第二章 ──日常の裏側
翌日、学校。
「神崎くん、おはよう」
「おう、おはよう」
いつも通りの朝の挨拶。いつも通りの日常。
だが、響の心は穏やかではなかった。
昨夜の戦いの後、響は気を失った男を救急車で運ばせた。邪鬼に憑かれていただけで、男自身に罪はない。
だが──問題は、邪鬼の数が増えていることだ。
「神崎くん、聞いた? また事件があったんだって」
美月が心配そうに言う。
「昨日の夜、商店街の近くで暴行事件。被害者は意識不明だって」
「……そうか」
響は表情を変えずに答える。
それは、自分が倒した邪鬼のことだろう。
「最近、この辺り物騒だよね。神崎くんも気をつけてね」
「ああ、ありがとう」
美月の優しさが、少し胸に痛い。
彼女は知らない。自分が毎晩、化け物と戦っていることを。自分が人間ではないことを。
「……神崎くん?」
「ん? どうした?」
「ううん、なんでもない。ただ……最近、疲れてない?」
「大丈夫だって。心配性だな、美月は」
響は笑顔を作る。
だが、美月の表情は晴れなかった。
──やっぱり、何か隠してる。
美月は確信していた。響は何かを抱え込んでいる。一人で、重いものを背負っている。
「……無理しないでね」
「ああ」
昼休み。
響は一人、屋上にいた。
弁当を食べながら、空を見上げる。
青い空。白い雲。平和な景色。
だが、この街の裏側では、邪鬼が蠢いている。
「……どうすればいいんだ」
響は呟く。
邪鬼を倒しても、また新しい邪鬼が現れる。
まるでイタチごっこだ。
そして、鬼化を繰り返すたびに、自分の人間性が削られていく。いつか完全に鬼になってしまうのではないか──そんな恐怖が、響の心を蝕んでいた。
「このままじゃ、俺も……」
カァン……
耳飾りが、微かに鳴った。
「……また、か」
響は立ち上がる。
昼間から邪鬼が現れるとは。事態は悪化している。
「まずいな……」
響が屋上から下りようとした時、教室から騒ぎ声が聞こえた。
「誰か! 誰か来て!」
「先生! 先生!」
「救急車! 早く!」
響が駆けつけると、廊下に人だかりができていた。
「どうした!?」
「神崎! 大変なんだ、田中が……!」
クラスメイトの一人が、青ざめた顔で言う。
「田中が、急に倒れて……意識がないんだ!」
「!」
響が人混みをかき分けて中に入ると──
そこには、床に倒れている田中の姿があった。
顔色は悪く、呼吸も浅い。まるで生気を吸い取られたかのように。
そして、その首筋には──小さな青い痣のようなものがあった。
「……これは」
響は小さく呟く。
祖父から聞いた話を思い出す。
──憑き物。人に憑いて、精気を吸い取る鬼。
「神崎くん!」
美月が駆け寄ってくる。
「田中くん、大丈夫かな……」
「……大丈夫だ。すぐに救急車が来る」
響は冷静に答える。
だが、心の中では焦っていた。
──このままじゃ、田中は……!
憑き物に精気を吸われ続ければ、田中の命はない。
だが、ここで鬼化するわけにはいかない。
人がいる。大勢の人間が見ている。
「くそ……」
響は歯噛みする。
その時、救急隊員が到着した。
「すみません、通してください!」
田中が担架に乗せられ、運ばれていく。
「……行くぞ」
響は決意する。
放課後まで待てない。今すぐ、憑き物を見つけ出さなければ。
田中は救急車で運ばれたが、邪鬼の気配はまだ学校内に残っている。
「……どこだ」
響が廊下を歩いていると──
カァン……
耳飾りが強く鳴った。
「この先か……」
響が向かったのは、旧校舎。
普段は使われていない、古い建物。噂では幽霊が出るとも言われている場所だ。
「ここに、邪鬼が……」
響が扉を開けると──
薄暗い廊下が続いていた。
窓は汚れ、床には埃が積もっている。空気が淀んでいて、息苦しい。
「……気配が、濃い」
響が奥へと進むと──
突然、冷たい風が吹き抜けた。
「!」
響が身構える。
廊下の奥から、小さな影が現れた。
それは──子供のような姿をした、青白い肌の鬼。
「……座敷童子、か?」
だが、その目は赤く光り、口元からは鋭い牙が覗いている。
「いや、違う。これは──邪鬼、か?」
「ヒヒヒヒ……」
鬼が不気味な笑い声を上げる。
「見つけた、見つけた。美味しそうな精気……」
「お前が、田中に憑いていたのか」
響が睨む。
「そうだよ。でも、あの子はもう空っぽ。だから、次の獲物を探してたんだ」
鬼が舌なめずりをする。
「そして、見つけた。君、とっても美味しそう」
「……悪いが、俺を食おうってのは無理だぜ」
響が耳飾りに触れる。
カァン──
鈴の音とともに、響の体が変化する。
瞳が金色に輝き、角が生え、鬼の姿へ。
「俺は、鬼の血を引く者だ。お前みたいな邪鬼には、負けない!」
響が駆け出す。
鬼も、響に向かって飛びかかってくる。
ドガァッ!
