23. 静かな戦い
パリはマロニエにリラ、遠く日本からシーボルトが持ち帰ったという桐の花が艶やかに咲き、すずらん売りが立つ爽やかな五月を迎えていた。
「これはこれは、ヘリアデス侯国のお姫様では無いですか。こんなところに、お忍びですか?」
パリの別荘地でクレールを迎えたのは、ジョシュア・リューだった。
「マノン・アルノーさんからご紹介頂きました。連絡が来ているはずですが?」
澄まし顔のクレール。曇り空の気温の低い日で、黒のダブルのロングコートに、黒いブーツと黒ずくめだった。
「ええ、伺っていますとも。いえ、本当にいらっしゃるとは思わなかったもので」
マノンとリューはさほど親しいということもなく、共通の友人を通して何度かパーティーで会ったことがあるくらいだった。そのなかには、いかがわしいものも含まれてはいた。父親が大変なことになっているのに、相変わらず遊び回っているという評判をリューは聞いていたが、クレールと面識があったとは知らなかった。
リューは、黒のタートルネックのセーターに、ジーンズという、ラフな恰好で、客人がくることを考えてもいなかった、という雰囲気だった。
リューはクレールを応接室に招き入れた。白を基調とした、清潔そうだが、質素と言っていい部屋だった。それほど使われているような雰囲気でもなかった。
「どのようなご用件でしょうか?」
ヘリアデス侯国の件では、バートンの事業に出資してはいるものの、直接取引をしているわけでは無い。何の要件で来たのか、リューは、クレールの真意を図りかねていた。
「私の友人から、相談を受けまして。何でも、あまり気も進まない写真撮影があるとかで。その撮影を行なうというのが、ジョシュア・リューさん、あなただと伺いました」
写真撮影、友人。まさか、アレクシア・ルデュックのことか。何時の間にヘリアデス侯国の姫と仲良くなったんだ? それに、写真撮影のことまで喋ったのか?
リューは疑心暗鬼に駆られた。
「写真撮影とは、何のことでしょうか?」
とぼけるつもりもなかったが、こういう他思いつかない。
「写真撮影と言うものを、どこで行なうのか、見せてもらえませんか?」
クレールは、リューの言葉を無視して言った。じっとクレールに見つめられたリューは、蛇に睨まれた蛙の様だった。
「……はい。分かりました」
リューは階段を先に立って下って行った。撮影の設備は地下室にあるようだった。
「こちらです」
招き入れられた部屋は、白く、照明で明るい部屋だった。中央付近に、半円形にくみ上げあられた、パイプの骨組みがあって、丸い台座を囲むようになっている。パイプの骨組みには、カメラらしきものがいくつも取り付けられていた。
「これは、何ですか?」
「フォトグラメトリというものです。三百六十度の範囲から写真撮影を行なって、対象の
3Dデータを得るためのものです」
たんたんとリューが語る。
「こうした設備でなくとも、そうした撮影は行なえる、とも聞いたことがありますけど?」
「対象をじっくり眺めるには、これが良いんです。撮影だけが目的ではないので」
なるほど。いかがわしい目的もあると。アレクシアをこの台に載せて、鑑賞しつつ撮影を行なう。そう言うつもりだったと。
クレールは口に出して言うのもおぞましいことだった。
「では、それをどう扱うのか、試してもらえませんか。被写体は、あなたで」
「はあ?」
ぼんやりとしたリューの返事。何時の間に入ったのか、撮影スタッフが準備を始めた。
クレールはこの場に残る気は無かったので、背を向けて立ち去ろうとして、足を止めた。
「ああ、そうでした。ちょっと、お尋ねしたいことがあります。あなたは、エドワード・ハイド・バートンと親しいのですよね。彼の苦手な、怯えるほど嫌いなものをご存じでしょうか?」
※ ※ ※
クレールは、リラの花咲くパリから、ナルシスの咲き乱れる、ジュネーブに来ていた。アルプスが近い場所に来るのは、以前、父かもしれない人物の元へ赴いた時以来だった。それは、昔というほど前ではないのだが、クレールにとっては、遠い過去のような記憶だった。
ホテルのテラスからは、レマン湖が一望出来た。ここに来たのは、ある目的と、アレクシア・ルデュックからの誘いもあり、彼女からの相談事に応えるためでもあった。
クレールは、パリで仕事とでもいうようなことを片付けてきたばかりだった。アレクシアと会う前には片付けておきたいことでもあったし、ここ、ジュネーブでも、もう一人、会わなければならない人物もいた。
