第1話「そして春雨を買った」
『それはぼくが子供の頃のこと。頭をみじん切りにされているような痛みと共に、一人の女の子を見たんだメ』
◇◇◇
5月9日の木曜日、私は学校の帰り際にスーパーへと買い物に来ていた。
「木曜日は卵の特売日、一人一パック。これは戦争だ、意識を切り替えるんだ、私」
今日の課題を詰め込んだリュックサックを背負い、買い物かごを左手に持つ。右手でポケットに入れたスマホを取り出してホーム画面を見る。
17:59
勝負の時は近い。このスーパー、名は”エキチカ“。ちなみに駅からは近くも遠くもない。
私は高校入学とともに水見市へと引っ越してきて現在二年目に突入した頃だ。ここに来てからの半年間は、特売品を手に入れることができなかった。近隣住民との争いは熾烈を極める。
「あらぁ、覚ちゃんじゃないの」
「あっ、新井さん。こんにちは」
彼女は、エキチカの近所に住むおばあちゃんだ。彼女の動きはおよそ80代には見えないことがある。背中を60度曲げている状態が平常《デフォルト》。そんな新井さんの腰が一本の竹のように真っ直ぐ伸びる時間は特売が始まってからの30秒。
「新井さん、今日は激戦になりそうですね」
「ふっ、戦争も経験したこともない小娘が、言うようになったじゃないか」
店内の壁に掛けられている時計の短針が六を指し示す。
セールを告げる呼び込み君の声が聞こえる。
「まさか…北なの!?」
私が音の位置を特定した時、横に新井さんはいなかった。
「くっ…」
エキチカは特売を東西南北のどこかで行う。常連はそれを直感で当てられるようになるらしいが、私はまだまだ未熟者。完熟している人たちには敵わない。連続で五日も選ばれていたから、今日こそ北ではないと当たりをつけていた私はまんまと遅れをとったのだ。
「やっぱり……、もうないか」
私が息を切らしつつ北の特売スペースにたどり着いた頃、そこに卵は一パックとして残っていなかった。項垂れる、そんな私の肩を叩く人がいた。
「覚ちゃん、まだまだね」
不甲斐ない、私は慢心していたとでも言うのだろうか。返す言葉もない。
ガサッ
買い物かごの重みが増す。
「…新井さん!」
振り返ったそこに新井さんはいなかった。なんて粋な人なんだ。将来はあんなおばあちゃんになりたいものだ。
そして、左手に持ったカゴへと視線を向ける。眼に映ったのは…。
「…………春雨?」
頭が思考停止する。感情がグルグルと回る、まるでナウローディング。
私の口から出たのは決意。
「あのババア……、絶対に許さねえ。生きてるうちに必ず同じめに合わせてやる。待ってろよ、滝で首でも洗いながら待っていやがれ…!」
◇◇◇
スーパーから家への帰り道、その足取りは重い。
「はああぁぁぁぁ………」
ついため息をついてしまう。あの後、怒りに身を任せた結果、足りなくなっていた調味料や消耗品も一気に買ってしまった。両手に握られたギュウギュウのエコバッグ、足取りが重い原因は精神的なものより物理的な割合の方が大きい。
そのバッグには懸賞で当たった大好きなゲーム会社のロゴが入っている。これのおかげで日頃の買い物の楽しさが増したのだが、それはそうとして流石にキツい。部活にも所属しちゃいない帰宅部の女子高生にはちょっと荷が重い。
実際、荷物が重い。
それもこれも後ちょっとの辛抱だ、私の住んでいるアパートの周りを囲うコンクリート塀が見えてきたからだ。
「やっとだぁー」
敷地の入り口には「水荘」と書かれた看板。何を隠そうこの水荘が現在私の住んでいるアパートである。
ここの大家”兼”管理人さんが母方の祖母と知り合いらしく、格安で住まわせてもらっている…。いるのだが未だに大家さんに会えていない。軽い行方不明らしい。
ついでに言うと、今は私以外に住んでいる人はいない。戸数は全部で八。一階の右から101、102、103、104号室となっていて、2階は201号室から始まって同じように割り振られている。
カンカンカン
階段を登る。私の部屋は204号室、ちなみに大家さんは101号室だ。
敷地内には他に物置として使われている倉庫がある。
部屋の前でバッグを下ろし、リュックを前にずらす。少しだけジッパーを開いて部屋の鍵を取り出す。
ガチャン、キィィ
ドアノブを回して部屋へと入る。
「ただいまー…」
勿論返ってくる言葉などない。一人暮らしだからね。癖で言っているだけだ。そういえば引っ越して来てから独り言は増えてしまったかもしれない。
さっさと着替えて夕飯を食べよう、流石に疲れた。
@@@
動きづらい制服から、楽な部屋着に着替えてからキッチンに立つ。冷蔵庫に買って来た食材を詰める。
「ちょっと買いすぎたかもなあ。消費期限切れには気をつけないと」
私はさっき買った春雨を手に取る。
賞味期限間近で半額になっていたようなので、早速今日食べることにした。米を炊く。ー幾らか野菜を切った後、フライパンに水を注ぎ春雨を投入。
「あ、眼」
やっぱ春雨って茹でてる時キモいな。まだ少し固い春雨と沸騰手前の水が合わさり、たくさんの眼のように見える。まあ春雨は好きだし、そんなに気にしてないけども...。
ピーッピーッ
あ、ご飯炊けた。とりあえずほぐしとかないと。春雨の調子はっと…。
「ギェッ」
およそ乙女の口から発せられていい効果音ではなかったが、この状況では仕方ない。なぜなら、茹でていた春雨がフライパンから飛び出してきたのだ。突沸にしてはあまりに物理法則からかけ離れた挙動に開いた口が塞がらない。
と、そこで声が聞こえてきた。
「やあ、僕は召喚したのは君だメ?」
◇◇◇
私は夢でも見ているのだろうか。落ち着け、落ち着け私。ここで一旦情報を整理しておこう。
私の名前は?
