3. クレール
エリックとオデットは、山を下ると、車を北へ向けて走らせた。綺麗に舗装された道路が北へ向かって伸びている。周りはライムギ畑と牧草地。昔の街道だろうか、カルデラの外輪山に沿ったところを曲がりくねった細い道が通っているのが見えた。
「ドライブには快適な道ね」
北へ向かう車は少ない。対向車もたまに通り過ぎるくらいで、交通量は少なかった。
「こうしてみると、アルプスみたい」
カメラを構えてオデットが写真を撮った。雪を被った外輪山は、周りの牧草地やライムギ畑と良いコントラストを成していて、青い空に白い峰々は良い被写体だろう。
湖も見えてきて、白樺が縁取る静かな湖面に白い峰々が逆さに映っていた。
エリックは景色に見とれるような気分では無かった。これから向かうのは、この島の旧支配者であった、女王の一族の末裔が暮らす土地で、港町の方からは、砦の村、または単に砦、と呼ばれていた。
そこはまた、昔、エリックが子供の頃、父親と蝶や花を採集する目的で訪れた土地でもあった。
「あれが境界線?」
車を走らせるうち、旧道とアスファルトで舗装された新道は合流し、行く手に低い石垣のようなものが見えてきた。かつては城壁のように土地の周りを囲んでいたのだろうが、修繕されることもなく放置されたのだろう。大部分が崩れ落ちていて、道路の周囲は綺麗に取り除かれていた。
それを通り過ぎ、行く手に家並みが見えて来た。遠く、少し小高くなった辺りに、城壁にかこまれた館が見えた。
エリックの記憶に残る風景だった。
人通りの少ない村に入って行くと、大きなニレの並木道に、歩道は石畳で、石壁にスレート葺の家は、赤い瓦屋根の港町とは対照的だった。賑やかとは言い難い村の通りにしては道幅は広く、歩道もゆったりしていた。
「お腹空いたわね。たしか、この近くにレストランがあったんじゃないかな」
オデットがタブレット端末を操作する。フォークとナイフが装飾された鉄製の看板がゆっくり車を走らせるエリックの目に止まった。
「あれじゃないかな」
エリックは、この風景には不似合いに新しいパーキングメーターの横に車を停めた。
小さなガラス窓からは中の様子はよく分からない。木のドアを開けて入ると、客はベレー帽の老人が一人だけ。不愛想な老女に、好きな席へ、と言われて、二人は窓際の席をとった。ランチのメニューは二つしかなかったが、二人とも仔羊の煮物を選んだ。
「ワインは?」
「遠慮しておくわ」
エリックが冷えた瓶のミネラルウオーターをグラスに注いでオデットに渡している間に、早速サラダとパンが運ばれてくる。
サラダを食べ終えるとすぐに煮物が運ばれて来た。ジャガイモや豆と仔羊の肉が煮込が乗った器から旨そうな匂がただよう。
「パンも料理も美味しいわね」
二人、言葉少なに食事。空腹だったこともあるが、オデットはエリックがここに来て口数が少なくなったことに何も言わなかった。
「観光かね?」
食事を終えてコーヒーを飲んでいると、ベレー帽の老人が話しかけて来た。
「まあ、そんなところです」
オデットが笑顔で答える。
「村から離れた、廃坑近くの集落跡には近づかん方がいい。最近、物騒でな」
「どうしてですか?」
「余所者が住み着いとるんだが、ガラの悪い連中でな。住んでるというか、ただ荒らしにきたようなもんじゃな」
エリックはオデットと話す老人の顔をちらりと見た。苦いものを噛んだような顔をしている。
「あちらのお屋敷を見てから帰るつもりですから」
「そうか。見る分にはかまわんだろうが、中に入ったり、写真とか勝手に撮らんようにな」
「撮りたいときは?」
「屋敷の主に断れば良いじゃろう。居ればじゃが」
オデットがエリックに向かって小さく肩を竦めて見せた。
坂道を登った車を、城壁の前の道で止め、二人は車を降りた。近づいてみると、城壁の上部は、きっちりと組み合わされた表面と違い、乱雑に見える。もっと高かったものを崩したかのようだった。道から一段低くなったあたりは、以前は堀があったのだろう。それにかかる橋があったであろう場所には、石造りのアーチ門があったが、扉は無かった。昔は、砦と呼ばれるに相応しい姿をしていたことだろう。城壁の向こうには、鬱蒼とした、ブナの巨木の森が広がっていた。