アレクシア・ルデュックは、暖炉の前のテーブルに着いて、落ち着かなく座っていた。 時折、立っては窓の外を眺めたりして、そわそわとしている。
シアースリーブにプリーツの入ったグレーのロングスカートのワンピースに、肩からクリーム色のショールを羽織っている姿を、何度も鏡に映したりしていた。
アレクシアは、初めてクレールを別邸に招くことに、嬉しさと、緊張で落ち着かなかった。電子メールに手紙でやり取りはしている。電話をかけるのは滅多なことではしなかった。
そんな相手が、今日ここに現れる。直接会うのは、デビュタント・バル以来だった。
今日は、自分の悩み事を直接聞いてもらえる。アレクシアは、前日まんじりともせず過ごして今日を迎えていた。まるで、恋する乙女のような心境になっていることに、アレクシアは、気付いていなかった。それほど、クレールを尊崇していた。
コンコン、というノックの音に、びくん、とアレクシアは、飛び上がった。
「クレール・ド・ラ・ファージュ様がお見えになりました」
「は、はい。今参ります」
メイドに招かれて、ロビーに立ったクレールを、アレクシアが出迎えた。
「お久しぶりですね。アレクシアさん」
クレールが体をかがめて挨拶する。
「クレールさん。お待ちしておりました」
アレクシアも返礼した。クレールは、モスグリーンのジャケットに、同じ色のパンツ。クリーム色のシャツを着ていて、そのすらりとした姿に、アレクシアは見とれた。
「では、こちらへ」
応接室は、赤い文様の入った絨毯が敷き詰められていて、その上に猫足の彫刻をほどこされたクラシックなソファが置かれていた。
向かい合って座る二人の間に、ティーセットが運ばれて、メイドが紅茶を注いで、二人の前に並べた。アレクシアがメイドを見ると、メイドが部屋を辞した。
「私の招きに応じて下さって、ありがとうございます」
緊張した面持ちでアレクシアが言う。
「今日は、ご相談があるとか?」
澄まし顔でクレールが言う。
「はい……。他にご相談できる方も無くて……」
もじもじとしていたが、アレクシアは語り始めた。
父親の事業の失敗で、多額の負債が出てしまったが、それに支援を申し出た者がいた。その男は、以前は、アレクシアの姉、オレリーに熱心にアタックしていたが、姉が別の男性と婚約したことで、一旦は諦めたものだった。アレクシアの両親は、その男の事を快く思ってはいなかったが、多額の負債に、助けてくれる者も少なく、その男の申し出を受けることになった。男は、アレクシアとの付き合いを望んでいたのだが、両親があまり乗り気ではないことに、それも諦めたように見えた。ただ、その代わりに、その男の友人が写真撮影を趣味としており、女性のモデルが欲しいと言っていたので、それを引き受けてくれないかと言ってきたのだった。私的に撮影する、簡単なポートレイトくらいなものだというので、両親を説得したのだそうだが、アレクシアは、気が進まないのだった。
「人前に出るのも苦手ですのに、写真に撮られるというのは、ちょっと……」
俯き加減でアレクシアは言う。
「そのことなら、もうご心配は無用ですよ。そのうち、向こうから、撮影は不要だという連絡が来るでしょう」
「え、どういうことでしょうか?」
ぱっと顔を上げたアレクシアは、クレールの顔を見つめた。
「私の友人から聞いたのですが、なんでも他にモデルを見つけたとかで、今はそちらにご執心とか。身勝手な人ですね」
「そうなのですか? いえ、それならば、私は問題ありません」
顔を輝かせてアレクシアが言う。そんなアレクシアを、クレールは、まるで子犬のようだな、と思いながら見ていた。なんだか妙に懐かれてしまった。一瞬、プロションの姿が頭に浮かんだ。
「ああ、それと、その援助を申し出たという男性のことも、気にしなくて宜しいでしょう。いずれ、別の方々が援助を申し出てくれると思いますよ」
「そうなのですか? それは、クレールさんが?」
「いえ、私は、そういう話があると、人伝に聞き及んだだけですので。ご両親からそのうちお話があるのではないでしょうか」
「まあ、そうなりますとどんなに嬉しい事でしょう。クレールさん、ありがとうございます」
「いえ、私は特に何もしていませんし」
何の根拠も示されていない言葉を、素直に信じるアレクシアに、クレールは、憐みすら浮かんできた。
