プロローグ──鬼女の伝説
平安時代、信濃国。
霧深い山々に囲まれた鬼無里の地に、一人の女が立っていた。
紅葉──かつて京の都で美しき女官として名を馳せた女性。しかし今、その瞳には人ならざる炎が宿っている。
「……許さない」
夜風に乗って、低く呟く声。
都での日々が脳裏をよぎる。宮廷での嫉妬、根も葉もない讒言、そして理不尽な追放。何も悪いことなどしていないのに、ただ美しく、才があるというだけで──。
紅葉の背後で、古い祠が不気味に軋んだ。
「力を……もっと力を……」
彼女の手が震える。鬼の力を得てから、どれほどの時が経っただろうか。復讐を誓ったはずなのに、気づけば彼女は山の民を守る存在となっていた。
飢饉の時には獣を狩り、盗賊が来れば追い払い、病が流行れば薬草を集めた。
鬼となった自分が、人を守っている。
その矛盾に、紅葉は苦笑する。
「私は……一体、何者なのだろう」
だが、朝廷はそんな彼女を許さなかった。
鬼は鬼。善も悪もない。ただ、討つべき存在──。
遠くから、松明の灯りが近づいてくる。討伐軍だ。
紅葉は静かに怨叉を取り出した。音叉の形をしたそれは、月光を受けて鈍く輝く。
「せめて……この村の人々だけは」
カァン──と、澄んだ音が夜の闇に響き渡った。
その音色とともに、紅葉の姿が変わっていく。美しい女性の面影を残したまま、角が生え、爪が鋭く伸びる。
最後の戦いが、始まろうとしていた。




