16. 帰任
エリックがこの島を発つ日も近づいていた。汚職の疑惑について調べられる限りのことは調べ、報告を送った。
捜査のための特設のサイトに入り、暗号化されたデータとして送信。ここから送った情報はすぐに解析に回されるはずだ。
これとは別に、クレールからもたらされた情報からエリックが調べてまとめ上げた資料も送った。これに、どういった反応があるかは分からなかったが、送らずにはいられなかった。
報告を送ってから宿を出る。夏の長い昼も終わりかけで、日差しも赤みを帯びている。一月ほどもいると、この町にも親しみを覚えるようになっていた。良く食事をする店などは顔なじみにもなっている。
特に何をするでもなく、港の方へ歩いて行く。この島に初めて来たときに乗ったような大型の客船が接岸する方とは別の、小型のクルーザーやヨットなどが停泊しているあたりをのんびりと歩いた。水面は穏やかで、日差しを受けて煌めいている。南国の海のように明るくはないが、澄んだ水は深くまで見通せた。
海へ向かうように防波堤を歩くと、誰もいない海辺にちゃぷちゃぷという波の音と時折聞こえる海鳥の鳴き声くらいしか聞こえなかった。
振り返って陸の方を見ると、議事堂の横に小さく雪を被った山が見えていた。あの山の麓で様々な出来事があり、それには自分も関りが有ったというのは、ここにいると何か夢の中か、遠い過去のような気がしてくるのだった。
食事も済ませて、日も暮れたころに宿に戻った。昼間は晴れていたが、食事を終えたころから雨模様となり、エリックは馴染みの店の主人から傘を借りて帰った。
ギシギシとなる階段を上がっていると、我が家へ帰って来たような安心感があった。今日は、アリスの顔を見ていない。アリスに、どことなく安心感を感じるのは、その雰囲気だけでなく、クレールによって掘り起こされた記憶の中の、クレールの母に、どことなく雰囲気が似ていたこともあるかもしれなかった。
部屋に入って、明かりをつける。雑然としていた部屋も、引き払うために荷物をまとめ始めたので、だいぶ片付いてきていた。
ベッドに座って机に向かう。雨だれたつたう窓の向こうの町明かり。
不意に、ノックの音。
エリックは立ち上がり、ドアを開けた。オデットが立っていた。
「どう、一杯?」
ワインのボトルとグラスを二つ。ドアを開けたエリックにボトルを渡す。エリックが何も言わない間に、中に入った。
「片付いてるわね。帰り支度?」
ベッドに腰かける。小さなテーブルの上にグラスを置いて、エリックを見上げた。 エリックが持つボトルは開けてあった。エリックは荷物の中から以前出かけたときに買ったチーズをナイフで切って皿に盛って置く。
「ありがと」
エリックもオデットに並んでベッドに腰かけた。グラスにワインを注ぐ。
チィン、とグラスを合わせる。
「いいのか? 諜報員が、外国の検事と飲んだりして」
「構わないわ。これまでもそうしてきたでしょ。これも仕事の一環。あなたこそ良いの?」
そういうオデットは既に飲んでいたのか、少し顔が赤い。
「君のことは、クレールからしか聞いてはいない」
オデットのことをエリックは調べたわけではない。
「それで良いの?」
オデットが笑う。
「そっちの仕事は、どう? 上手く行ったの?」
「上手く行ったかどうかはわからんが、とりあえず、やれることはやった」
「そう。こっちは一時引き上げ。状況によっては、またくるかもね」
グラスのワインを半分ほど飲む。
「あの娘には振り回されっぱなしで終わったわね。魔女というか、小悪魔なのは確かだわ」
忌々しいという口調でオデットは言った。エリックはそんなオデットを笑ってみていた。
「そういえば、クレールが君のことをオディールと呼んでいたようだが?」
オデットが横目でエリックを見る。
「あれは、クレールがからかってるのよ。知ってるでしょ。白鳥の湖」