アーチ門の向こうに、これもバロック様式の邸宅が見える。議事堂になっている旧王城と比べるとさらに小ぶりで、装飾もなく質素ではあった。
門の近くには、年代物の黒いメルセデスが停まっている。二人がアーチ門に近づくと、大きな灰色の犬が門の前に寝そべっているのが見えた。
「大きな犬。なんだか、ちょっと狼みたいに見えるわね」
その犬は、体は動かさず、耳と目は二人を追っていた。オデットがカメラを構えると、すっと立ち上がって睨むように見つめる。エリックは、その目を、そんな目を何処かで見たような気がした。
「あら、怒らせちゃった? ご主人様が居たら、お会いしたいんだけど。呼び鈴も何も無いのね」
オデットが独り言のように言っていると、犬が後ろを振り返った。そして門の中へ入って行く。
「何かご用かしら?」
犬を従えて現れたのは、ブルーグレイのワンピースを着た少女。背筋をすっと伸ばして、凛とした立ち振る舞い。黒く長い髪を後ろに束ねた顔は彫像のように整っている。きりりとした眉の下の黒い瞳は、青く光っているようにも見えた。
「このお屋敷の方?」
「ええ」
「あ、では、ラ・ファージュ家の?」
「そうですが」
「旅行雑誌の取材で周っているんですけど、このお屋敷を撮影しても宜しいでしょうか?できれば少しお話でも……。私は、オデット・ワイズと言います」
オデットはいかにも取材に来ました、というような口調で少女に話しかけると、名刺を渡した。
「クレールです。変わった名前の雑誌ですね。中に入らなければ写真は構いません。これから町に戻りますので、お話はまたの機会に」
「あら。こちらにお住まいでは?」
「いえ。今は町の学校の寄宿舎に居ますので、ここに戻るのは週末だけです。今日はたまたま用があったので」
二人が話していると、鞄を持ったスーツ姿の男が門を潜って来た。二人を横目で見て、車へ鞄を積み込むとその傍に立って待っている。運転手らしい男は、よく見ると老人と言ってもいい年齢で、服もだいぶ着込んだ感じではあるが、汚れた感じではない。
クレールはオデットとの話を切り上げて、車に向かい、エリックの前を一瞥して通り過た。老人はクレールを乗せると、運転席に座り、滑らかにスタートさせると走り去って行った。
「今日、あの娘が居るのは知っていたのか?」
「アリスから聞いたのよ。同じ学校なんだって。クレール・ド・ラ・ファージュ。古の女王の末裔よ。会えただけでもラッキーだったわ」
オデットが車を見送って門を見ると、先ほどと同じように、犬が寝そべって二人を見ていた。
石造りの噴水がある広場。北を背にした小さな教会の向かいに、これまた石造りの二階建ての建物があった。見た目や様式などよりは実利優先というような四角い武骨な建物だった。それがこの村の役所で、エリックの目的の場所でもあった。
「私もご一緒して宜しいでしょうか?」
笑顔でオデットが言う。
「まあ、構わないんじゃないか。俺は単なる表敬訪問だし」
「合衆国の雑誌記者を連れて?」
来意は事前に伝えてあったので、村長に合うことが出来た。村長室は、建物の外観通り、地味で質素なものだった。オデットは自分の宿より多少広いくらいの部屋を眺めまわしていた。
「フランスからわざわざご足労いただいて恐縮ですな」
エリックと握手をする村長は、年のころは五十台後半といったところか。短く切った髪は白くなっていたが、痩せてはいるががっしりした体つきはだいぶ鍛えていそうだった。
「そちらは?」
「私は、オデットと言います。雑誌記者です」
名刺を差し出す。
「合衆国の。変わった取り合わせですな」
「船で一緒になって。車が手配出来なかったので、乗せて貰いました」
