第8章 鬼の系譜
神崎家の居間には、重苦しい沈黙が漂っていた。
ちゃぶ台の上には、湯気の立つお茶と、美月が買ってきたコンビニの羊羹が置かれているが、誰も手をつけていない。
「……茨木、と名乗ったか」
宗十郎が、腕組みをしたまま低い声で唸った。
その表情は、いつもの好々爺のものではなく、歴戦の退魔師の顔だった。
「ああ。使い魔みたいなコウモリ越しだったけどな。
『偉大なる王の復活』とか、『大江山の闇』とか言ってた」
響の報告に、宗十郎は深くため息をついた。
「最悪の予想が当たってしもうたな」
「やっぱり……酒呑童子のことですか?」
美月が恐る恐る尋ねる。
宗十郎はゆっくりと頷いた。
「うむ。日本最強の鬼、酒呑童子。
平安の世に討たれたとされるが、その魂までは滅せられておらん。
奴の配下である茨木童子が動いているとなれば、目的は一つ。主君の完全復活じゃ」
「復活って……そんなこと、本当にできるの?」
「奴らの執念は、人の想像を遥かに超える。
それに、現代は人の心が荒み、負の感情が渦巻いておる。鬼にとっては格好の餌場じゃよ」
宗十郎は響を見た。
「響。おぬしの怨叉が最近、頻繁に鳴るのはそのせいじゃ。
強大な鬼の気が、世界に満ち始めている」
「……俺の力が強くなってるのも、その影響か?」
「それもある。だが、一番の理由は──」
宗十郎の視線が、美月に移る。
「守るべきものができたから、じゃろうな」
「えっ」
美月が顔を赤くして俯く。
響も咳払いをして視線を逸らした。
「ま、まあ、それは置いといてだ!
問題は、これからどうするかだろ。学校にも敵の手が伸びてるんだぞ」
「そうじゃな。今日のような『憑依型』の禍鬼は厄介じゃ。
一般人を盾にされたら、おぬしも全力は出せまい」
「……ああ。美月がいなきゃ、正直ヤバかった」
響が素直に認めると、美月は嬉しそうに、けれど少し誇らしげに胸元の鈴に触れた。
「そこでじゃ」
宗十郎が身を乗り出す。
「おぬしたちには、学校での『哨戒しょうかい任務』を命じる」
「哨戒?」
「うむ。茨木童子は『挨拶代わり』と言った。つまり、まだ本格的な侵攻ではない。
奴らは、学校という閉鎖空間を使って、何かを実験している節がある。
響は気配を探り、美月はその鈴で邪気を払え。
校内に潜む『種』を、芽が出る前に摘み取るのじゃ」
「……分かった。俺たちの学校を、実験場になんかさせてたまるか」
響の瞳に、強い意志の光が宿る。
「美月ちゃんも、よいな? 危険な役目じゃが」
「はい! 私も、みんなを守りたいです。
それに……神崎くんの背中は、私が見てますから!」
「ふぉっふぉっふぉ、頼もしいのう。
若い二人の愛の力で、鬼退治といこうか!」
「だから、そういう言い方やめろって!」
「おじいさんっ!」
二人のツッコミが重なり、重苦しかった空気が少しだけ緩んだ。
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翌日。
学校は、昨日の騒ぎなどなかったかのように平穏だった。
気絶していた男子生徒は「貧血で倒れた」ことになっており、保健室で休んだ後、元気に登校していた。
憑依されていた間の記憶はないらしい。
だが、響と美月にとっては、校内の景色が一変していた。
「……どうだ、美月」
昼休み。屋上のフェンスに寄りかかりながら、響が小声で尋ねる。
美月はパンをかじる手を止め、目を閉じて神経を研ぎ澄ませる。
胸元の鈴が、風もないのに小さく揺れている。
「……微かですけど、やっぱり感じます。
校舎のあちこちに、昨日と同じような『嫌な感じ』が残ってる」
「やっぱりか」
響は舌打ちした。
昨日の敵は、単なる斥候に過ぎない。
茨木童子は、すでにこの学校にいくつもの『仕掛け』を施している可能性がある。
「場所は特定できるか?」
「うーん……今はまだ、ぼんやりとしか。
でも、特に強く感じるのは……」
美月が指差したのは、校舎の北側。
特別教室棟の方角だった。
「あそこ……化学室とか、美術室がある棟か」
「はい。放課後、調べてみましょう」
「ああ。頼むぞ、相棒」
「えへへ、相棒かぁ……」
美月が照れくさそうに笑ったその時。
「──お二人さん、随分と仲がよろしいようで」
背後から、冷ややかな声がかかった。
二人が驚いて振り返ると、そこには一人の女子生徒が立っていた。
長い黒髪を切り揃え、眼鏡をかけた知的な風貌。
生徒会長の、西園寺玲華だった。
「せ、生徒会長!?」
美月が慌てて姿勢を正す。
響も少し身構えた。この生徒会長、以前から何かと響の服装や態度に難癖をつけてくる、苦手な相手なのだ。
「神崎くん。またピアス……校則違反よ」
玲華が、響の耳飾り(怨叉)を冷たい目で見据える。
「これは……外せねえ事情があるんだって、何度も言ってるだろ」
「事情ね。……まあいいわ」
玲華は眼鏡の位置を直しながら、意味深な視線を二人に向けた。
「最近、校内で妙な噂があるのは知ってる?
旧体育館の幽霊とか、夜の校舎で聞こえる鈴の音とか」
「ッ!?」
美月が息を呑む。
鈴の音──それは間違いなく、昨日の戦いのことだ。
「あなたたち、何か隠してるでしょう」
玲華が一歩近づく。
その迫力に、響ですら一瞬たじろいだ。
「まさかとは思うけど……変なカルト宗教とか、危険な遊びに関わってるんじゃないでしょうね」
「ち、違います! そんなんじゃないです!」
美月が必死に否定する。
「ならいいけど。
生徒会としても、風紀の乱れは見過ごせないの。
これ以上、怪しい動きをするようなら──」
玲華の瞳が、眼鏡の奥で鋭く光った。
「──私が直々に、調査させてもらうわ」
それだけ言い捨てて、玲華は長い髪を翻して去っていった。
「……怖かったぁ」
美月がへなへなと座り込む。
「ああ……あいつ、勘が鋭すぎるだろ」
響は冷や汗を拭った。
敵は鬼だけではない。
学校という社会の中で動く以上、「生徒会長」という最強の監視者もまた、ある意味で強敵だった。
「でも、神崎くん」
美月が不安そうに見上げる。
「会長、あっちの方から来ましたよね?」
「あっち? ……特別教室棟か」
二人は顔を見合わせた。
ただの偶然か。それとも──。
「……放課後の調査、慎重に行こうぜ」
「はい」
予鈴が鳴る。
新たな疑惑と不安を抱えながら、二人は教室へと戻っていった。
その背後で。
去り際の西園寺玲華が、ふと足を止め、誰もいない廊下で呟いたことを、二人は知らない。
「……あの耳飾りの波長。
まさか、本当に……?」
彼女の手には、古びた数珠が握られていた。