クレールは、その根拠をこれから他の者も巻き込んで造り上げなければならないという、少々面倒な作業が残ってはいたのだが。
「今日お会いしてご相談できて、本当に嬉しく思います。いずれ、私に出来ることがあれば、お返ししたいと思っております」
最初の頃の不安げな顔はどこにいったのか、円らな瞳を輝かせて、アレクシアは笑顔でそう言った。
「そうですね。そういうものは、出世払い、と言うのだと、更科様より伺いました」
「更科様というと、日本の更科百合江様のことでしょうか?」
「ええ。成長して、自分の成すことに責任を持てるようになり、結果をだせるようになったら、そのとき、過去の恩に報いる、ということらしいです」
「そうですか。では、私も出世払いでお願いいたします」
「こちらこそ、宜しくお願い致します」
まあ、まるで子供の約束だが。アレクシア・ルデュックならば、普通の子供とは違う。それに、クレールのことを盲信している。せいぜい、将来役に立ってもらおう。クレールは、自分に懐いた子犬の様に可愛らしい娘に、愛おしさのようなものも感じつつも、覚めた思いも抱いていた。
夕食をご一緒に、というアレクシアに、今日は別に要があるので、と固辞して、クレールは、アレクシアと別れた。
「ふう」
待たせていた車に乗り込むと、ついため息が出た。このあと、もう一人、厄介な相手と会い、その後またパリに戻って、アレクシアのための工作を行なわなくてはならない。それは、アレクシアのため、というよりは、自分の、ヘリアデス侯国のためでもあった。
「例のコテージまで送って」
「承知致しました」
今日最後の仕事が残っていた。
※ ※ ※
「時間通りですね」
湖畔のコテージでクレールを出迎えた、ウラジーミル・ポクロフスキーは、静かな声でそう言った。チノパンにギンガムチェックのシャツ。黒いジャケットは、デビュタント・バルでクレールも目にしたものと同じもののようだった。
「待ち合わせというのは、そういうものではありませんか?」
「そうですね。私と待ち合わせして、ちゃんと時間通りに来たのは、日本人くらいでしたよ。いや、彼らは、若干早めに来ていたかな」
クレールは、湖を望むダイニングに通された。黒い革張りのソファに、ガラスのテーブル。壁にはシンプルな丸い時計。
「何か飲み物でも?」
「いえ、結構です」
「それは助かります。私も特に必要ないので」
自然とクレールは笑みを浮かべた。
「さて、どういうご用件でしょうか。ヘリアデス侯国の姫君とも在ろう方が、供も連れずに一人で男と会うというのは、不用心では?」
表情の読めない、真面目な顔でポクロフスキーが言う。
「ご心配なく。外に待たせていますし、あなたは独り身の女性に乱暴を働くような人ではないでしょう」
ポクロフスキーは眉を上げただけで、何も言わなかった。
「では、私が今日こちらをうかがった要件をお伝え致します。あなたは、幾つかの企業を経営していらっしゃいますが、その一つに、核融合発電事業というものがありますね。かなり革新的な技術を持っているのだとか」
ポクロフスキーは黙って聞いていたが、先を促した。
「その技術を、私の国で計画している、核融合発電事業に、ご提供いただけないでしょうか?」
「ヘリアデス侯国で、そうした事業が行われるという話は、聞いたことがありませんね。あったとして、技術提供をすることによって、私に何の利益があるんでしょうか?」
ポクロフスキーはクレールを値踏みするように見つめた。
「ヘリアデス侯国での核融合発電事業には、USエレクトリックも資金を提供しますし、発電施設の造設には、日本企業も参画予定です。また、キャサリン・ラッセルも技術提供、並びに出資も行なう予定です。彼女がいうには、あなたのところの技術を得られれば、核融合発電の実現に向けて、かなり前進するのだとか?」
USエレクトリックがそんな事業を行なうという話を聞いてはいなかった。そうだとすれば、ヘリアデス侯国を巡る密約の件は、調整がついたということになる。
「私が今言ったことは、あなたにとって有益な情報だと思いますが?」
笑顔のクレール。たしかに、当事者からの情報は有益だった。だが、バートンからは何も聞いてはいない事ばかりだった。
「直ぐに返事を出来るような話ではありませんね」
ポクロフスキーは慎重に言った。