オデットのコードネームがBS(Bla ckSwan)だということを知っての揶揄だった。
「オデットという名前は?」
「母親が付けたのよ。ちゃんとした名前よ。偽名じゃないわ」
空になったグラスにオデットがワインを注いだ。
「バレリーナだったのよ。母は。パリに、あなたの国ね。そこに留学してたそうよ。結構、良い線行ってて。でも、怪我をして続けられなくなって、帰ってきた。
それから普通に結婚して私が生まれた。で、娘にもバレリーナになってもらいたくて、オデットなんて名前をつけたってわけ」
口を尖らせて言うと、一口飲んだ。
「いい迷惑よね。娘にしてみれば。よくからかわれたわ、名前で。小さい頃は、どういうわけだか、〝アヒル〝ってよく言われた。男どもに。『みにくいアヒルの子』と『白鳥の湖』がごっちゃになってたのかもね」
エリックは何を言ったものかと思案しつつ、チーズを摘まんだ。
「君もやってたのか、バレエは」
「ええ。しばらくはね。レッスンの費用は大変だったはずだけど、続けさせてた。でも私は、そんな才能なかったし。学校でバスケットボールをやってたら、そっちでチームに入らないかって言われてそれからはずっとバスケット。
母と言い争ったこともあるけど、まあ、続けてもいろいろ辛かったし。バレエは。
あなたはどんな家の、どんな子だったの?」
急に話を振られてエリックは戸惑ったが、変に隠さず話す気になった。
「俺の親父は、博物学者で、まあ、周りから見れば変人だっただろうな。虫や動物に夢中になったり、何日も海や山で過ごしたり。でも、子供の俺には、一緒にいて楽しい人だった。親父も子供みたいなところがあったからだろうな。
母は、そんな親父に愛想をつかして俺が子供の頃に出て行った。女優みたいに綺麗な母だったってことしか覚えていない。そんな母がなんで変人の親父と結婚したのか良くはわからんが。母にのぼせ上がった親父が随分と熱烈にアタックし続けたらしいから、根負けしたんだろうな」
オデットはグラスを揺らしながら笑って聞いている。外の雨は激しくなって、窓を叩くような降り方だった。
「親父と二人きりになってからは、あちこち連れて行って貰った。南米やアジア、オーストラリアにも行った。大変だったが楽しい毎日だったと思う。
親父が死んでからは、父方の祖父が俺を引き取った。元弁護士の祖父は、真面目な人で、自分の息子の教育には失敗したから、代わりに俺に息子がやらなかったことをしてもらいたかったらしくて、司法関係の勉強を俺にやらせた。
俺は祖父と暮らすことになったから、こんどはそっちを真面目にやらなきゃならないと思って、ずっと勉強に打ち込んだ。検事になったときは、祖父も喜んでくれたもんだ」
今になって思えば、弁護士は引退していた祖父に、エリックを養育する金をどこから手に入れていたのか、深く考えたことは無かったが、この国で父が亡くなったことで、何か便宜が図られていたのだろう。
「あなたは、それで良かったの?」
「今となっては、まあ、良かったと思ってるよ。今の仕事が嫌いな訳じゃない。親父は自然を相手に調べものをしてたわけだが、俺は人間相手にそれをしているってわけだ」
エリックは自分でもだいぶ酒が入ってきて、舌が滑らかになっていることに気が付いていた。
「蝶とか花とか、いろいろ詳しいじゃない。そういうことが好きなのかと」
「今でも、嫌いじゃないさ。子供の頃に覚えたことは忘れないもんだ」
オデットが空になったグラスに注ごうとボトルに手をのばした。エリックが取ろうと手を伸ばすと、二人の手が触れあった。
オデットが笑って引っ込めようとしたが、エリックはその手を離さなかった。
真顔になって見つめあう二人。匂いを嗅ぐように顔を近づけていたが、やがて唇がふれあい、ゆっくりと、それから次第に激しく求めるようになった。
オデットが眼鏡をはずしてテーブルに置いた。ゆっくりと二人はベッドに横になると、唇以外も求め始めた。
