第四章・幕間──戦いのあと、少しだけ近く
邪鬼を浄化し終えた公園には、風の音だけが残っていた。
さっきまでの緊張は嘘みたいに薄れて、代わりにどっと疲労が押し寄せてくる。
「……ふぅ」
鬼化を解いて、人間の姿に戻りながら、響は大きく息を吐いた。
耳元で、怨叉が、風に揺れて鳴る。
「おつかれさま、神崎くん」
少し離れたところで、美月も膝に手をついて、肩で息をしていた。
制服の袖は土で汚れて、前髪もところどころ乱れている。
それでも、彼女はちゃんと立っていた。
自分の足で、最後まで。
「……美月もな。退魔札、いい感じに決まってた」
「えへへ。
でも、神崎くんがちゃんと押さえてくれてたからだよ。外したら、ただの紙切れだもん」
笑いながら言うけれど、その手はわずかに震えている。
怖くなかったはずがない。
さっきまで真正面に、“本物の鬼”がいたのだから。
「……腕、見せてみろ」
「え?」
さっき邪鬼の爪が掠めた、美月の左腕。
傷は浅いものの、さすがに真っ赤になっていた。
響は自分のポケットから、小さな救急用ポーチを取り出す。
「なにそれ」
「バイト先の店長から。『最近やたらケガしてくるから、持ち歩いとけ』って」
「……店長さん、いい人だね」
「まあな」
ベンチに座るよう促すと、美月は素直に腰を下ろした。
響も隣に座り、そっと彼女の腕を手に取る。
「ちょ、近……」
「動くな。消毒しづらい」
言いつつ、自分でも分かるくらい、心拍数が上がっていた。
細い手首。
触れた肌は、まだ少し冷たい。
「しみるぞ」
「うん……」
シュッと消毒液を吹きかけると、美月が小さく肩をすくめた。
「っ……でも、このくらい平気」
「平気じゃなくていいんだよ。痛いもんは痛いって言え」
「言ったら、神崎くん、もっと顔しかめるでしょ」
「……バレてるのな」
苦笑しながら、絆創膏を丁寧に貼っていく。
距離が、近い。
彼女の睫毛の長さとか、髪から漂うシャンプーの匂いとか、そんなものまで妙にはっきり分かってしまう距離。
「……はい、完了」
「ありがと。神崎くん、こういうの慣れてるね」
「まあ、自分のケガでだいぶ練習したからな」
「それ、全然自慢にならないよ……」
ふたりで小さく笑う。
さっきまでの「命がけ」の空気は、もうどこにもない。
あるのは、少し息が弾んだ、放課後の延長みたいな時間だけだ。
「ねえ、神崎くん」
ふいに、美月が空を見上げたまま言った。
「さっきさ──」
「ん?」
「怖かったけど……それと同じくらい、嬉しかった」
「嬉しかった?」
「うん」
美月は少しだけ視線を落として、脚をぶらぶらと揺らす。
「だって、いつも一人でどっか行っちゃう神崎くんが、ちゃんと『一緒に』って言ってくれたから」
「……」
ああ、そうか。
自分では「巻き込みたくない」と思って距離を取っていたつもりが、
向こうからすれば、単に「遠ざけられていた」だけかもしれない。
「だからね」
美月が、ほんの少しだけ響の方に身体を傾ける。
「これからも、ちゃんと言って。
危ないかも、とか、怖いかも、とか、無理かも、とか」
「……情けないところ見せるだけだぞ」
「今さらじゃない?」
急所を突いてくる。
「小学生のときから知ってるもん、神崎くんの情けない顔」
「あのさあ、昔の俺の株下げるのやめろ?」
「ふふ。でも──」
美月は今度はまっすぐ、響の顔を見る。
「情けなくても、怖がってても、迷ってても。
それを隠さないで、ちゃんと見せてくれる方が……私、嬉しいよ」
「……なんで」
「だって、そのぶん『一緒にいられる』から」
あっさり言うな、この人は。
心臓に悪い。
「……お前さ」
「なに?」
「たまに、反則みたいなこと言うよな」
「え、なにそれ。褒めてる?」
「半分な」
思わず目をそらし、夜空を仰いだ。
月が大きく見える。
「……じゃあ俺も、ひとつ言っとく」
「?」
「今日、お前が後ろにいてくれて、割とマジで助かった。
札もそうだけど──振り向いたとき、お前が逃げずに立ってたの、見えたからさ」
「あ……」
美月が、目を丸くする。
「それだけで、なんか、『まだ倒れらんねえな』って気になった」
「……」
今度は美月の方が、視線を彷徨わせた。
