専属カメラマン最後の一日
写真集撮影最後の一日は、朝八時からドラマの撮影でスタートする。
都内での撮影だが、七時過ぎには今野が迎えに来た。
「おはようございます。」先に雪見が急いで乗り込むが、気恥ずかしくて
今野の目をまともに見ずに笑顔だけで挨拶をする。
それに続いて健人も「おはようございます。」と素早く乗り込みはしたが、
目深にかぶった帽子の下の瞳は、少しの輝きも持ち合わせてはいなかった。
今野が健人の様子を伺うように、チラッと後ろを振り向く。
ただジッと膝の上に目を落とす健人を見て、雪見でもダメだったか…と言う風に
小さくため息をつき、「よし!出発するぞ!」とだけ言って車を出した。
いつになく静まりかえる車内。
雪見は、このままではド ラマの撮影に差し支えるのではと心配になり、
なんとか健人に元気を出してもらいたいと、明るく話しかけてみる。
「ねぇ。あの後、当麻くんと愛穂さん、どうなったかな?
せっかく私達がチャンス作ってあげたんだから、うまくいけばいいんだけど。
私はあの二人、すっごくお似合いだと思うな!
愛穂さん美人だし、当麻くんはイケメンだし、めちゃめちゃ目立つカップルだけど。
二人が付き合い出したらさ、どっかにダブルデートなんてしたいよね!
ディズニーランドなんて四人で行ったら、絶対楽しいよね!
まぁ、目立ち過ぎてどう考えても無理だけど…。」
いつもなら車の中が騒がしくなるほど盛り上がる、憧れのダブルデート話に、
ひとつも健人は乗っかってこない。
と言うか、人の話を聞いてんだか聞いてないんだかさえも判らない。
しょうがない。次の手でいくか!
「ねぇ、当麻くんからなんか連絡あった?」
ぐっと近づき、健人の弱点でもある耳元でささやいた。
いつもなら耳元で話すと、「くすぐったいからヤメテ!」と身をよじり
肩をすくめる健人であったが、今日は何の反応もない。
それどころか、「別に。」の一言でこの話題は呆気なく終ってしまった。
相当重症だ。雪見と一晩過ごしたあとの、不自然なハイテンションさも全く無い。
二人のやり取りを聞いていた今野も、ルームミラーで後ろの健人を見ながら、
今日の仕事は大変かもしれないぞ!と覚悟を決める。
撮影現場の河川敷は、まだ空気が肌寒い。
健人のメイ ク中からカメラを構える雪見の指も、微かに震える。
だが、寒さのせいだけで震えているわけでもなかった。
一枚また一枚と、シャッターを切るたびに終わりが近づいてゆく。
ついこの前までは、雪見自体この日が来ることに何の感慨も無かった。
それどころか、早く編集作業に入りたくてウズウズしていた。
二ヶ月間撮り貯めてきた健人の写真を、あれこれ皆で悩み選び抜いて
一ページずつ仕上げていく喜び。
それを早く味わいたくて、最後の写真を撮る日の思いなど、深くは
考えてもいなかった。
それが今、その時を迎えてみると指が震える自分がいる。
健人と過ごした丸二ヶ月間が、いかに楽しく充実した毎日であったことか。
明日からは朝、今野の車のドアを開けた途 端に聞こえる
「おはよう!ゆき姉!」という、健人の弾んだ声も聞けなければ、
現場でカメラを向けた時に一瞬雪見だけにする、特別な笑顔も見られない。
すべてが長い長い時間に見ていた夢のようにも思えて、急に寂しさがこみ上げた。
『健人くんはこんな気持ちになることを、ずっと前から恐れて暮らしてたんだ…。
それなのに私ったら、大丈夫だよ!って言うばかりで、少しも健人くんの気持ちを
理解しようとしてなかったのでは…。』
雪見は後悔していた。
もう少し自分が健人の心に寄り添って、毎日を過ごしていたなら…。
そしたら健人を、あんな悲しそうな瞳にさせないで済んだかも知れないのに。
ファインダーの奥の健人を見つめるうちに段々と視界がぼやけ始め、 いつの間にか頬を涙が伝っていった。
髪を直してもらってた健人が、涙をこぼしながらもカメラを覗き続ける
雪見に気が付き、慌てて駆け寄る。
「どうしたの?なんか嫌なことでもあった?なんで泣いてるの?」
健人がそっと肩に置いた手の温もりが心に染みて、ますます涙が止まらなくなる。
そのうち堪えきれなくなって、「ごめんね、健人くん!」と、雪見は
カメラを手にしたまま、健人の胸に顔を埋めて泣きじゃくってしまった。
健人はもちろん、そのいきなりの光景にびっくりしたのは、周りにいた
共演者をはじめ大勢のスタッフだった。
そこにいたほぼ全員が、健人と雪見の方を凝視する。
が、次の瞬間、見なかったことにしよう!という感じで、またそれぞれの作 業を再開した。
「大丈夫?落ち着いた?」
健人の言葉にハッと我に返り、慌てて健人から離れる雪見。
「ご、ごめん…。なにやってんだろ、私。本当にごめん。」
そう言いながら雪見はその場をそっと立ち去り、ロケ現場から離れた所で川茂を眺めていた。
川を眺めていて思い出した風景がある。
初めて二人で健人の実家へ泊まった翌朝。
前日出会った子供達にもらった蟹を、川に返しに行こうと健人と二人、
朝早くにバケツを片手に河川敷を歩いたっけ。
あの時初めて撮ったツーショット写真は、今でも一番大事な思い出の写真だ。
ふと右手にずっしりとした重さを感じ、カメラの存在に気が付いた。
『このカメラのお陰で私は今、健人くんのそばにいられるんだ。
誰にも負けない写真集を私が作ってあげるって、健人くんに約束してたんだ!』
こんなとこにいる場合じゃない!と雪見は走り出した。
健人の写真を、今日という日が終るまで、最後の一枚まで魂を込めて撮すために。
ロケ現場に戻ってきた雪見は、監督に一礼してから遠くでカメラを構える。
雪見が心配で演技に集中出来ないでいた健人が、雪見の姿を見つけた途端
パッと表情が明るくなり、いつもの健人らしい堂々とした演技を見せるようになった。
『良かった!元の健人くんの顔に戻ってる。
イケメン俳優 斎藤健人は、いつもそうでなくっちゃね!』
ファインダーの奥の健人が、「カット!」の声と同時にこっちに駆けてくる。
「ゆきねぇ!今の演技、どうだった?俺 、めっちゃ頑張ったんだけど。」
「うん!頑張った、頑張った!今日は仕事がぜーんぶ終ったら、
二人の打ち上げに『どんべい』にでも行こうか。
健人くんの頑張りのご褒美に、私がおごってあげる!」
「やった!じゃ早めに電話して、食べたい物先に注文しておこうっと!」
「そこまでする?どんだけ楽しみなの!」
やっと二人に笑い声が戻って来た。
どうやらお互いが知らず知らずのうちに、相手の心の傷を癒やしていたようだ。
大丈夫!私はもう、泣いたりしない。
健人くんが毎日笑顔でいられるように、私もずっと笑顔でいるから。
目尻のシワがたとえ増えても、嫌いになったりしないでねっ!