不安と安堵
朝六時。結局雪見は一時間ほどソファーで仮眠を取っただけで、あとは
写真の整理と健人の様子見で夜を明かした。
そっと健人のおでこに手を当ててみる。どうやら高熱は下がったようだ。
だが、まだ完全には下がりきってないので、目を覚ますまで寝かせておくことにする。
顔を洗って身支度を調え、静かにフロアモップでフローリングの床を掃除する。
それから家の中にたくさん置いてある観葉植物に水をやった。
健人には、食欲が無くても少しは口に出来そうな物を何品か用意する。
他にすることが無くなったので、健人のベッドサイドにそっと座り、
その美しい寝顔をとくと鑑賞してみた。
ベッドの上の足元には、めめとラッキーが二匹寄り添い丸くなってる。
健人も幸せそうな顔をして、まだ熟睡しているようだ。
朝の光がカーテンの隙間から健人の顔に降り注ぎ、まるでグラビア撮影の
ワンシーンかと錯覚してしまいそうな、絵になる風景だった。
「そうだ!写真に撮っちゃえ!」
小さくつぶやいて、そっとカメラを取りに行く。
『イケメンって、ほんとにどんな時でもイケメンなんだなぁ。
まさかこの写真が39.4度熱を出した後とは、誰も思わないだろうね。』
そう思いながら、シャッター音で健人が目を覚ますことを想定し、
ワンチャンスで完璧な構図を狙う。
「カシャッ!」あれ?起きないや。
「カシャッ、カシャッ!」
まったく目を覚ます気配がないので、少々心配になる。
カメラを置き、またベッドサイドに腰を下ろして健人の頬に触れてみた。
すると突然、ガバッと健人が雪見を抱き締めるではないか!
「やっと捕まえた!なかなかゆき姉、罠にかかってくれないんだもん。」
「罠ぁ?もしかして、ずっと起きてたのぉ?」
雪見がビックリした顔で、目の前の健人に聞いた。
「『そうだ!写真に撮っちゃえ!』で起こされた。
ゆき姉にかかったら、おちおち熱出して寝てもいられないや!
ちゃんとギャラ、もらわないと!」
そう言いながら、健人は雪見にキスをした。
「キスする元気があるなら大丈夫だね!良かった!
でもまだ熱は下がりきってないよ。朝イチで病院に行かなきゃね。
何か食べられる?健人くんの好きそうな物、作ってみたけど。」
「うん!腹減った!けどその前にシャワーしていい?汗かいた。」
健人は雪見から手を離し、猫たちを起こさないよう静かにベッドを降りた。
シャワーを浴びているうちに雪見は、こんな日のために密かに用意しておいた
着替えを脱衣所に置き、野菜スープを温め直す。
さっぱりして気分の良くなった健人は、その食べるスープを美味い!
美味い!と言いながら平らげた。
コーヒーを飲みながら雪見は、健人と一緒に暮らしたら毎日が楽しいだろうな、と思う。
健人もまた、雪見とのこんな日々を夢見ていた。
昨夜今野から教えてもらった、事務所のタレント行きつけの個人病院に
朝イチで電話すると、診療開始前に見てあげると言われ、雪見は健人を
乗せて病院へ向かった。
検査の結果、やはりインフルエンザだったので、すぐさま今野に電話を入れる。
「あーあぁ、やっぱりかぁ!けど今野さん公認でゆき姉んちに泊まれるんだから、ラッキー!」
健人はメチャメチャ嬉しそう。
「そんなに元気なら、仕事に行ってもいいんじゃない?」
雪見がわざと意地悪言うと、健人は
「ダメ!先生も周りにうつすから、まだダメだって言ったもん!」
とムキになった。そんな子供みたいな健人が大好きだ。
雪見のマンションに二人で戻り、健人は病院からもらった薬を飲んで猫と遊び出す。
雪見はその間にベッドのシーツ類一式を取り替え、健人の服や下着と一緒に
洗濯機に放り込み、窓を開けて新鮮な空気を部屋の中に取り込んだ。
「うーん、気持ちいいっ!なんか俺たち、新婚さんみたいだねっ!」
ベランダで伸びをひとつして振り返った健人が、はにかみながら雪見に言った。
雪見もそう思っていたが、なんだか恥ずかしくていつもの口調で
「なに言ってんの!まだ熱があるんだから大人しく寝てなさいっ!」
と、笑いながらつれない返事をする。
思いがけず神様からもらった、幸せな幸せな休日だ。
午後三時。雪見はラジオ局に行くための準備を始める。
健人の夕食にカレーライスを作り、サラダは冷蔵庫に入れた。
着ていく服を迷っていると横で健人が、
「ラジオなんて服は見えないんだから、何でもいいじゃん!」と言う。
「えーっ!健人くんは彼女がどんな格好で出掛けても平気なわけ?
自分は人一倍、着る物にこだわりがあるのに。」
雪見が少しブーたれた口調で健人に抗議する。
「違うよ!当麻のためだけにおしゃれしないで欲しい!」
健人の口から予想外の返事が飛び出し、雪見は驚いて健人の顔を見た。
「えっ?そんなこと考えてたの!?本気でそんなこと言ってんの?」
健人の顔は本気とも冗談ともつかぬ顔をしている。
だが最近、健人の心がさざ波立っていることは、毎日接している雪見が
一番よく知っていた。
理由は多分、あと少しで写真集の撮影を終了するため。
撮影が終れば健人の仕事場に雪見が付いて行く事もなくなる。
二ヶ月間、大好きな雪見が自分のそばで、自分だけを見つめてくれていた。
そんな幸せな日々が、十月に入ると同時に消え去ってしまう恐怖。
ただ二ヶ月前までの生活に戻るだけなのに、健人は雪見のいない仕事場を
想像しただけで気が滅入っていた。
雪見は背中からギュッと健人を抱き締め、穏やかな声で健人に話しかける。
「大丈夫!私はどこへも行かないし、これからもずっと健人くんのそばだけにいる。
他の誰も見つめたりはしないし、第一健人くん以外の人に興味はないから。
毎日は会えなくなっても、心は繋がってるよね?私たち。」
「うん、繋がってる。俺もゆき姉以外は考えられないから。
会いたくなったらまたここに来てもいい?」
健人が振り向いて雪見に聞いた。
「もちろん!そのために合い鍵、作ってあげたでしょ?
今度、健人くんがいつも使ってるシャンプーとか歯磨き粉、買っておかなきゃね。」
雪見の言葉に、やっと健人が笑顔になった。
「じゃ、用意して仕事にいくね!カレーは温め直して食べてよ。
冷蔵庫にサラダも入ってるから。
ラジオ、そこにあるからちゃんと聞いててね!」
雪見は玄関先で健人とハグをし、めめとラッキーの見送りも受けて
当麻の待つラジオ局へと一人で向かった。