第一章 ──平凡な日常
現代、東京。
「神崎くん、また寝てる……」
教室の窓際、最後列の席。そこで気持ちよさそうに眠っている男子生徒に、隣の席の女子生徒が呆れたように声をかける。
神崎響──十七歳。見た目も性格も、どこにでもいる普通の高校二年生。成績は中の下、運動神経も平均的。特技は「空気を読むこと」と「目立たないこと」。
「ん……あと五分……」
「授業中だよ!」
バシッと教科書で頭を叩かれ、響はようやく目を覚ました。
「いてっ……朝比奈、暴力反対……」
「寝てる方が悪いでしょ。先生に見つかったらどうするの」
朝比奈 美月──響の幼馴染みで、クラスメイト。成績優秀、容姿端麗、性格良好と三拍子揃った学園のマドンナ的存在。なぜか響とは小学生の頃からの付き合いだ。
「大丈夫大丈夫。先生、今日は機嫌いいから」
「そういう問題じゃないでしょ……」
美月は溜息をつきながら、自分のノートを響の机に滑らせる。
「はい、写しなさい。後で返してね」
「マジで? 美月、天使か」
「天使に失礼だよ。それより、昨日バイト遅くまでだったの?」
「ああ、深夜二時までシフト入ってた」
響は大きく伸びをしながら答える。
彼は学校の近くのコンビニでアルバイトをしている。両親は海外赴任中で、一人暮らしの生活費を稼ぐためだ。
「無理しないでね。倒れたら心配だから」
「ありがと。でも平気だって」
そう言って笑う響の顔に、美月は少し不安そうな表情を浮かべた。
──この人、たまにすごく寂しそうな顔をする。
幼馴染みとして長い付き合いだからこそ、美月にはそれが分かる。響は何かを隠している。何か、とても重いものを──。
「神崎! 朝比奈! 私語は慎みたまえ!」
教壇から先生の声が飛んできて、二人は慌てて前を向いた。
放課後。
「じゃあ、また明日ね」
「おう、気をつけて帰れよ」
美月と別れ、響は学校を出た。
今日はバイトが休みだ。久しぶりにゆっくりできる。
夕暮れの街を歩きながら、響は無意識に左耳に触れた。
そこには、小さな耳飾りがついている。
銀色の、鈴のような形をした耳飾り──怨叉。
音叉の形を模した、一族に伝わる秘具。
これに触れて鳴らせば、響は「鬼」へと変わる。人ならざる力を得る代わりに、人間性を少しずつ失っていく。
「使わないで済めばいいんだけどな……」
呟きながら、響は商店街を抜けていく。
その時だった。
「きゃあああああっ!!」
路地裏から、女性の悲鳴が聞こえた。
響の足が止まる。
──また、か。
最近、この辺りで不審な事件が増えている。暴行、傷害、そして行方不明──。警察は連続犯の仕業と見ているが、響には分かっていた。
あれは、人間の仕業じゃない。
「くそっ……」
響は路地裏へと駆け出した。
薄暗い路地裏。
そこには、若い女性が壁に押し付けられていた。
そして彼女を押さえつけているのは──見た目は普通の男だが、その瞳は濁り、口元からは黒い霧のようなものが漏れている。
「ひ、ひぃ……」
女性が恐怖に震えている。
「おい、そこまでだ!」
響の声に、男がゆっくりと振り向いた。
その顔──人間のはずなのに、どこか歪んでいる。表情が不自然で、まるで別の何かが中から操っているかのようだ。
「……邪鬼、か」
響は小さく呟いた。
邪鬼──悪しき霊に取り憑かれた存在。人の姿をしているが、もはや人間ではない。人を襲い、喰らい、災いをもたらす。
「逃げろ! 早く!」
響の叫びに、女性が這うようにして逃げ出す。
男──いや、邪鬼がそれを追おうとするが、響が前に立ち塞がった。
「相手は俺だ」
「……ギ、ギギ……」
邪鬼が不気味な声を上げながら、響に襲いかかってくる。
その動きは人間離れしていた。瞬時に距離を詰め、鋭い爪のような手が響の喉元に迫る。
──速い!
だが、響の体は既に動いていた。
左耳の耳飾りに指を触れ、軽く弾く。
カァン──
澄んだ鈴の音が路地裏に響き渡った。
その瞬間、響の体に変化が起きる。
瞳が金色に輝き、髪が逆立つ。体から黒い霧のようなものが立ち上り、額に小さな角が生える。
「ぐっ……うぁあああっ!!」
響の叫び声とともに、邪鬼が吹き飛ばされた。
鬼化──響の本当の姿。
人と鬼の血を引く者だけが持つ、禁断の力。
「はぁ……はぁ……」
荒い息をつきながら、響は自分の手を見つめる。
黒い爪が生え、血管が浮き上がっている。これが、自分の本当の姿──。
「ギギギ……」
邪鬼が立ち上がり、再び襲いかかってくる。
だが今度は、響の方が圧倒的に速かった。
一瞬で距離を詰め、邪鬼の腹部に拳を叩き込む。
「消えろ……!」
ドゴォッ──という鈍い音とともに、邪鬼の体から黒い霧が噴き出した。
その霧は空中で渦を巻き、やがて消えていく。
後に残ったのは、気を失った普通の男だけだった。
「……終わった、か」
響は再び耳飾りに触れる。
カァン──
今度は、鬼化が解除される音。
体から黒い霧が消え、角が引っ込み、瞳の色が元に戻る。
だが、響は知っていた。
変身を重ねるたびに、自分の人間性が削られていくことを。
いつか声を失い、記憶を失い、ただの悪鬼へと堕ちていく──。
「……まだ、大丈夫、だよな」
自分に言い聞かせるように呟き、響は耳飾りから手を離した。
その小さな銀色の怨叉は、微かに揺れながら、静かに輝いている。
響は路地裏を後にした。
その様子を、遠くから見ている影があった。
「……やはり、あれが神崎響か」
ビルの屋上から、一人の少女が響を見下ろしている。
長い黒髪、鋭い眼光、そして背中には──小さな翼のようなものが見えた。
「鬼女紅葉の末裔……面白い」
少女は不敵に笑うと、闇の中へと消えていった。




