4. エーデルワイス
村の役所を辞して、二人は島の北側、外輪山を越えた向こうにある、もう一つの港町へ向かった。昔、銀鉱山からの銀を積みだすための港として発展した町だった。
そこへ向かうには、砦の村からは人が住まなくなったと言う集落跡近くを通り、外輪山の峠を越えて行くことになる。
砦の村の境界である石垣を過ぎると、行く手にぽつぽつと廃屋が見えるようになった。道が二股に分かれ、峠へ向かう道へ折れようとする辺りに、平屋が数軒あり、たむろしている数人の男がいた。瓶の酒や缶ビールを呷っているものもいる。車のオデットを見て下卑た笑いをあげるものもいた。フランスから来た、といっても人種は様々だった。
車が峠へ向かう道へ向かうと、何か車にぶつかる音がした。オデットが振り返り、エリックがバックミラーで見ると、たむろしていた男の一人が、まだ中身の残っている缶を投げつけたようだった。
男たちは当たったことに笑い声を上げていた。
「思っていたより酷いわね」
オデットがそっとカメラでその様子を写した。
「今は構わん方がいい」
少しスピードを上げてエリックは車を走らせた。車が遠ざかると、男達は興味を失くしたようにまた座って酒を飲んでいた。
車はこの日二回目の九十九折りを登り、峠へと向かう。日も西に傾いてきたが、この時期は日が沈むまではまだまだ時間はあった。
酔いそうなほど左右に揺られながら山を登ると、漸く峠に辿り着いた。標高は二千メートルほど。駐車できるほど広くなった辺りに車を止めると、二人は降りた。
「ここまで上がると肌寒いわね。いい眺め」
雪を頂いたテラ山を右手に前を見ると、今日上った中央火口丘を含めた、カルデラ全てが一望出来た。湖や空港が小さく、宿のある港が遠く霞んでいる。
振り返って北を見ると、眼下に崖にへばりつく様に家々が立ち並ぶ、北の港が見えた。そこから、僅かに百メートルほど隔てて、ドゥオ島という小島があり、入江のようになっていないこの港は、小島との細い水路沿いにあった。
「これが、この島のエーデルワイスだ」
写真を撮っているオデットに、エリックが足元の白い小さな花を指示した。花弁のような白い葉に、細かい白い綿毛が生えているのがこの花の特徴だが、この島のものは白い葉が細く、星のように広がっていて、高さは十センチほどしかなかった。
「結構普通に咲いてるのね」
接写して立ち上がったオデットが周りを見回すと、そこかしこに白い花が咲いていた。
「もっと低い場所で咲いているところもあるだろうが、ここが一番密集して咲いている群落だな」
「この花に、蝶もくるの?」
「いや。蝶の好きな花はあの山の斜面に多いから、昔はそこに居たんだが今はどうなっているか……」
エリックは二十年前の記憶をたどり、テラ山の雪の山頂直下の斜面を指さした。雪と岩の間に緑色の斜面が見える。その下は切り立った崖になっていた。
「ここから見える山小屋から、あそこまで下る細い道がある。歩いてしか行けない道だが、あの斜面に行くにはそれしかない」
エリックはその道を父と何度か往復して蝶を探した。採集する許可を貰っていたもののなかなか見つからず、島を発つ日が近づいてようやく見つけた時の父の子供のような喜び様を覚えていた。
そして、その翌日、父は崖の下で遺体で見つかった。その時、エリックは。
「どうかしたの?」
ぼんやりと斜面を見つめるエリックにオデットが声をかけた。
「いや。何でもない。行こう」
オデットはエリックを訝し気な顔で見ていたが後に続いた。車に乗り込むと、エリックは斜面を一瞥して、車をスタートさせた。
あの日。エリックは砦の奥にある暗いブナの森で独りでいるところを、ラ・ファージュ家の森を管理している作業員に発見された。父とはぐれて、なぜそんな場所に居たのか、エリックは覚えていなかった。後になって知った父親の死は、夢のような、非現実的な印象しかなかった。
