6. 父
クレールの記憶にある父、アランは、髭面で、目の下に隈を作った顔色の悪い男だった。
近くに来ても、抱き上げたりなどされたことは記憶になく、邪険に扱うことは無かったものの、一人娘に対する扱いにしてはよそよそしいものだった。
クレールは、そんな父の態度は自分が生まれたことで母が体を壊して亡くなったことが原因なのだろうと子供ながらに思っていた。それはまた、周りの大人たちに尋ねてみたところ、皆同じような答えを返した。普通なら、年端も行かない子供の質問に律義に答えることなどないのだが、クレールは、そう意識することもなく、相手から答えを引き出せる能力があった。単に、相手の目を見つめて質問するだけでよかった。大抵それで答えは得られた。例外は、ニコールで、みだりにそのような力を使ってはならないと釘を刺されたものだった。
そして、父親のアランに対しても、そういったことはしなかった。
父親の自分に対するよそよそしい態度が、母の死だけでなく、自分の出生に関して、また別の理由があるのではないかと思うようになったのは、父が亡くなってだいぶたった頃だった。
曾祖母ニコールも亡くなり、その後のことについて話し合う一族や砦の村の主だった者たちの集まりが開かれていた。クレールはその場に居なかったが、例によって大人たちから情報だけは聞き出していた。
そのうち、砦の村の教会の老牧師の態度が、どこか含むようなところがあったので、日頃の敬意を取り払い、真意を尋ねてみた。その答えはクレールに思いもよらないものだった。
自分が父アランの実の子ではないかもしれない、というのだった。
父はこのことを知っていたのか?
クレールと言えども、このことはショックだった。本当の父親は別にいるかもしれない。
そのことについて、クレールは牧師に相談をするという名目で二人きりになり、細かいことを聞き出すことに成功した。
クレールの父親ではないかと思われる男は、以前、この島へやってきた教師で、ベジャールという男だという。
クレールは、その男に会ってみようと思った。
そのうち、牧師がフランスへ渡り、知人にあう予定があることが分かった。その知人は、怪我をしてこの島を離れた、ベジャールという男を預けた相手でもあるという。
クレールはこれは好機だと、牧師に着いて一緒にフランスへ渡ることにした。砦の村の次期当主になるであろうクレールだったが、牧師の所用に付いて行く謂れは無い。それでも、クレールには無理を通せる力があった。
こうして、七月に入ったばかりのという時期に、老牧師と一緒に、見聞と見識を深めるため、という名目の一週間程の旅行が許されることとなった。
老牧師との船旅でブルターニュのロスコフへ着いたクレール達は、それから鉄道で遥か南東のリヨンまで赴いた。老牧師は長旅が堪えるようで、リヨンのホテルではぐったりとしていた。何故飛行機を使わないのかと問うたクレールに、あれは苦手だから、と疲れた笑いを見せた。クレールは、それが遠く、戦時中の牧師の記憶まで繋がる理由であることを知って、それ以上聞くことはしなかった。
そこで宿泊したものの旅は終わりではなく、翌日さらにアヌシーまで足を延ばした。ここまで来ると、スイスとの国境も近く、アルプスへ連なる山々もあった。クレールの一族が遠い昔に住んだというのもアルプスの近くであった。
湖に臨む保養地は天気がよく風光明媚だった。フランスにはパリに二度ほど行ったことがある程度のクレールには物珍しい光景だった。湖も山も、小さな島と違い、遠く広がりを持っていた。
ここで知人に会うという牧師と連れの者を置いて、クレールは一人町に出た。観光に来たわけではないが、自分の住む村と違い、明るく広く、古い城も教会もあり、澄んだ湖水と、物珍しく見て廻った。