「……反則返しだ」
「何が」
「今の方が、ずるい。
そんなこと言われたら──もっと、頑張りたくなっちゃうじゃん」
言葉とは裏腹に、その声は嬉しさに少し震えていた。
風が、二人の間を通り抜ける。
しばらく、どちらも何も話さなかった。
沈黙なのに、不思議と居心地は悪くない。
むしろ──終わってほしくないと思ってしまうくらいに。
「……あ。そうだ、神崎くん」
沈黙を破ったのは、美月だった。
「ん?」
「ちょっとだけ、目つぶってて」
「は?」
「いいから、早く」
訝しみつつも、響はしぶしぶ目を閉じる。
「変なことしたら怒るからな」
「しないってば。ほら、ちゃんと閉じて」
完全に視界を遮られる。
次の瞬間。
額に、なにか柔らかいものが、ちょん、と触れた。
「……っ!?」
反射的に目を開けると、美月が至近距離にいた。
彼女の顔は、限界まで赤くなっている。
「い、今のは──?」
「おでこ、です」
「見れば分かる。なんで」
「お礼。です」
美月は視線を合わせようとしないまま、早口で続けた。
「命、助けてくれたお礼。あと、その……秘密、打ち明けてくれたお礼」
「いや、秘密はバレたんだけどな」
「あれは半強制だからノーカン!」
むきになって言い返す声が、妙に可笑しい。
そして、可愛い。
「……お前、キスの安売りとかすんなよ」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「……っ!」
美月の動きが止まる。
やばい。さすがに言い方がストレートすぎたか、と響が焦ったその時──
「だ、誰が安売りするって言ったの!」
「え?」
「今のは、『おでこ』だからギリギリアウトじゃなくてセーフで……
その……“ちゃんとした方”は、そんな簡単にしないから……!」
「“ちゃんとした方”って、何の話してんだお前は!!」
自爆したのは、美月の方だった。
顔を覆って、俯き、その肩がぷるぷる震えている。
「忘れて今のナシ! 禁止! 黙秘権!!」
「無理に決まってんだろ、そんなインパクトあるワード!」
公園の片隅で、高校生二人がなにやらわたわたしている光景は、
もし第三者が見ていたら、怪しさしかない。
しばらく、お互い真っ赤になって言い合い(という名の照れ隠し)をしてから、
ようやくふたりとも落ち着いた。
「……えっと」
美月が、少しだけ真面目な顔に戻る。
「今のは、さっきの“反則返し”の、さらに返し。ってことで」
「倍返しにも程があるだろ」
「嫌だった?」
不安そうに問われて、響は即座に首を振った。
「いや。
……困るけど、嬉しかった」
「うん。なら、よかった」
ようやく、美月は心からほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、響は思う。
――ああ、完全に手遅れだ。
守りたいとか、助けたいとか、支え合いたいとか。
そんな綺麗な言葉を抜きにしても。
ただ、単純に。
この笑顔を、もっと近くで見ていたい。
そう願ってしまっている自分が、ここにいる。
「……そろそろ、帰るか」
「うん。あ、でも」
「まだ何かあんのか」
「今日は、その……帰り、一緒に歩いてもいい?」
「いつも一緒に帰ってるだろ」
「そうなんだけど、今日は“特別に意識して一緒”ってことで」
「……よく分かんねえけど、まあ、いいよ」
並んで歩き出す。
いつもと同じ、見慣れた帰り道。
でも今は、隣にいる彼女の足取りや、腕の振れ方や、時々交わる視線が、やけに気になる。
たぶん、それは美月も同じだったらしく──
家の前に着いたとき、玄関の前で立ち止まり、くるりと振り向いて言った。
「ねえ、神崎くん」
「ん?」
「今日のこと……その……ずっと忘れないでね」
「忘れられるかよ」
即答だった。
美月は嬉しそうに目を細める。
「じゃあ、約束」
小指をそっと差し出されたので、響も自分の指を絡めた。
「約束な」
「うん。
──おやすみ、神崎くん」
「おやすみ」
扉が閉まるまで見送ってから、響はようやく背を向けた。
怨叉の鈴が、しゃらん、と鳴る。
やけに胸が騒がしくて、彼は思わず夜空を見上げた。
月はさっきよりも高い位置で、静かに輝いていた。




