第6章 忍び寄る影、色づく世界
翌朝。
通学路の空気は、昨日までと何も変わらないはずだった。
「お、おはよう……神崎くん」
待ち合わせ場所の交差点。
先に待っていた美月が、少しはにかみながら手を振る。
「……おう、おはよう」
響は、努めて平静を装って返事をした。
だが、心臓の鼓動は明らかにいつもより早い。
(意識すんな。絶対にするなよ俺)
昨夜の自室での独り言──『美月のこと、好きなんだろうな』という自覚が、呪いのように頭の中でリフレッシュされ続けている。
制服の胸元。リボンの下に隠れるように、美月は昨日宗十郎から貰った「鈴のお守り」を身に着けていた。
歩くたびに、普通の人間には聞こえない周波数で、ちりん、と涼やかな音が響の耳に届く。
それがまるで、「私はここにいるよ」と響の魂に直接呼びかけているようで、どうしようもなく落ち着かない。
「ねえ、神崎くん」
「な、なんだよ」
「今日、放課後どうします? またおじいさんのところで修行ですか?」
「いや……じいさんが『今日は道具の調整をするから休みでいい』ってさ。だから今日は普通に帰るぞ」
「あ、そっか。残念……あ、いえ! 残念じゃないです! 休みも大事ですし!」
美月が慌てて手を振る。
その拍子に、またちりん、と鈴が鳴った。
「……お前、それ」
「え?」
「その鈴の音、俺には結構はっきり聞こえるんだよな。授業中とか大丈夫か?」
「えっ、うそ! うるさいですか!?」
美月が慌てて胸元を押さえる。
「いや、うるさくはねえけど……なんていうか」
響は少し視線を逸らした。
「お前がどこにいるか、すぐ分かるから。……便利だなと思って」
「──っ」
美月がカッと顔を赤くする。
響も言った後で(今の、なんかストーカーっぽくなかったか!?)と内心頭を抱えた。
「あ、あのね! 私も!」
美月が上目遣いで、少し早口に言う。
「私も、神崎くんの耳飾りの音……なんとなく、分かるようになりました。
どこにいても、神崎くんが近くにいるって分かるから……その、安心します」
「…………そうかよ」
朝から何を甘酸っぱい会話をしているんだ、俺たちは。
響は口元を片手で覆い、早足で歩き出した。
「ちょ、待ってくださいよー!」
背後から追いかけてくる足音と鈴の音。
平和だ。
鬼だの怨叉だのを忘れてしまいそうになるほど、ありふれた、けれどかけがえのない日常。
だが──響はまだ知らなかった。
その日常が、薄氷の上に成り立っていることを。
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異変が起きたのは、放課後のことだった。
ホームルームが終わり、生徒たちが三々五々に教室を出て行く喧騒の中。
ちリリリリリリッ──!!
突如、美月の胸元の鈴が、悲鳴のような音を立てた。
周囲の生徒には聞こえていない。だが、響と美月だけが同時に動きを止めた。
「神崎くん……!」
美月が青ざめた顔で胸元を押さえる。
お守りが熱を持っているのか、彼女の手が震えている。
「ああ、分かってる」
響の表情から、瞬時に甘さが消えた。
耳元の怨叉が、かつてないほど低く、重く唸っている。
カァン……ゴォォォ……
(近い。しかも、今までの雑魚とは違う)
気配は校内ではない。
窓の外──グラウンドの向こう、旧体育館の裏手にある雑木林の方角だ。
「美月、お前は教室に残れ。人が多い方が安全だ」
「い、嫌です!」
美月が即座に否定した。
「『背中を見る』って決めたんです! 私も行きます!」
「……たくっ、頑固だな」
だが、拒絶する時間は惜しい。
響は短く息を吐くと、美月の手首を掴んだ。
「離れるなよ」
「はい!」
二人は教室を飛び出し、人気のない廊下を駆け抜ける。
昇降口を出て、夕暮れのグラウンドを横切る。
雑木林に近づくにつれて、空気がねっとりと重くなるのを感じた。
腐った果実のような、甘ったるく不快な臭い。
「……出てこいよ。隠れてるつもりか?」
林の入り口で、響が足を止めて叫ぶ。
カサリ、と落ち葉を踏む音がした。
木の陰から姿を現したのは──人影だった。
いや、人の形をした“何か”だ。
学生服を着ている。この学校の男子生徒だ。
だが、その瞳には白目がなく、眼球すべてがどす黒く塗りつぶされている。
そして何より異様なのは、口元からだらりと垂れ下がった、紫色の長い舌だった。
「……グルゥ……オォ……」
「生徒……? 取り憑かれてるのか?」
響が身構える。
今まで戦ってきた禍鬼は、異形の怪物そのものだった。
だが、これは人間に憑依している。下手に攻撃すれば、宿主の生徒を殺しかねない。
「キヒッ、キヒヒヒ……」
憑依された生徒が、不気味に笑った。
その口が、ありえない角度まで裂ける。
「はじめましてぇ……紅葉の、末裔くん」
「喋った……!?」
美月が息を呑む。
響も目を見開いた。知性がある。今までの獣のような奴らとは格が違う。
「お前、何だ。誰の差し金だ」
「ボクは苗床。ただの器だよぉ。
ご主人様がね、挨拶してこいって」
男の首が、ごきり、と90度傾く。
「『浄化の巫女』と『鬼の盾』。
その絆がどれほどのものか……試させてもらうねぇ!」
ズズズッ!
男の背中から、骨のような鋭い突起が数本、槍のように飛び出した。
制服が裂け、鮮血が舞う──はずが、飛び散ったのは黒い泥のような液体だった。
「来るぞ美月! 下がってろ!」
響が地面を蹴る。
怨叉の音が鋭い金属音へと変わり、衝撃波となって男へ叩きつけられる。
だが、男は背中の骨を鞭のようにしならせ、その衝撃波を弾き飛ばした。
「効かないねぇ!」
「チッ……!」
(人間を盾にしてる分、こっちが全力で撃てねえのを見越してやがる!)
響が舌打ちした瞬間、男の影から別の黒い影が伸び、美月の足元へと走った。
「美月、足元!」
「えっ──きゃあ!」
影が実体化し、美月の足を掴んで引き倒す。
「まずは、その目障りな鈴の音から消してあげようかぁ!」
男の背中から伸びた骨の槍が、倒れた美月めがけて射出される。
「させるかよッ!」
響が叫び、間に割って入ろうとする──が、距離が遠い。
(間に合わない──!)
その時だった。
チリィィィィン!!
美月の胸元の鈴が、爆発的な清冽な音を放った。
目に見えるほどの光の波紋が広がり、迫り来る骨の槍を空中で粉砕する。
「なっ……!?」
男が驚愕の声を上げる。
響も目を見張った。
美月が、へたり込みながらも、両手でしっかりとお守りを握りしめていた。
震えている。涙目になっている。
けれど、その目はしっかりと前を見ていた。
「神崎くんの邪魔は……させません!」
その光景に、響の胸が熱く震えた。
守られるだけじゃない。彼女は本当に、共に戦おうとしている。
「……上出来だ、美月」
響の口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。
迷いは消えた。
「お前が守ってくれるなら──俺は、攻めに専念できる」
響が耳飾りに手を添える。
カァン! と今までで一番澄んだ音が鳴り響いた。
「覚悟しろよ、悪趣味な操り人形。
その薄汚い泥の中身、俺が引きずり出してやる」
夕闇の雑木林。
鈴の音と怨嗟の音。
二つの音が重なり合い、新たな戦いの幕が上がった。