その日、父と一緒に山へ向かったエリックがぼんやりと思い出せるのは、暗い森を走る獣、それと、うすぼんやりとした、光る人影。それだけだった。
山を下って、港町に入る。南にある港と違って、ここには客船などは来ない。今は銀鉱山も閉山して、さほど多くもない漁船の漁港として使われていたが、往時の喧騒は無く、寂れていた。
エリックとオデットは、廃坑近くの廃墟のように、ここも荒れているのかと思っていたが、意外に治安は保たれているようで、酒瓶を手に歩くような者は居なかった。その理由は、車を降りて町を歩いていると分かった。軍服を着た者が時折街角に立っていた。この島には、軍隊というほどのものは無かったが、警察の特殊部隊に相当するような部隊が、軍隊の役割を果たしていた。戦闘機や軍艦らしいものは無いこの小国は、もしこの国が戦乱に巻き込まれた場合、宗主国とする英仏が防衛に協力することが盟約となっていた。
オデットはその軍服姿の装備を見ていたが、軍備に関しては、合衆国が援助しているということで、調べたところでは、米軍のちょっと旧式な装備とのことだった。
「ここだけ、警戒してるのは何故かしらね。砦の村の村長は、陳情しても音沙汰無いって言ってたけど」
「さあな。村長が言っていたように、本当に何か見つかりでもしたのか」
二人は休息と、情報を得ようと手近にあったカフェに入った。鉄製の看板のかかる老舗らしい店だった。この港町の家々は、砦の村と同じく、石造りでスレート葺きの質素なものだ。
「いらっしゃい」
重い木の扉を押して入ると、カウンターの客と話していた店主が愛想よく声をかけた。禿げ上がった頭の、腹の突き出た老人だった。エリックは、砦の村からここまで、住人に若者が殆ど居ないことに気づいていた。店は狭く、カウンター以外にテーブルが三つあるだけ。二人は奥のテーブルに着いた。
「君は?」
「私は、この紅茶のセットで」
エリックはカフェを頼み、オデットは三種類ほどの菓子が付いたセットを頼んだ。三十台前後に見えるあまり愛想の良くないウェイトレスが運んできたのは、オデットにティーポットに入った紅茶と小さめのマカロンやティラミスといった菓子、エリックには、大きめのカップに入った濃いコーヒーとミルクや砂糖の入れ物。
良く行くカフェで頼むと出てくるのはエスプレッソだったエリックは戸惑ったが、ここはパリでもフランスでも無かった。
「フランスから来たのかね?」
カウンターの客が帰って、店主が声をかけた。島の訛りとは違うフランス語だった。
「ええ。私は。彼女は、合衆国から」
「観光かい。以前、パリに住んでいたことがあってね。これでも絵描きを目指してたんだ。生活のためにカフェで働いたりしてたら、そっちの方で腕を上げちまったけどな」
そう言って笑う。
「ここは、イギリスから移り住んだ者も多いから、英語を話すことも多いけど、アメリカ人はあまり見ないな」
「最近、他所から移ってきた人が多くなっているって聞いたんですけど、ここもそうですか?」
オデットがさっそく情報収集にかかっていた。
「ああ。フランスから来ている者が多くなっているとか。この町では、あまり見ないね。廃坑の方に増えたのは、また何か採掘を始めたとかで、金がでるって噂を聞いてやってきた山師みたいな連中だって話だね」
言うことは、砦の村の村長とあまり変わりなかった。
「噂で来るなら、フランスに限らない気もしますけど」
「昔ここで採れた銀は、ほとんどフランスと取引していたらしいからね。侯爵家の先祖もフランス出身だし」
「砦の方は、また違うんでしたね」