「そうですか。まあ、最近、この島も物騒になってしまって。女性の一人歩きよりはよほどましでしょう」
ソファに勧められて腰を下ろす。朴訥とした村長の言葉は、エリックには聞き慣れない独特の訛りがあった。
「このところ、外国、主にフランスからの、質の悪い者たちが増えておりますが、それの捜査ですか?」
「そうですね。そう言ったところです」
「出来れば、首に縄をつけてでも連れ帰ってもらいたところですな」
エリックには、そんな権限は無かったが、何も言わずにいた。
「投機目的で不動産を買い漁っているとか?」
「不動産を買う。まあ、買っている者もおるんでしょうな。もう人も住まなくなった廃鉱山近くの古い家に住み着いている者もいます。そういう連中は、何をしに来たのか。廃坑がまた採掘されるようになったとか、今度は金が見つかったらしいとか、口さがない者は言っておりますが」
眼鏡をした年配の女性が紅茶を持ってきた。話が途切れる間、オデットは窓の外に見える教会を眺めていた。
「この村には、常駐している警官は二人しかおりません。あとは自警団くらいで。女子供は危険なので夜は出歩かないように言うしかありません。侯爵は何をしているのか。陳情したところで返事も無いと来ている」
オデットが眉を上げて隣のエリックを見た。
「何か目的があって、その、ならず者が集まっているとお考えですか?」
「どうでしょうな。食いはぐれたものがやってくるには何も無い島です。そういう連中は都会へ向かうでしょう」
「雇われてやってきたと」
村長は紅茶を一口飲むとカップを置いた。
「この村は、昔の女王の子孫が代々住んだ場所で、今も土地の多くはその一族のものです。テラ山から東の山や森がそうです。西は侯爵家のもので、鉱山は大部分がそちらにある。人が増えだしたのもそこからだった。二年ほど前くらいからか。去年の暮あたりから、この村にもちょっかいを出すようになって。ラ・ファージュ家のものに絡んだりもしている。
数年前に当主が亡くなり、後を継ぐ予定の孫娘は、まだ十七で、成人する十八まで侯爵家が後見人となっとります」
「クレール姫、ですね。綺麗な女の子ですね。彼女が、家の後を継がないとどうなるんですか?」
オデットがティーカップに手をかけた村長を見る。
「会ったんですか? そうですな。そうなると、土地は国のものになる。侯爵と言えど、口は出せません。どうするかは議会が決めることになるでしょうな」
エリックは、租税回避地に絡んだ話以外に、この島で起こっている諍いの原因らしきものに行き当たった。問題は、これに、フランスのマフィアや国会議員がどうからんでいるのか、ということだった。
「この村の人たちは、クレール姫に後を継いでもらいたいでしょうね」
オデットが口元に笑みを浮かべて言う。
「そう思う者が大半でしょうな。ですが、時代も時代です。どうするかは、本人次第。とはいえ、余所者に振り回されるのは御免被りたいものです」
「静かな村ですものね。歴史を感じさせる。ラ・ファージュ家の砦も立派なものでした。そうそう、狼みたいな犬が、番犬のようでした」
「ああ。あれは、狼ですよ」
「え?」
「なんでも、森で死にかけていた子供を拾ってきたのだとか。この島は、昔は狼が走り回っておって、女王の猟犬のようだったとか。今では、ラ・ファージュ家の森の中に十数頭住んどるくらいでしょうな」
暗い、ブナの森。その中を走る狼。エリックは、束の間その光景が目に浮かんだ。
「どうかしましたか?」
「いえ。興味深い話が聞けました。捜査の助けになりそうです」
「そうですか。あなたに多くを望むのは酷でしょうが、お国の方に現状を伝えてもらいたものですな」
「面白い話は聞けたけど、私の雑誌に載せるには、ちょっと方向性が違いすぎるわね」
役所を出たオデットが苦笑する。
「そうだな。君もあまり首は突っ込まない方がいいだろうな」
「報道記者じゃないし、そんなことは考えてないわ」
笑って言うオデットだったが、それが本心かどうか、エリックは掴みかねていた。