第五章──揺れる距離、近づく影
翌日、放課後。
「というわけで──」
響の家の居間で、美月が胸を張る。
「神崎くんのおじいさん、弟子入りさせてください!」
「……いや、いきなりそのテンションで言う?」
響の祖父・神崎宗十郎は、しわだらけの顔をさらにしわくちゃにして笑った。
「元気があってよいのう。
よかろう、美月ちゃん。おぬしも、今日からわしの弟子じゃ」
「やった!」
「じいちゃん、軽っ。もっとこう、試験とか面接とか──」
「おぬしはまず、自分の成績を心配せい」
「ぐうの音も出ない」
宗十郎は、ちゃぶ台の上に湯呑みを置き、真面目な顔つきに変わる。
「ただし、美月ちゃん」
「はい」
「響と一緒に戦う、ということはな……響が倒れた時、おぬしだけでも立っておらねばならん、ということじゃ」
一瞬で、空気が引き締まった。
「響は鬼の血を引き、怨叉を持つ。前に立つ盾じゃ。
じゃが、盾はいつか欠ける。砕ける。鬼の血とて無敵ではない」
宗十郎の視線が、美月の瞳を捉える。
「その時、最後の一枚の札を切るのは、おぬしじゃ。
それが嫌なら、今のうちにやめておきなさい」
短い沈黙。
美月は、ぎゅっと拳を握りしめた。
「……嫌じゃ、ありません」
「ほう」
「怖いです。すごく怖いです。
昨日も、本当に足が震えて、逃げたくて仕方なかった」
正直な告白に、響は横目で美月を見た。
「でも──神崎くんが、もっと怖い場所に、一人で立ってるんです。
だったら、せめて、その背中くらいは見ていたい」
まっすぐすぎる言葉に、宗十郎の口元が綻ぶ。
「それに……」
美月が、ちらっと響を見る。
「私、神崎くんがいない世界なんて、嫌ですから」
「…………」
その一言で、響の思考が一瞬止まった。
宗十郎は「ふむ」と喉を鳴らす。
「よし、合格じゃ」
「試験あった!?」
「今のが面接じゃ。そういうことじゃ」
祖父はからからと笑うと、押し入れから古びた木箱を引っ張り出してきた。
「まずは、これじゃな」
「……何それ」
「退魔具の一部じゃ。美月ちゃん用の“媒介”を選ぶ」
箱の中には、古ぼけた指輪やら、小さな勾玉やら、布のお守りやらがぎっしり詰まっている。
「響の怨叉が耳飾りであるように、人それぞれ相性の良い“形”というものがある。
美月ちゃんの霊力を安定させる触媒を、ここから選ぶがよい」
「わあ……!」
美月の目がきらきらと輝く。
「なんか、RPGの装備選ぶみたい!」
「テンションの方向性は間違ってないが、遊びじゃないからな?」
響のツッコミを、宗十郎が笑い飛ばす。
「まあ、楽しめるところは楽しんだ方がよい。長く続けるにはのう」
「……なるほど、年季の入った言葉だ」
美月はひとつひとつ丁寧に手に取りながら、何度も首を傾げた。
「どれも、なんかしっくり来ないような……」
「直感でよい。頭で選ぶものではない」
宗十郎が言ったその時、美月の指先があるものに触れた。
小さな、古びた鈴付きの紐のお守り。
触れた瞬間──
ちりん、と小さな音が鳴り、ほんのり温かい光が灯る。
「……これ」
美月が思わず呟く。
「これだけ、手が“離したくない”って感じます」
宗十郎が目を細めた。
「音の護符か。なるほどのう」
「音?」
響が身を乗り出す。
「怨叉と同じ“音”の系統じゃよ。
響、おぬしの力と、美月ちゃんの霊力は、波長が近いらしい」
「波長が近いって……」
「相性がいい、ということじゃな」
ニヤニヤしながら言う祖父に、響も美月も同時に顔を赤くした。
「な、何を含みのある言い方してんだよ!」
「や、やめてください、おじいさんっ!」
「おじい“さん”は、ちとこそばゆいのう。宗十郎じいでよい」
「そこじゃないです!」
美月は真っ赤になりながら、例のお守りをそっと握りしめた。
「でも……不思議。
これ、持ってると、神崎くんの怨叉の音が、少しだけ近くに聞こえるような」
「……マジで?」
響は自分の耳飾りに触れる。
カァン……
怨嗟の音が、かすかに部屋に満ちた。
途端に、美月の手の中のお守りも、ちいさく震え、ちりん、と応えるように鳴った。
「うわ……」
「共鳴してやがる……」
二人が驚いて見つめ合う。
宗十郎は満足そうに頷いた。
「決まりじゃな。それがおぬしの“媒介”じゃ、美月」
「はい!」
少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに、美月はお守りを胸元に結びつけた。
その仕草が、妙にドキッとする。
――あの護符、美月の“命綱”みたいなもんだ。
響は、心の中でそっと誓う。
絶対に、守る。