響の拳が、鬼の体を捉える。
「ギャッ!」
鬼が吹き飛ばされる。
だが、すぐに体勢を立て直し──
「ヒヒヒ、痛いじゃないか!」
鬼の体が、突然大きくなった。
子供の姿から、大人の姿へ。
そして、腕が伸び、爪が鋭くなる。体から禍々しい気配が溢れ出す。
「これが、僕の本当の姿!」
「!?」
響の顔色が変わる。
この気配──邪鬼とは違う。もっと強大で、もっと邪悪な──
「まさか……禍鬼!?」
「あれ? 気づいちゃった?」
禍鬼が楽しそうに笑う。
「そうだよ。僕は禍鬼。邪鬼なんかとは格が違うんだ」
「くそ……!」
響の額に冷や汗が流れる。
禍鬼──それは邪鬼よりも遥かに強力な鬼。祖父から聞いた話では、禍鬼は人の精気だけでなく、魂そのものを喰らうという。
「さあ、君の魂、頂くよ!」
禍鬼が響に襲いかかる。
「くっ!」
響が避けるが、禍鬼の爪が響の腕を掠める。
「ぐっ……!」
血が流れる。
「美味しそう……その血、頂戴!」
禍鬼が響の血を舐めようとする。
「させるか!」
響が禍鬼の顔面に拳を叩き込む。
ドガァッ!
禍鬼が怯む。
「まだだ!」
響が連続で拳を繰り出す。
ドガッ! ドガッ! ドガッ!
だが、禍鬼は素早く動き、響の攻撃をかわしていく。
「遅い、遅い! 邪鬼と一緒にしないでよ!」
禍鬼が響の背後に回り込む。
「!?」
禍鬼の爪が、響の背中に叩き込まれた。
「がっ……!」
響が倒れる。
「はぁ……はぁ……」
息が荒い。
禍鬼が、ゆっくりと近づいてくる。
「さあ、君の精気、全部頂くよ」
禍鬼が響の首に手を伸ばす。
「くそ……このままじゃ……!」
響が立ち上がろうとした時──
パタパタパタ……
廊下を走る足音が聞こえた。
「!?」
響と禍鬼が同時に振り返る。
そこには──
「神崎くん!?」
美月が立っていた。
顔は青ざめ、息を切らしている。
「美月!? なんでここに……!」
「神崎くんが、こっちに来るのが見えて……心配で……」
美月の視線が、響の姿に釘付けになる。
角の生えた、金色の瞳の──鬼の姿。
「か、神崎……くん……?」
美月の声が震える。
「ヒヒヒ、新しい獲物!」
禍鬼が、美月に向かって飛びかかった。
「美月、危ない!!」
響が叫ぶが、体が動かない。
「きゃあああっ!!」
美月が悲鳴を上げる。
禍鬼の爪が、美月の腕を切り裂いた。
「あっ……!」
美月が倒れる。
腕から血が流れる。
「美月!!」
響の中で、何かが弾けた。
「お前……美月に……手を出すなああああっ!!」
響の体から、金色の光が溢れ出す。
怒りが、響の力を引き出す。
「うおおおおっ!!」
響が禍鬼に突進する。
怒りに満ちた拳が、禍鬼の腹部に叩き込まれた。
ドゴォォォンッ!!
「ギャアアアッ!!」
禍鬼が壁に叩きつけられる。
「まだだ!」
響が禍鬼に迫る。
連続で拳を叩き込む。
ドガッ! ドガッ! ドガッ!
「許さない……美月を傷つけた奴は……絶対に許さない!」
響の拳が、禍鬼の顔面に命中する。
ズバァァァンッ!!