雰囲気は、島の港町に近かったが、狭苦しいようなところは無かったし、常に感じる潮の香りもここには無い。
物珍しく見回すことは止めると、古くはサナトリウムもあったというこの町の、とある医療施設へ向かうため、タクシーに乗った。
「誰の見舞い?」
そう聞く運転手に、
「もしかすると、お父さん」
そう答えた。怪訝な顔の運転手を見て、クレールは笑った。運転手もつられて笑い、浮かんだ疑問は頭から消えていた。
療養所は、一見ホテルのように見えた。タクシーを降りて、受付に向かい、来意を告げる。誰も、十代前半と見える少女が一人入ってきても気に留めなかった。事前に連絡もせずに入れる場所かどうかもクレールは知らなかったが、それが問題になるとは思っていなかった。
「ベジャールという人は、どんな人ですか?」
受け付けた女性にクレールは尋ねた。
「外国で教師をしていたらしいわ。アジアやアフリカの、環境の悪い場所で。目も見えないというのに。現地の人たちにはとても尊敬されていたそうよ」
クレールは受付から通され、部屋(病室といったほうがいいかもしれない)へ案内された。看護師がノックしてドアを開ける。そして、クレールが中に入った。
「どなたかな?」
目の見えないらしい、げっそりと痩せこけた男がベッドに横たわっていた。髪に白いものも交じり、老人のように見えた。まだ年は五十を超えていないはずだったが。
「クレールといいます。お会いするのは初めてです」
「クレール?」
まだ若く幼い声に戸惑うようだった。
「あなたにお聞きしたいことがあります。あなたは昔、ヘリアデス侯国という島国へ、教師として訪れたことはありませんか?」
男は、見えない目で遠くを見るかのように顔を上に向けた。
「ヘリアデス。砦の村の島だね。片時も忘れたことは無い。私が犯した罪とともに。
誰にも語ることなく、死ぬことになるのかと思っていた。誰に語る勇気もなく生きてきて、今更言えることではないが。
聞いてもらえるかね?
私は、砦の村を訪れて、教師をしていた。村の教会の牧師が私の師の友人で、私に話が来たのだ。私はその島のことは知っていた。祖先がその村の出で、村の長である一族に連なるものだったという話を聞いたことがあったから。
私は結婚して一年と経っていない妻がいた。妻は島へ私が行くことを嫌がったが、落ち着いたら呼び寄せるつもりで先にいくことになった。
島は、どこか中世の香りを残す、古い国だった。その中でも、砦の村は、太古の息吹が残るような場所だった。
それでも、村は私に閉鎖的なところはなく、学校にもすぐになじめた。私の血がそうしてくれたのかもしれない。
砦の村には、昔、〝銀の女王〝と呼ばれた、魔女の力を持つという女王の一族の末裔が村の長として住んでいた。
その一族が住む砦と呼ばれる館を私は何度も訪れた。自分の出自にかかわる場所だったし、ミラにも会える場所でもあった。
ミラは村の長であるラ・ファージュ家の一人娘だった。盲目であるにもかかわらず、そんなところは感じさせなかった。何より朗らかで麗しい、傍にいるだけで癒されるような娘だった。それに、どことなく妻にも似ていた。
とはいえ、私には妻がいて、ミラには単に好意以上のものは無かった。ミラに会う度に妻のことを思い出す私は、一時帰郷することになったときに、妻を連れて島へ戻るつもりだった。
南仏にある私の家は、町から離れた場所にあり、着いた頃にはだいぶ遅くなっていた。一日早めに帰って妻を驚かせようと思っていたがもう寝静まっているだろうと思い、家に辿り着くと、まだ家の明かりは灯っていた。
八月の蒸し暑い日の夜だった。家のドアの鍵は開いていて、不用心なものだと私は家に入った。妻の姿を探し、テレビがつけっぱなしになっている居間やキッチンを見て回ったが妻は居ない。居間から寝室へ向かうと、テレビからではない、人の声が聞こえた。それは、声というよりは、荒い息や喘ぎだった。
