帰りたくない
沖縄の旅から二週間ほどが過ぎ、やっと吹き出した秋風が
まもなく十月が訪れることを知らせてまわる。
九月も残すところ一週間余り。
相変わらず健人は毎日を忙しく過ごし、雪見もそれに連動して精力的に
最後の写真を撮り続けていた。
のんびりと夕日を眺めることができた沖縄時間が、もはや夢の中の
出来事だった気さえする。
その日も二人は午後十一時過ぎに仕事を終え、クタクタになりながら
車に身体を押し込んだ。
「はぁーっ、やっと終ったぁ!
今日は朝が早かったから、めちゃ一日が長かったよ!腹へったぁ…。」
健人が今野の車の後部座席で、シートに深く身体を沈めながらつぶやく。
沖縄から戻って以来休みなどは勿論あるはずもなく、それどころか連日
イベント続きで、さすがの健人もそろそろ充電が切れかかっている。
それは、帯同して歩く雪見も今野も同じなのだが、健人の体力的精神的
エネルギーの消費度合いを考えれば、申し訳なくて弱事など口には出せない。
この先も、まだ当分は休みなど作れないだろう。
今野はここらで一度、健人の充電池を満タンにしてやらないと
近々電池切れを起こしてしまうぞと、ルームミラーで後ろを見ながら思っていた。
よし!雪見にお願いするか!
目を閉じていた健人に今野が声をかける。
「健人!拾ってきた猫はどうした?少しは大きくなったか?」
「え?ラッキー?そういや沖縄から戻って来た日から一度も見てないや。
ゆき姉、ラッキーは元気にしてる?大きくなった?」
健人がシートから身体を起こし、雪見に尋ねた。
「うん、元気にしてるよ!もうすっかりめめとも仲良しになって、
めめの後ろをくっついて歩いてる。めめの事、母親だと思ってるみたい!
本当はオスなのに。」 そう言って雪見は笑った。
「えーっ!めっちゃ可愛いじゃん!ラッキーに会いてぇ!」
それからしばらく、雪見と健人は猫の話で盛り上がっていた。
スーッと車が雪見のマンション前に止まる。
「あ、着いた!今野さん、ありがとうございました!また明日もよろしくお願いします。」
そう言いながら雪見が車を降りようとした時、今野が声をかけた。
「健人!お前も一緒に降りろ!」
「えっ?なに?」
「雪見ちゃん!お疲れのとこ悪いんだけど、健人に猫見せてやってくれるかな。
ついでに何か美味い物でも作って食べさせてやってよ!
明日もまた忙しいのに、このままじゃそろそろこいつ、へばりそうだから。」
突然の今野の言葉に、健人は大喜び!
「うそ!?ほんとにいいの?ラッキー見てきて。ご飯食べてきていいの?」
「あぁ!ただし雪見ちゃんがいいって言ったらの話だけど。」
今野が笑いながら雪見に頭を下げた。
「いいよ!私もお腹ペコペコだから、今なに作ろうか考えてたところ。
あ!今野さんもご一緒にどうですか?」
雪見が今野を誘ったので、健人は一瞬頬を膨らませた。
が、今野が断ったのでまた笑顔に戻る。
「明日は九時に迎えに行くからな!ちゃんとそれまでに用意しとけよ!
じゃ、雪見ちゃん、健人を頼んだわ。」
そう言って二人を降ろし、今野は愛妻の待つ自宅へと帰って行った。
健人と雪見は誰かに見つからないうちに、急いでマンションに駆け込み
エレベーターに乗ってホッとする。
「今野さん、私たちに気を使ってくれたんだね。」
「違うよ!早く奥さんのとこ、帰りたかっただけさ。」
「鈍いなぁ!ご飯の誘いを断った事じゃないよ!
ラッキーの話を突然健人くんに振った時から、今野さんは私たちを
二人きりにさせてくれようとしてたんじゃない!」
「えーっ!そうだったのぉ?ぜんぜん気が付かなかった!」
「まだまだ修行が足りんな!キミは。」
エレベーターが雪見の階に到着し、周りを気にしながら大至急玄関の鍵を開ける。
バタンとドアを閉め鍵を掛けて振り向いた瞬間、いきなり唇をふさがれ
二人は長い長いキスをした。
静かに唇を離したあと健人は、「ずっとこうしていたい…。」と雪見を
抱き締め、しばらくのあいだ玄関先で身じろぎもせずに、ただ雪見の
温もりを感じて心を休めていた。
そこへ、にゃーん!と鳴きながら足元にめめとラッキーが寄って来た。
その瞬間、健人はパッと雪見から身体を離し、身を翻してしゃがみ込んだ。
「ラッキー!元気だったか?なんかしばらく会わないうちに大きくなったな!
めめもお世話をしてくれてありがとな!よしよし!」
と、二匹の頭を交互になで回す。
雪見は、「ラッキーに負けちゃった!」と笑い、少し元気になった健人を見て一安心した。
「よしっ!急いでなんか美味しい物作るねっ!こんな所で遊んでないで
中に入ってラッキーたちの相手をしてやって!」
健人が猫じゃらしやボールで猫の遊び相手をしてやると、二匹は夢中に
なって走りまわる。
その愛らしい仕草に健人は癒やされ、どんどんエネルギーが補充されていくのがよくわかった。
それもそのはず、ラッキーは健人の実家で飼っているプリンの子供時代
にそっくりで、めめは虎太郎と性別こそ違えど全く同じ茶トラ猫であった。
ラッキーを拾ったことで、健人は実家に帰らずして実家の愛猫と遊んでいる感覚を、
ここ雪見の家で味わうことができるのだ。
雪見も健人も、これはただの偶然ではないと思っている。
きっとラッキーは、二人の元にやって来るために生まれたのだ。
そう思うだけで愛しさが倍増する、猫バカな健人と雪見であった。
「健人くーん!ご飯できたよ!」
雪見に呼ばれ手を洗ってダイニングに行くと、テーブルの上にはすでに
たくさんの料理とワインが準備されていた。
「すっげー!俺がラッキー達と遊んでるあいだに、こんなに作ったの?
しかも全部美味そう!ゆき姉ってほんと、いい奥さんに絶対なれるよね!」
「だといいんだけどねっ!さぁ、冷めないうちに食べよう!
もうお腹、ぺっこぺこ!じゃ、お仕事お疲れ、乾杯!」
久しぶりの二人だけの食事は、話もはずみお酒も美味しくて、いつまで
たっても終る気配がなかった。
ふと時計を見ると、すでに日付が変った午前二時過ぎ。
「健人くん、大変!もうこんな時間だよ!タクシー呼んであげるから
急いで帰らないと!」
雪見が慌ててタクシー会社に電話しようとしたとき、健人がぽつりと
「帰りたくない…。」とつぶやいた。
「今日は俺、帰りたくないから…。」