「急いだほうがいいですよ。あなたには、選択の余地はありませんし。あなたが情報を確認しようとする相手は、いずれ破滅するでしょう」
さらりと言うクレールの顔を、眉を顰めてポクロフスキーは見つめた。
この娘は、あの二人の悪癖を知っているのか? ということは、それがもうばれてしまっていることなのか。
「今、あなたが思っている通りですよ。一人は既に破滅していると言っていいでしょう。今夜にもニュースになるはずです。あの二人とは、付き合いを止めた方が得策ですよ。ポクロフスキー。それと、
あなたは、実業家としての顔の他に、スパイとしての顔も持っている。各国の実業家と親交を結んでいるのは、事業のためだけでは無いでしょう。それは、そのまま続ければいい。ただ、あなたが得た情報は、私の方でも活用させてもらいます。
では、早い返事をお待ちしております」
クレールはそう言い残すと、席を立って出て行った。
独り残されたポクロフスキーは、目の前がちかちかとして、目頭を指で揉んだ。確かに、あの二人が破滅するのだったら、二人と付き合うことに何の価値も無い。
裏の活動はこのまま続ければ問題は無い。
ポクロフスキーは、ジャケットからスマートフォンを取り出すと、電話をかけた。
※ ※ ※
「君と連絡を取るのも、けっこうまずいんだけどね」
モニターの向こうのリューの姿を見て、バートンは苦々しい表情で言った。
「そう言わないでくれよ。君にはいろいろと便宜を図ってきただろう?」
クレールが撮影させたリューの三次元映像データは、ネット上に公開されて、センセーショナルなニュースとなってネット上を駆け巡った。そのデータというのが、リューの素裸というもので、細部余すところなく描写されていた。その上、それを使った3Dモデルで妙な動画も作製されていて、その動画で、リューの3Dモデルは、これまでやってきた実在の人物の3Dデータ作成と、それの利用方法、利用先を事細かに語っていた。
それには、違法なものも含まれていて、リューは起訴されて、家宅捜索も受けていた。その裁判は始まったばかりで、先行きはどうなるか分からなかったが、リューの社会的な信用は、著しく低下していた。
「誰がいったいあんなデータを作ったんだ? 君が自分でやったのか?」
「そんな馬鹿なことやるわけないじゃないか! 誰がやったかわからないんだ。僕も記憶に無いし。気味が悪いよ。意識を失くしている間に勝手にやられたみたいで……」
目の下に隈の出来た、憔悴した顔でリューは言った。
「僕が援助するはずだったルデュック家も、最近になって、もう必要なくなったとかいいだすし。アンドルーズとキャサリン・ラッセルだって? なんで彼女達が急につるみ始めたんだ?」
バートンはリューを責めるように言う。
「デビュタント・バルで一緒になったからだろう?」
「そんなことで多額の援助なんてするのか? 五千万ドルだぞ?」
いらいらした様子でバートンは言った。
「そんなことは知らないよ。それよりも、あの島の方も、これまで通りの支援をあと五年は続ける、って決まったそうじゃないか。どうなっているんだ?」
それはバートンが聞きたいくらいだった。
「ポクロフスキーは、向こうに寝返ったみたいじゃないか。核融合発電の技術提供だとかで。裏で動いていたなんて。君は知っていたのか?」
「いや、僕も知らない。今はもう、連絡も拒否するようになった。君だけじゃなくて、僕までもね」
まるで、次はバートンがスキャンダルに巻き込まれるだろう、と知っているかのような態度だった。これを仕組んだのは、ポクロフスキーなのか? やつの裏の仕事は情報収集だけのはずだが?
「まあ、いいよ。とにかく、君は裁判が終わるまでは、僕と連絡は取らないでくれ。いいね?」
バートンは、リューの返事も聞かずに映像を切った。もし、リューがバートンがやった女性たちに対する仕打ちを告白したとしても、その証拠は残っていないことは確認していた。それでも、そんなことを告白されたら、ダメージを受けずには済まないだろう。誰が何を言い出すのか分かったものでは無い。もみ消し逃れる自信はあったが、それでも厄介なことに変わりは無い。
くそ。オレリー・ルデュックを逃がして、妹のアレクシアを捕まえたと思ったら、それもするりと手の中から逃してしまった。
クレール・ド・ラ・ファージュ。あの娘だけでも、なんとしても手に入れてやる。
バートンは暗い欲望を胸に、決意を新たにした。




