雪見の役目
「うそっ!当分の間休業します、って一体どういう事!?」
健人と雪見は、たった紙切れ一枚張られた店の前に、茫然と立ち尽くしていた。
ここに来たいと思いつつも忙しくて来れなかった間に、一体何があったと言うのか。
「改装工事でもするのかな?」
「いや、だったら詳しく何月何日リニューアルオープンとか、普通書くでしょ。
黒服の執事さんがいた事務所の方にも行ってみよう。」
『HNK』と書かれたドアの前にも、まったく同じ張り紙がしてあり、入り口には鍵が掛っている。
何の説明も無いたった一行だけの張り紙に、二人は言いようのない不安を感じた。
「当麻も多分知らないだろうね。きっとびっくりするよな…。
今日はここにいてもどうしようもないから、取りあえず帰って仕事の準備をしよう。」
「そうだね。」
午後六時からの仕事は健人、当麻、雪見の三人で、音楽雑誌と芸能月刊誌二誌の
合わせて三つの取材が入っている。
アーティストとして受ける初めての取材なので、普段は取材慣れしている健人であっても
珍しく少々緊張気味であった。
「だってさ、まだレコーディングもしてないのに取材だなんて、一体何を話せっちゅーの?
話の材料が少ない取材って、俺の一番苦手な仕事だよ。」
雪見が作ったおにぎりを食卓で頬張りながら、健人は仕事を受けた事務所に対して不満を漏らす。
「健人くんにも苦手な仕事ってあるんだ!なんか意外!
俳優の斎藤健人って、何でもそつなくこなすイメージなんだけど。」
着替え終った雪見が、ピアスを付け替えながら健人の方を見た。
「ゆき姉まで俺のこと、そんな風に見てんの?
俺、みんなが思うほど万能じゃないよ。出来ないって思う事だって、
ほんとはたくさんあるのに…。」
少し口を尖らせ、視線を下げる健人。。
雪見までもが自分のことを理解してくれないのか…。
そんな寂しさがにじんだ横顔だった。
雪見は、椅子に座ってうつむく健人におんぶするように、後ろからギュッと抱き締めた。
「知ってるよ。俳優の斎藤健人になってる時って、苦手な事も普通の顔して出来ちゃうでしょ?
別に無理してるわけでもないけど、頑張れちゃうんだよね?
だったら、それはそれでいいじゃない!
仕事が終って素の自分に戻った時は、なーんにも出来ない健人くんでいいよ。
もっと私に甘えてくれてもいいのに。」
「じゃ、キスして!」
「え?」
「今日の苦手な取材も頑張れるようなキスをして!」
「そうきたか!仕方ない。チュッ!これで頑張れる?」
雪見は健人の後ろから右のほっぺたにキスをした。
「えーっ!そんなんじゃ無理!頑張れない!」
健人が笑いながら子供みたいに駄々をこねる。
いつもクールで冷静沈着、Sキャラで理系頭、と世間が思い描いているイケメンアイドル
斎藤健人が、雪見だけに見せる子供みたいにちょっとすねて甘えた表情。
こんな素顔が見られた時、雪見は改めて、自分はまだ健人の中で特別な存在なんだ!
と嬉しくてたまらなくなる。
が、悲しいかな雪見の性格上、いや、年齢のせいも多分にあるのかもしれない。
素直に嬉しいを表現出来なくて、口を突いて出て来るのはいつもこんな可愛げのない言葉だ。
「しょーがないなぁー、もう!」
そう言ってしまった後、以前真由子に言われたことが頭をよぎりハッとする。
『あんたも少しは健人に、恋人らしく甘えた顔を見せなさい!
じゃないと、ただのお姉さんになっちゃうよ!』
お姉さんじゃヤダ!と思いながら、雪見が健人の前に回りキスをしようとした時、
いきなり健人が雪見を抱きすくめた。
「ずっと俺のそばにいてね。ゆき姉がいないと俺、頑張れないから。」
健人の言葉が嬉しくて、感じられる温もりが暖かくて、思わず涙が溢れてきて困った。
今日も健人は私のそばにいてくれる…。そんな安堵感から溢れた涙であった。
「えっ!どうして泣いてんの!?なんか嫌な事でも誰かに言われたりした?」
慌てた健人が雪見を問いただす。
「違う違う!そんなんじゃない。健人くんが泣かせるセリフを言うから…。」
毎日一緒にいても不安だとは、健人には言えなかった。
だが少なからず健人も、雪見と同じ不安を抱えて暮らしていると思った時、
本心を打ち明けて思いを共有すべきなのか迷った。
が、健人の優しいキスが、雪見を思い留まらせる。
『毎日が不安だなんて言ったら、健人くんが余計不安になる。
そんなこと、今の忙しい健人くんに言っちゃいけない。
精神的に健人くんを支えて行くのが、私の役目なんだから…。』
「大好きだからねっ!ずっと一緒にいるから。
私がいて健人くんが頑張れるなら、ずっとそばにいるよ。」
ギュッと抱き締めたあと、もう一度健人のほっぺたにキスをした。
自分の役目をきちんと果たすように…。
「今日から健人くんと当麻くんと、三人での仕事がスタートするんだね!
明日は三人で『ヴィーナス』のグラビア撮影だし、レコーディングもPV撮影もこれからあるし、
きっと楽しい毎日が待ってるよ!」
「そうだね。ゆき姉と当麻と三人で仕事するなんて、夢みたいな話だもんね。
俺、ほんとは不安だったんだ。
ドラマも映画もあるのに、その上アーティスト活動なんて無理なんじゃないかって。
俺にそんな能力なんて、ないんじゃないかって。
でも、今やっと大丈夫なような気がしてきた。だって、ゆき姉と一緒だもん!」
「そうそう、その調子!私も負けないように頑張らなくちゃ!」
その時、健人のケータイに今野からの連絡が入った。
「今野さん、着いたって!じゃ、行こうか。」
二人はめめとラッキーの頭を撫でて、「行ってきます!」と玄関を出る。
注意深く急いで今野の車に乗り込み、「おはようございます!」と揃って挨拶したら
今野が後ろを振り返り、ニヤッと笑って言った。
「おはよう!お二人さん。久しぶりにゆっくり休めたか?
健人!ほっぺたに口紅付いてるぞ!」
「うそっ!?」
慌てて健人がほっぺたを拭い、雪見は健人の右頬を確認する。
「あははっ!お前ら、前にも引っ掛らなかったっけ?単純だねぇ!
この先、ほんとに忙しくなるから、二人で頑張って乗り越えろよ。
じゃ、行くぞ!」
今野は二人にとって、最高のマネージャーに違いない。