「ああ。もともとの住人といえば、砦の人たちかな。まあ、女王がいたころから、他所から移り住んだ者が多かったそうだし、メルクーリ家が領主となってからは、フランス風な名前に皆変えているけどね。もとは、ケルト語とかとも違う、妙な言葉を使ってたらしいけど。今はそれを知っているものもいないんじゃないかな」
店主は島の歴史には詳しいようだった。
「女王は、何て名前だったんですか?」
「海賊と戦って死んだ女王かね?『銀の女王』というのが通り名だったみたいだね。身内からどう呼ばれてたかは良く分ってないらしい。苗字というものが無くて、名前だけ呼び合ってたらしくて、言葉も違うから、どう呼んでいたかも伝わっていないんだ」
「今の当主は、クレール・ド・ラ・ファージュでしたよね?」
「クレール姫か。成人してないから、今はラ・ファージュ家の当主は空位だね。ラ・ファージュってのも、後から着けた名じゃないかな。メルクーリ家とラ・ファージュ家は、親戚でもあるんだよ。クレール姫の父君は、メルクーリ家現当主のベルナルド二世の従弟だったしね」
「あら。そんな関係なんですか」
「それ以前から何度か婚姻関係はあったらしい。それで、メルクーリ家に後を継ぐ子がいない場合は、ラ・ファージュ家から後継ぎを出すことになっているんだ」
オデットもエリックも知らない話だった。
「ベルナルド二世には、子供が二人いるけど、二人とも今は国外に住んでる。学者とデザイナーだったかな。田舎の領主なんて継ぐ気はないんじゃないかって話もあるね。継承権とかそういうことを言うと、息子のリシャール卿が第一位、アデル嬢が第二位、クレール姫が第三位になるかな」
「クレール姫って、この島の領主になれるんですか?」
「上二人が継がない場合は、ね」
「そうなると、女王が蘇ることになるわけですね」
オデットが面白そうに言う。
エリックは、この島の領主という、支配権を巡る陰謀などがあるのだろうかと、そんなことを考えた。そうだとすると、誰が領主になったとき、誰がどんな利益をえられるのか。
そう思って、行き当たるのが、そもそもこの島の領主になることが、利益になるだろうか? ということだった。産業も資源もなく、住人は減少し、先行きの怪しそうな島が。租税回避地? 昨今は規制が強まり、これも将来はどうなるか。
そうなると、この島の土地など得たところで、利益にはならないだろう。刹那的に、投機的に利益を得ようという考えもなくはないが。租税回避地を隠れ蓑にしたいマフィアもあるだろう。
もちろん、この島とて、大西洋上の一点を占める領土としての価値は大きいだろう。それは、国単位で見た場合のことだ。
それでは、陰で国家が動いているのか。英仏に合衆国と言った国々が。その場合でもまた、どういう理由で? という謎が残る。
「侯爵家を継いだとしても、この島の領主となるには、イギリスの女王と、フランス大統領の承認がいるけどね。形式的なものだろうけど。
そんなことより、小さいとはいえ、一つの国を治めるのは大変なことだよ。先々代のベルナルド一世の頃は、この島も苦しい時期で、島を離れていく者が多かったものだ。私もその一人だったけどね。
誰が領主になっても、今より生活が苦しくなるのは誰も望まない。衣食住は当然、学校に行ったり仕事をしたり、休みには寛げるような国じゃなければ、心だけでなく、人々が領主から、この島から離れて行ってしまうようになるから」
店主の言葉には実感がこもっていた。損得だけで島の状況を考えてしまう自分は、所詮余所者なのだろう。エリックは飲んでいるコーヒーの苦みに不意に気付いたような気がした。
「あなたには、今の島の状況は、どういう風に見えますか?」
エリックふと、そんなことを尋ねた。
「どういう風に? そうさね。妙に浮ついた感じかね。わしらの生活は特に変わっとらん。悪くもなってないが、それを有り難いとまでいう気はないがね。