戸惑いと、ある種緊張感から、私はそっと寝室のドアの前にたった。ドアは少し開いており、中から薄明かりが漏れている。そこに立つと、もう、中で何が行われているか、見るまでもなかったが、中を覗き見た。
最初に見えたのは、長く垂れた金髪。顔は隠れて見えなかったが、素裸でこちらに背を向けているのは妻に違い無かった。時折大きく声をあげ、はしたない言葉を口にしている姿は、妻とは思えなかった。私には見せたこともない、あられもない姿だった。
私は逆上したのか無意識からかわからない程混乱して部屋入った。突然現れた私に二人は驚き慌てていた。男は私の友人で、独りになった妻を慰めるうち過ちを犯してしまったと詫びていた。妻もしおらしくして見せていたが、その表情にはどこか開き直ったようなところがあった。問い詰めようとした私に、
「あなたが悪いのよ」
と、不貞腐れた顔で吐き捨てる様に言った。私は気が付いたら妻の首を絞めようとしていた。友人に押しとどめられて引き離されると、その部屋から出て行った。そこへは二度と戻らなかった。その後妻とは別れた。友人とも二度と会うことは無かった。
そんな状況で島へ戻った私の心は荒れていた。周りの者が気にかけていたが、私にはそんな好意も心に届かなかった。
ある日、野山をあてどなく歩いていると、ブナの森に入り込んでいた。暫く歩くと、歌声が聞こえた。ミラだった。島に戻ってから、私はミラを避けていた。
「ベジャール?」
目の見えないはずのミラだったが私の姿を見止めたようだった。そういう、変わったところが彼女にはあった。
彼女は私に近づいて、何があったのかと優しく、無邪気に訪ねて来た。その時私はミラに妻の姿を重ねて見ていた。抱きしめて、驚いたミラにキスをした。それまで触れたことも無かったというのに。気が付くとミラを押し倒して乱暴していた。何かに憑かれたように、妻に出来なかった仕打ちをミラに対して行っていた。
どこからか、狼の遠吠えが聞こえた。私は我に返った。そして倒れて泣いているミラを残してその場から逃れた。
逃げるように走るうち、足を踏み外して谷へ転げ落ちそうになり、掴んだ木の枝はすぐに折れて、私は谷底へ転げ落ちた。転げ落ちても木の枝をまだ手にしていた。棘のある、ヒイラギの枝だった。掴んだ手は血にまみれていた。私は泣いた。子供の様に。そして、手にした枝が鋭く尖ていることに気が付いて、私はその枝で両目を突き刺した……」
ベジャールは、その時の痛みを思い出したかのように、苦しみだした。クレールは、手の平をベジャールの額に押し当てて、暫くそのままにしていた。
「これは……。痛みが遠のいていく」
ベジャールは白く濁った眼でクレールを見た。その目で姿が見えるかのようだった。
「君の姿が見えるような気がする。後光のように縁取られて……あなたは天使のようだ」
その言葉にクレールは笑った。
「あなたの魂を奪いに来た死神かもしれないわよ」
「私の命も長くは無いことは分かっている。死神が現れるなら、頃合いだろう」
ベジャールは意識が混濁してきたのか、独り言のように呟いた。クレールは、この男に、少し憐みを覚えていた。罪の意識に苛まれた、自分の父親かも知れない男。
「私は人の命を救うことは出来ないし、しようとしてもならないと言われてきた。でも、痛みだけなら、取り除いてあげられる」
クレールは目を閉じて左手をベジャールの額にかざした。時折痛みに顔を歪めていたベジャールは次第に落ち着いた表情になり、やがて静かに眠った。
「さようなら」
看護師が、何時もなら痛みに苦しむことの多いベジャールが静かなことに気が付いて、病室を訪れた。ベジャールは静かにベッドに臥していた。その表情は、穏やかで、苦しみから解き放たれたように、笑みを浮かべているかに見えた。