ勉くん」ではなかった。
卒業アルバムの中の彼女は、黒髪を二つに縛り眼鏡をかけた、ニックネーム通りの人に見えたが、
今、画面の中で健人に寄り添い微笑む彼女は、男子なら誰もが好きになりそうな
可愛いくて優しげな人だった。
これ以上彼女を見てはいけない気がして、席を立つ。
「ビール取ってくるね。」と…。
あとはテレビの隅に視線を移し、見ているふりをして時をやり過ごす。
夜中の二時。
すでに雪見の隣で寝息を立ててる健人の横顔は、いつもと何も変わらず
薄明かりの中にも綺麗なシルエットを描いている。
いつまでも眠れずに、じっとその顔をのぞき込んでいると、『秘密の猫かふぇ』に
健人と二人で初めて行った時のことを、ふと思い出した。
『あの時もこんなふうに、健人くんの寝顔をずっと飽きずに眺めていたっけ。
写真集用にこっそり寝顔を撮影したり、ほくろの数を数えたりしたんだよね。
そう言えば今日あたり、みずきさんと仕事だって当麻くんが言ってた。
猫かふぇの事、なんか聞けたかなぁ。あそこの猫たちは、今頃どうしてるんだろう…。』
健人の足元で二匹寄り添い、安心しきって眠るめめとラッキーを見ていると、
猫かふぇの猫たちが不憫で心配で仕方なかった。
『明日必ず当麻くんに聞いてみよう。いや、みずきさんに直接会って、話が聞きたい!』
これまで、周りに流されるようにして、本業以外のことに時間を費やしてきたことを、
少なからず後悔し始めた。
『どうしてもっとあの猫たちと、積極的に関わってこなかったのだろう。
私は野良猫を写して歩く、猫カメラマンだったはず。
私の夢は何だった?
無人島で、捨て猫たちのお母さんになりたいんじゃなかったの?
だったらまずは身近な猫たちに、手を差し伸べてもよかったんじゃないの?』
今まで何度も何度も、思っては打ち消し、思っては打ち消ししてきた心の叫びが、
また耳の奥で聞こえた気がした。
『早く、元の自分に戻りなさい。』と…。
いよいよ眠れなくなった雪見は、健人を起こさぬようにそっとベッドを抜け出し、
隣りの仕事部屋のドアを開け、間接照明をつける。
すると、壁一面に張られた猫の写真が、ほんわりと浮かび上がった。
今までに雪見が出会った野良猫たちだ。
それらの猫たちに一通り目をやった後、雪見は書棚から数冊の写真集を手に取り、
デスクの前に座った。
『この写真集は京都で写したやつ。こっちは北海道で、これは沖縄。
ほんと、北から南まで、色んな所に行ったよなぁ。
お金が無くて貧乏旅行だったけど、猫のお尻を追っかけているだけで、
毎日が単純に幸せだった。』
じゃ、今は?と、もう一人の自分が聞いてくる。
『今は…。
健人くんと一緒にいれるんだから、幸せなんだよね、きっと…。』
雪見は、一ページずつ写真集をめくって眺めるうちに、いつの間にか
デスクの上に突っ伏して眠ってしまったらしい。
早朝、健人の声にびっくりして椅子から転げ落ちそうになった。
「ゆき姉!なんでこんなとこで寝てんのさ!風邪ひくよ!」
「え?うそっ!私寝ちゃってた?今何時?」
「七時だけど。」
「ええっ!?七時って、あと三十分で健人くん仕事じゃない!」
健人が自分で起きてくれたから良かったものの、すっかり寝過ごしてしまった雪見は、
顔も洗わずに大至急、野菜ジュースとホットドッグの簡単朝食を用意し、
健人に車の中で食べてもらうことにした。
「今日はこんな朝ご飯でごめん!及川さんの分も入ってるから、二人で食べて。
私は歌のレッスンのあとにスタジオ行くから、また後でね。いってらっしゃい!」
めめとラッキーと一緒に、玄関先で健人を見送った。
今日は午後から、健人、当麻と三人で『ヴィーナス』のグラビア撮影が入っている。
本当は今日撮影する12月20日発売の2月号で、健人の写真集のためのグラビア連載は終了予定だったが、
三人のCDデビューが決まり、全国ツアーのスポンサーに『ヴィーナス』が決まったので、
3月20日発売号までは、毎月三人のグラビア登場が決定していた。
午後三時。事務所でレッスンを終えた雪見が、一番乗りで撮影スタジオ入りする。
「おはようございまーす!今日もよろしくお願いします!」
「おはよう!こっちこそよろしく!あとの二人が来ないうちに、早速準備を頼むよ。」
カメラマンの阿部が、撮影の段取りをしながら雪見に言った。
メイク室で牧田と進藤の顔を見ると、いつもホッとする。
雪見は二人の事を、今や姉のように思って慕い、二人も雪見の事を妹のように
心配したり可愛がってくれたりした。
「元気だった?デビューを発表してから、すっかり忙しくなったでしょ?
まだ時間がちょっとあるから、メイク前に顔のマッサージしてあげる。」
「ありがとう!進藤さん。ねぇ、目の下の隈を解消するマッサージも教えて!」
「え?雪見ちゃん、隈なんてめったに出来ないでしょ?」
「あ、私じゃなくて、毎日隈を作って頑張ってる人がいるから…。」
そう言いながら雪見は、鏡の中の進藤に向かって微笑んだ。
「あー、なるほどね!確かに隈の出来やすい人だわ、彼は。
じゃ、即効性のあるツボを教えてあげる!」
おしゃべりしながら準備を終える頃には、雪見の元気はすっかりチャージされ、
気合いも撮影モードに切り替わっている。
二人にお礼を言いながらメイク室を出て、再びスタジオに戻ると丁度健人が到着したところだった。
「お疲れ様!良かった!時間通りに来れたんだね。」
元気そうな健人を見て、雪見は一安心した。
健人も、雪見と一緒の仕事が楽しみで上機嫌だ。
「もうすぐ当麻も上がってくるよ。駐車場で会ったから。
多分、お客さんを連れて来ると思う。」
「お客さん?」
「あ!ほらね。お客連れだ!」
健人が指差したので後ろを振り向くと、そこには当麻と、なんとみずきが立っていた!