それでも、道は整備されて、トンネルも作られ、空港も新しくなったし、南の港町を首都にして名前を変えようなんて話もあるね。鉄道が作られるって話もあったっけ。測量をしているのを見たっていう人もいたな。なんでも日本人が作るらしい。日本のカメラは私も持ってるよ。彼らなら良いものをつくるだろうね。
タックスヘイブンだかで金回りが良いのかもしれないが、イギリスもフランスもこのところ気前が良いようだね。国際援助だとか投資だとか」
店主は自分でもコーヒーを注いで、一口飲んだ。
「何の下心もなく女に花をやる男は居ないもんさ。それを知っている女なら、あしらい方も心得ているだろうけど。思い通りに行くとは限らんものだよ」
そう言って、いたずらっぽくにやりと笑ったが、エリックにはどこか諦念を含んで、寂し気にも見えた。
狭い石畳の港町の通りを抜けると、外輪山の外の海岸線の舗装された道路に出た。太陽は山の向こうで、山の影に入った道路からは、穏やかな大西洋と、濃藍色の空が覆っていた。
エリックは黙って車を走らせる。
北の港町の市長はアポイントは取っていたものの不在だった。町を警備する部隊の責任者に会ってみたかったエリックだったが、取り合って貰えなかった。この島の署長は捜査に協力すると言ったが、特に各部署に伝えているわけでもなさそうだった。
実のところ、刑事とオデットには言ったが、エリックは汚職を捜査している検察官だった。その違いを認識していない人も多いし、捜査の内容を勘繰られるのも面倒で伝えなかった。砦の村などでもそれは伝わっているようにも思えなかったが。
警察署では、調査対象が民間人か公職者かどうかは曖昧に、マフィアがらみということにしていたが、何が目的かは感づかれてもおかしくは無かった。
「もうすぐトンネルだっけ。一昨年開通したばかりで、六千メートルっていうと二万フィートかな。それくらいあるそうよ」
オデットがタブレット端末を操作する。やがて、山肌に空いたトンネルに入った。
このトンネルはイギリスの援助でできたものだという。鉄道もイギリスの援助だそうだが、実際に造るのは日本企業ということのようだ。
ここ二十年ばかりでは合衆国も援助や投資を活発に行っているらしく、軍備やIT関連に貢献しているらしい。
エリックは、ジャン=フェルナン・アルノーという、与党の議員の汚職事件を捜査していた。ごみ処理施設の建築に関して、仲介業者から賄賂を受け取り、便宜を図ったというのがその容疑だったが、ある程度物証も揃ってきているものの、なぜか捜査は進展していなかった。当局の圧力というのが検察、というか、エリックら検察官の予想だったし、それは大きく外れてもいないだろう。
その、アルノ―が便宜を図ったという、マルタンというマフィアとも繋がりがあるとも言われる男が、この島でも活動しているらしい。
空港や港湾設備にはフランスの援助が入っているが、この資金の流れにも怪しいところがあるというのが捜査の理由だった。援助先が租税回避地というのも怪しすぎるところだ。
しかし。
実際に現地に赴くと、状況が混とんとしていて掴みどころが無かった。フランスの検察という、宗主国の力を笠に着て圧力をかけるという、あまり好ましくない手もあるが、敵も同じフランスの政治家や官僚だ。この捜査のこともすでに伝わっていると思っていいだろう。何というか、右手で左手に挑みかかろうとでもいうようなもどかしさがあった。
そして、何度考えても思い至るのが、何故この、大西洋の小島にそんな金が投資されるのか、という問いだった。
「ふう。やっぱり日差しの下がいいわね」
物思いにふけっているうちにトンネルを抜けた。太陽は西側の外輪山の向こうへ沈もうとしていた。日差しを浴びた田園の緑が美しい眺めだった。
何の下心もなく女に花をやる男はいない、か。
その下心が分かれば、捜査の筋道も付きそうな気がエリックはするのだった。