月下路
心が泣きたい方へ
少々、お時間下さい
月明かりが、石畳の細い道を銀色に染めていた。風が梢を撫でるたび、葉がこすれる音が微かに響き、どこかで一羽、杜鵑が啼いていた。
音のない夜だった。
けれど、彼女には聞こえていた。
あの人の声が。
昔、この道をふたりで歩いた。
月が今夜のように静かで、あの人は空を見上げながら「星より君の方が綺麗だ」と笑っていた。
彼の言葉は風のように軽く、けれど、忘れられないほど深く胸に残った。
しかしその夜を最後に、彼は戻らなかった。
彼が消えた理由も行き先も、誰も教えてはくれなかった。ただ一つ、彼が残した短い手紙だけがある。
「もし月が綺麗な夜があったら、その光の中で、また逢える気がする。」
彼女はそれを信じて、何年もの間、同じ夜道に立ち続けている。
春が過ぎ、夏が終わり、冬の夜には吐息が白く染まりながらも、彼女は帰らない夜に身を置いてきた。
そして今夜も、月は美しく、杜鵑が啼いている。
彼女はそっと目を閉じた。
風がまた、過去の囁きを連れてくる。
その声はもう、幻なのか、本物なのかもわからない。
けれど彼女は微笑んだ。
「…おかえり。」
まるで、遠くの闇の中から歩いてくる足音が聞こえたような気がした。
足音はだんだんと近づいて、月の下に一つの影を落とす――
それは、記憶に刻まれた彼の姿と、寸分違わぬものだった。
彼は、何も言わずに微笑んだ。
彼女の目から、ひとすじの涙がこぼれ落ちる。
温かくて、ずっと心に溜めていたものすべてが流れ出るようだった。
「どうして…こんなに遅かったの……」
彼は、ただ彼女の肩にそっと手を置く。
その手は、もう冷たくなかった。けれど――実体が、どこにもなかった。
その瞬間、風が静まり、鳥の声も止み、月が少しだけ陰った。
気づけば、彼の姿はもうそこにはいなかった。
あの日と同じように、言葉を残すこともなく、ただ、去っていった。
彼女はその場にひざをつき、胸に残るぬくもりを抱きしめる。
今度こそ、本当に、彼が最後の「さよなら」を言いに来たのだとわかったから。
そして彼女は、静かに笑った。
「…ありがとう。やっと、前に進めそう。」
月はふたたび明るくなり、遠くでまた、杜鵑が啼いた。
それは、もう泣き声ではなかった。
まるで、ふたりの別れを祝福するような、やさしい調べだった。