別の道
「アンタには、自殺なんて無意味だよ」
終電にほど近い、人影もまばらな駅のホーム。その端に置かれたベンチに栄子は腰を下ろしていた。
頭上から落ちてきた低い声に顔を上げると、いつの間にか隣に大柄な男が立っていた。
褪色した緑のロングコートに厚手のセーターを重ね、足元は重さを感じさせる編み上げブーツ。白髪の混じる髪と無精ひげが歳月を仄めかす。年の頃は五十前後といったところだろう。
栄子は二重の意味で驚いていた。
ひどくぼんやりとしていたとはいえ、この距離まで他人が近づいていることにまるで気づかなかったこと。そして、口に出していない自らの思いを見事に言い当てられたこと。
実際、彼女は死ぬつもりだった。次に駅を通過する特急列車が姿を見せたら、それを合図に線路へ身を投げる――その決意が彼女の胸を占めていた。
「どなたですか?」
「鉄道会社の依頼でね。今日のような満月の夜になると、アンタみたいな美人の飛び込みが多いんだって、頭を悩ましてるらしくてね」
「自殺を止めるボランティアの方ですか」
「金はもらってるが、まあ、そんなようなもんだな」
「残念ですが、無駄ですよ」
そう返した栄子の顔には、微動だにしない静けさがあった。心は固く閉ざされていて、どれだけ言葉を尽くされようと、説得される気配はない。そんな暗い目つきだった。
「人身事故が多大な人間に迷惑を掛けること。それによって、遺族には多額の賠償がのしかかること――私は承知しています。
それを見越した上で、この方法を選んだんです。私は、できるだけ夫に不幸になってもらいたいんです」
「なるほどね」と、男は苦笑した。
栄子は、夫の裏切りにずいぶん前から気づいていた。
彼女は、夫のスマホのパスコードを知っていて、パソコンからそのデータにアクセスすることまでできた。
だから、同僚に連れられて訪れたガールズバー〈Dolce〉で、夫と菊池若菜がはじめて出会った夜から、二人のやり取りはすべて掌中にあった。
メッセージのラリーは常時、彼女のパソコンにも届いた。
気持ちが滅入る内容ではあったが、それはガールズバーの店員にとっては仕事の延長でしかなく、夫にとっては日常で抱えたストレスを軽くするための息抜きである――栄子は、そう高を括っていた。
しかし、そうではなかった。
一ヶ月もしないうちに二人は美術館に出かけて行き、その日の夜には、位置情報の赤いピンがホテルの屋根に突き刺さった。素肌を土足で踏み躙られたような屈辱に、栄子は一人呻き声を漏らした。
それから一年が過ぎた。
二人の交わすメッセージや写真や動画は降り積っていき、マウスで乱雑にスクロールしてもしばらく底に到達しないほどの厚みを持つようになってしまった。
昨晩、味噌汁を啜っていた夫がテレビから視線を外して、ボソリと言った。
「ちょっと、大事な話があるんだけど」
栄子は動揺を隠せず、高騰した野菜の話題や、お盆の予定など脈絡のない話で食卓を埋め尽くし、夫にそれ以上の言葉を切り出させなかった。何も聞きたくなかった。
そして今日。仕事を休んだ栄子は、昼間家にいることの多い若菜の住むアパートへと向かった。以前、夫に贈られた柔らかなブラウスを着て、ハンドバッグを抱えて――。
人が全くいない対向ホームをぼんやりと眺めていた栄子の耳に、男の低い声がまた落ちてくる。
「人生って奴は、平坦じゃねえよな。アンタの事情も分かる。でも自殺には全く意味がねえんだ」
「分かっています。でも他に選択肢なんてないんです」
栄子は膝の上に置いていたハンドバッグをつかみ、血に染まった包丁を取り出した。刃身には赤黒い塊がこびりつき、乾いた月光に鈍く光る。
男が深く嘆息すると、電光掲示板が特急列車の接近を告げた。
包丁がカランと床を打ち、男は視線を栄子に戻す。栄子は風に揺れる蝋燭の炎のように、フラリと立ち上がった。
「もう取り返しはつきません」
「そんなことねえよ。落ち着け。罪を犯したなら償えばいいんだ」
「罪? 私が悪いと思いますか? 私は夫を唆した女を罰しただけなんです」
「同情はする。だが、人を刺したらそれは罪だよ。アンタもその女と同じだ、罰を受ける必要がある。何もしないで許されることじゃないだろ?」
「それくらい分かっています。だから、飛び込むしかないんです」
「違う。人間はどんな状況からだってやり直せるんだ。全部を放り出して、身を投げたところで何も変わらないんだよ。罰を受けて生まれ変わる道を選ぶべきだ」
男の言葉は、その場を取り繕うためだけの方便ではなかった。目を見れば分かる誠意があった。だが、栄子はすべてを拒んだ。
「ごめんなさい」
減速もせず、列車がホームへ突入してくる。
栄子の表情は緊張に強張っていたが、瞳には覚悟の火が灯っていた。昨夜、夫に見せた狼狽は影もない。
男が掛けた言葉を振り払い、彼女は引き寄せられるようにホームの淵まで進むと、そのままの勢いで宙へと身を投げた。
男は反射的に手を伸ばしたが、彼女の身体に触れることは叶わなかった。
轟音をまとった鉄の塊が、真横を走り抜けた。
男の髪とコートが風圧で乱れた。舌打ちがこぼれる。
「……クソ、失敗した」
強情な女だ――男は心の中で毒づく。
列車は何事もなかったように夜の闇へ溶けていった。
ポケットから取り出したスキットルを口に運ぶ。安いウイスキーが喉を焼いた。
スマホが震える。「課長」の着信表示。男はため息交じりに通話ボタンを押した。
「どうだ。説得できたかね?」
「いや、失敗しました。目の前で飛び込まれちまった」
「そうか。小倉くんも案外と頼りにならんな」
「仕方ないでしょう、課長。夫に浮気された女ですよ。俺みたいな中年の男じゃ、説得するのは難しい」
「なら、深川くん辺りに頼んだらよかったかな」
「その方がずっといいでしょうね。彼女ならシンパシーを感じて貰えて、対象が耳を傾けてくれる可能性は高い」
「わかったよ。検討してみよう」
意識は耳に残したまま、なんの気なく男は線路へ視線を落とした。
栄子が身を投げた場所。そこには、激しく損壊した肉塊と大量の血液が飛び散っていた。
……のだと思う。だが、すでに鉄道会社の職員による懸命な清掃は済んでいる。月明かりの下で、静かな光を湛えたレールがまっすぐどこまでも伸びているだけだった。
男はウイスキーをあおり、熱い息を吐く。
「適材適所って奴ですよ。俺には、もっと荒事を振って下さい。期待に沿って見せますから」
「それは承知しているがね。他の課員の経験も積ませないといけないからなぁ」
「まあ、課長も色々とやりくりが難しいのかも知れませんがね。とにかく、俺はこの案件から外して下さい。きっと、同じことの繰り返しになる。
俺みたいな粗野なタイプには不向きなんですよ。こういう――」
くたびれた声で男は続けた。
「――地縛霊を成仏させる仕事は」