ーーー月並覚
職業は?
ーーー女子高生、2年生
ここは?
ーーー高校に通うため、借りたアパートのキッチン、現在一人暮らし中
じゃあ目の前でフライパンに乗ってるこいつは?
ーーー・・・なんだ?全身もやがかっていて判別しづらいが、全長40cmほどで2頭身のフォルム、顔にはぐにゃぐにゃした口、鼻は見当たらない、ここまではいい。いや、何もよくないのだが。特筆すべきはその眼、無数の眼が乱雑に配置されており、閉じたり開いたりしている。
《眼鏡はどうやってかけるんだろうか》
ふと、疑問が心の中に浮かぶ。ふむ。あまりに気が動転していて一周回って落ち着いてきたな。
「僕らは眼鏡は必要ないんだメ。妖怪は人ほど弱くないメ。覚ちゃん」
へー、そうなんだー。
ってえええ、なんでこいつ私の名前知ってんだよ。
「僕らは“覚《さとり》”っていう妖怪なんだメ。人の心が読めるんだメ。さっき覚ちゃんが自問自答していたからそこで知ったんだメ。でも、なんでだメ?僕のこと知ってて呼び出したんじゃないのかメ?」
意味がわからない。意味がわからないが、まあこの地球も生まれて46億年だか経っているし、バグの一つや二つ起こるだろう……、そういうことにしておく。
「呼び出したってのはわかんない。心当たりないし、どういうこと?」
私の問いに妖怪が答える。
「じゃあ偶然だったんだねメ〜。ちょうど人を探していたんだメ。ラッキーだメ〜」
「え…?帰れ」
ふと、口に出る。
「召喚された時に契約は結ばれたし、もうどうしようもないメ」
話を聞く限り、妖怪の世界にクーリング・オフ制度はないようだ。今はもう受け入れるしかないのだろう。が、どこかうざったいな。とりあえず名前でも聞くか。
「あなたの名前は?」
「ないメ。覚ちゃんの方で決めて欲しいメ。契約上覚ちゃんが主人だから」
即答である。心を読んで質問の答えをあらかじめ用意していたのだろう。それといいことを聞いた。立場はこちらが上らしい。ならば…。
「後で決める。とりあえずあなたは今から語尾に’メ‘をつけるのをやめて、イラつく。後できれば見た目も変えて、眼が怖い」
私の指示を合図に目の前で妖怪が蠢く。形を変えているようだ。グニャリとした後、黒猫の姿に落ち着いた。
「よかった〜。本来の姿って、目が乾いて嫌なんだよね」
まさかのドライアイである。致命的では?それより。
「語尾消すのに躊躇ないのね。大丈夫なの?」
再びのクエスチョン、相手のアンサーは速い。いいじゃないか、妖怪カスタマーセンター。
「いや〜、正直語尾つけるのもキャラ付けのためで嫌なんだよね」
できるなら最初からやれよ。
「僕心読めるんだよ!なんてこと言うのさ。と言うか立場はっきりしてから態度豹変しすぎじゃない?」
チッ
「まさかの舌打ち!?」
心外だ。
「投げキッスです」
「そうかあ、投げキッスかあ。ってそんなわけなかったよ。僕聞こえたもん」
いちいち反応がうるさいなぁ。……けど、思えばこんな会話を家でしたのも久しぶりだな。一人暮らしを始めてから、学校以外でこんなに声を出す必要なかったし。
「何いい感じで終わろうとしてるのさ。ねええええ」
私の物語はこうして始まってしまったのだった。