こいつが、もう二度と血を流さなくていいように。
「さて」
宗十郎が、急に真顔に戻った。
「楽しい準備はここまでじゃ。
おぬしたちに、ひとつ伝えておかねばならんことがある」
その声色に、響の背筋が自然と伸びる。
「禍鬼はな──自然発生するものではない」
「……え?」
「邪鬼や低位の鬼は、人の負の感情や、土地の穢れから生じることもある。
じゃが、禍鬼は違う。“誰かが、意図して生み出すもの”じゃ」
空気が、重く沈んだ。
「じゃあ、あの禍鬼の裏に……」
「術者がおる。意図を持つ鬼か、人か、それ以外かはまだ分からん。
じゃが、少なくとも──おぬしたちを、あえて狙った節がある」
「俺たちを……?」
響は、あの旧校舎での戦い、商店街での襲撃を思い返す。
どちらも、“偶然そこにいた”だけにしては、できすぎていた。
「おぬしの怨叉は、鬼女紅葉の流れを汲む特別なもの。
欲しがる輩は、昔から多かったからのう」
宗十郎は、ふっと寂しそうに笑った。
「そして、美月ちゃん。おぬしもまた──“目をつけられた”可能性が高い」
「私も……?」
「霊力は炎と同じじゃ。
明るく大きく燃えるほど、闇にとっては目立つ灯りになる」
美月はぎゅっと自分の胸元のお守りを握った。
「……怖いです」
正直な一言。でも、その次の言葉は、やっぱり彼女らしかった。
「でも、神崎くんが近くにいるなら、大丈夫です」
「プレッシャーのかけ方がエグいんだが」
響はため息をつきつつ、少しだけ口元を緩めた。
「でもまあ──
勝手に禍鬼送り込んでくるようなやつに、これ以上好き放題させとく気もないしな」
宗十郎が頷く。
「そこでじゃ。実はわしも、少し前から怪しい動きを追っておってな」
「怪しい動き?」
「“鬼無里”の方で、妙な噂が聞こえておる」
その地名に、響の胸が強く鳴った。
「鬼無里……鬼塚の転校して来た場所……」
(※紫苑をあとで出す伏線にもできる地名なので、そのまま使います)
「そうじゃ。古来より鬼女紅葉の伝説が残る土地じゃな。
そこを拠点に、禍鬼を生み出す儀式が行われている可能性がある」
「そんな……」
美月が息を呑む。
「じゃあ、こっちに来てる禍鬼は、その……練習台、とか?」
「あるいは、力の“試し撃ち”じゃろうな。
本命はまだ別におる。もっと大きく、もっとおぞましい“何か”が」
宗十郎が、静かに響を見る。
「響、美月。
近いうちに、おぬしたちにも“選んでもらう”ことになるかもしれん」
「選ぶ……?」
「この街だけを守るのか。
それとも、“鬼無里”を含めた、もっと大きな禍根に踏み込むのか」
響は、思わず美月を見た。
美月も、響を見返す。
視線が交わった瞬間、言葉にしない想いが、ほんの少しだけ通じ合った気がした。
「……その話は、今すぐじゃなくていい」
宗十郎が、敢えてそこで打ち切るように言った。
「今はまだ、日々を守ることで手一杯じゃろう。
じゃが、覚えておきなさい。“いつか必ず、決断を迫られる”と」
胸の奥に、冷たい石のようなものがひとつ、落ちていく感覚。
同時に、それを包むように、小さな温もりも感じた。
横を見ると、美月がそっと響の袖をつまんでいた。
「……大丈夫。考えるのは、二人でやろ?」
「……ああ」
響は、短く答えた。
その夜。
美月が帰った後、響は一人、自室でベッドに寝転がり、天井を見つめていた。
カァン……
怨叉に軽く触れると、澄んだ音が鳴る。
(“相性がいい”か……)
昼間、祖父にからかわれた言葉が、頭の中で再生される。
「……何考えてんだ俺は」
自嘲気味に笑って、目を閉じた。
どうしようもなく、不安で。
どうしようもなく、嬉しくて。
胸の中のどちらの感情も、誤魔化せそうにない。
――これ、たぶん。
俺はもう、とっくに。
「……美月のこと、好きなんだろうな」
小さく呟いた言葉は、闇に溶けて消えた。
その瞬間、怨叉がかすかに震えた気がしたが──
響はそれに、気づかなかった。
・
・
・
同じ頃。
都会の夜景を見下ろす、高層ビルの屋上。
風に長い髪を揺らしながら、一人の影が月を見上げていた。
「……見つけた」
女の声だった。冷たくも、どこか愉しげな響き。
彼女の足元には、砕け散った禍鬼の残滓と思しき黒い破片が、まだわずかに残っている。
「禍鬼を“浄化”する人間。鬼の血を引く少年。
それに、紅葉の怨叉の音に、素直に応えられる娘」
細い指が、黒い破片をつまんで持ち上げる。
「駒は揃ってきた。あとは──どう盤面に置くか」
女が口元を歪める。
「楽しませてね。鬼女紅葉の末裔くん」
夜風が吹き抜け、彼女の背中から一瞬だけ、黒い“角”の影が覗いた。