禍鬼の体が砕け散る。
「ギ……ギャ……こんな……はずじゃ……」
禍鬼の声が途切れ──
完全に消滅した。
「……はぁ……はぁ……」
響が膝をつく。
カァン……
耳飾りが鳴り、鬼化が解除された。
だが、響の体は傷だらけだった。
背中の傷からは血が流れ、腕も切り裂かれている。
顔にも擦り傷があり、制服はボロボロだ。
「美月……!」
響が美月に駆け寄る。
美月は壁に寄りかかり、腕を押さえていた。
「大丈夫か!? 怪我は……!」
響が美月の腕を見る。
深い傷ではないが、血が流れている。
「……」
美月は何も答えない。
ただ、響を見つめている。
その目には──恐怖と困惑が混じっていた。
「美月……」
響が手を伸ばそうとすると──
「来ないで……!」
美月が叫んだ。
「……え」
響の手が、空中で止まる。
「来ないで……あなた、誰……?」
美月の声が震える。
「神崎くん、なの……?」
「……美月」
響は、ゆっくりと手を引っ込めた。
「俺は……響だ。神崎響」
「嘘……だって、さっきの姿……角が生えて……」
美月が混乱している。
「あれは……俺の、本当の姿だ」
響が俯く。
「俺は……人間じゃない」
「……」
美月は何も言えなかった。
信じられない。
目の前の人物が、本当に神崎響なのか。
それとも、化け物なのか。
「美月、お前を助けたかった。でも……」
響が立ち上がる。
「俺の姿を見せてしまった。ごめん」
響が歩き出す。
「待って……」
美月が声を絞り出す。
響が振り返る。
「……ひび、き……なの……?」
美月が恐る恐る尋ねる。
その目は、まだ恐怖に満ちている。
だが──どこか、心配そうな色も混じっていた。
響の体は傷だらけで、血まみれだ。
今にも倒れそうなほど、ふらついている。
「……ああ、俺だ」
響が小さく笑う。
「心配かけて、ごめんな」
「……」
美月は、響を見つめる。
角は消えている。
瞳も、いつもの黒い色に戻っている。
でも──
「私……」
美月が立ち上がろうとする。
だが、足が震えて、立てない。
「怖い……」
美月が呟く。
「ごめん……神崎くん……私……」
美月の目から、涙が溢れる。
「怖いの……ごめんなさい……」
美月が泣きながら、立ち上がる。
そして──
走り去った。
「美月……!」
響が呼び止めようとするが──
体が動かない。
傷が深すぎる。力が入らない。
「くそ……」
響が膝をつく。
視界が霞む。
「美月……ごめん……」
響が倒れ込んだ。
意識が、遠のいていく。
翌朝。
響は自宅のベッドで目を覚ました。
「……ここは」
体中が痛い。
だが、傷は治療されていた。包帯が巻かれ、薬の匂いがする。
「起きたか、響」
部屋の隅から、祖父の声が聞こえた。
「じいちゃん……」
「昨日、お前が旧校舎で倒れていると連絡があってな。迎えに行った」
祖父が響の隣に座る。
「鬼と戦ったんだろう?」
「……ああ」
響が頷く。
「それで……女の子を、巻き込んでしまったんだな」
「……見てたのか」
「いや、お前の傷を見れば分かる。誰かを庇った傷だ」
祖父が響の頭を撫でる。
「辛かったな」
「……じいちゃん」
響の目から、涙が溢れる。
「俺……美月を、怖がらせちゃった……」
「そうか」
「美月、泣いてた……俺のこと、怖いって……」
響が顔を覆う。
「俺、どうすればいいんだ……」
「……響」
祖父が優しく言う。
「お前は、悪くない」
「でも……」
「お前は、彼女を守ろうとした。それだけだ」
祖父が響の肩を叩く。
「今は、彼女に時間をあげなさい。きっと、分かってくれる」
「……本当に?」
「ああ。お前を信じているなら、必ず」
祖父が微笑む。
「さあ、今日は学校を休め。体を休めなさい」
「……うん」
響は再び横になった。
だが、眠れなかった。
美月の泣き顔が、頭から離れない。
翌日、学校。
響は重い足取りで、教室に向かった。
美月は、来ているだろうか。
来ていたとして、話してくれるだろうか。
それとも──もう、自分を避けるのだろうか。
「……」
響が教室の扉を開けると──
美月が、席に座っていた。
「!」
響の心臓が跳ねる。
美月も、響に気づいた。
二人の視線が交わる。
「……」
美月が立ち上がる。
そして──
響の方に歩いてきた。
「美月……」
響が身構える。
怒られるかもしれない。
怖がられるかもしれない。
だが──
「神崎くん」
美月が響の前で立ち止まる。
その表情は──少し怒っているようだった。
「あの……」
「なんで、黙ってたの?」
美月が頬を膨らませる。
「え……」
「神崎くん、あんな危ないことしてたのに、なんで言ってくれなかったの?」
「それは……」
響が言葉に詰まる。
「心配したんだよ? 神崎くん、血だらけだったし……」
美月の目が潤む。
「私、怖くて逃げちゃったけど……でも、やっぱり心配で……」
「美月……」
「一晩中、考えたの。神崎くんのこと」
美月が響を見つめる。
「神崎くんは、あの化け物と戦ってたんだよね? 人を守るために」
「……ああ」
「だったら、神崎くんは悪くない。むしろ、すごいよ」
美月が小さく笑う。
「でも……秘密にしてたのは、ちょっと怒ってる」
「ごめん……」
「ううん、いいの。きっと、言えない理由があったんだよね」
美月が響の手を握る。
「でも、助けてくれて、ありがとう」
「美月……」
「これからは、秘密とかなしだよ?」
美月が真剣な表情で言う。
「何かあったら、ちゃんと話して。私、神崎くんの味方だから」
「……ああ」
響が頷く。
「ありがとう、美月」
「うん!」
美月が笑顔を見せる。
その笑顔を見て、響の心が温かくなった。
──良かった。
美月は、受け入れてくれた。
「でも、神崎くん」
「ん?」
「次は、ちゃんと私も連れてってよ。一人で戦わないで」
「……それは、危ないから」
「ダメ! 私も手伝う!」
美月が頬を膨らませる。
「もう、神崎くんが傷だらけになるの、見たくないもん」
「……分かったよ」
響が苦笑する。
「じゃあ、これから一緒に戦おう」
「うん!」
二人が笑い合う。
教室に、朝の光が差し込んでいた。