エリックは、柔らかく暖かなオデットに触れて、長い間女の体に触れても居なかったことを思い出した。
激しく窓を叩いていた雨も収まって、今は風が吹きつけていた。ベッドから見る窓はカーテンが半分開いていて、流れるように雲が動いているのが見えた。
シーツの下で足を絡ませたまま横になって、オデットは寝ているのか目を閉じてゆっくりと呼吸していた。向かい合っているエリックの手はオデットの肩から背中に回っていた。柔らかな胸の呼吸を感じながら顔を上げると、窓の外の雲間にちらちらと星が見え隠れする。
「何をみてるの?」
オデットが目を開けてエリックを見る。柔らかく甘い声。
「星が、雲の間に見える」
「あら。ロマンチックね」
ふふっと笑った息がエリックにかかった。
「今の時間なら、やぎ座が昇ってきたところね。ここから見えるならわし座のアルタイルかしら」
「詳しいね」
「〝天文航法〝って雑誌の記者よ。私」
向かい合ったエリックにオデットが首を伸ばしてキスをした。眼鏡を外したオデットは、なんとなくあどけなく見える。
〝オデットさん、それとも今はオディールかしら?〝
不意に、皮肉めいたクレールの言葉が脳裏に浮かんだ。
「どうしたの?」
オデットの言葉には答えず、エリックは唇でオデットの唇をふさいだ。うん、と甘い声を出してオデットが抱き着いてきた。
部屋の中が明るい。ゆっくりと寝返りを打つと、ベッドに一人。夜明けに、オデットが出て行ったのは覚えている。夏の短い夜。
グラスとワインのボトルも片付けられていた。
ふと、前に付き合っていた女が出て行った時のことを思い出した。今みたいに、夜に愛を交わした後、朝には居なくなって、それきりだった。
オデットとは、行きずりとまでは言わないまでも、仮初めの付き合いのようなものだった。これは、オデットの方が望んでいたことだろうか。
島を出れば、再び会うことは、互いに連絡でも取らないかぎり、まず無いだろう。そうでありながら、エリックには二人が連絡をとりあう姿は想像できなかった。
島を発つのはオデットよりエリックが先だった。宿代の精算は、アリスではなく、アリスの祖母なのか、どことなく似ていなくも無い老女が行った。アリスは宿を出ようと言う時に、別れの挨拶を握手と笑顔でしてくれた。
オデットは、エリックと一緒に宿をでると、港まで車に乗った。島で使った車は、フェリーでフランスまで運ぶことになっていた。
船に乗り込む前に、車を降りたオデットと別れを告げた。笑顔で解れの挨拶をすると、オデットは軽くキスをしてから抱きしめた。特に悲壮なこともない、軽い別れ。そのうちまた会うというような。
「元気でね」
「君も」
車を船に乗り入れ、駐車してから船室に向かい、荷物を置いた。ベッドは二つだが泊まるのはエリック一人だ。
ベッドに腰かけて、船窓から外を見る。妙な気分だった。取り合えず、ここでの仕事は終えた。だが、まだまだ先が残っているという感覚があった。実際、何か解決したわけでもない。仕事も自分の事も。
立ち上がると、ゆっくりと船内を回って、それからデッキに出た。荷物の積み込みは終わったのか、搬入口は閉じられていた。エリックが乗船したのは出向まであまり間がない時間ではあった。
港を見ると、見送りの人が集まっている。テープを投げての賑々しい出航ということもなく、幾分淋し気でさえあった。
少し、集まった人々から離れた場所に背の高い女の姿を見つけた。オデットのようだった。エリックが手を振ると、向こうも気が付いたようだった。見送りにまで残っているとは思わなかった。
霧笛の音が重々しく響いた。船がゆっくりと動き出す。人々の動きが大きく激しくなる。
手を振るオデットにエリックも降り返す。ゆっくりとした動きから、次第に船はスピードを上げていく。ゆっくりとした動きの様でいて、巨大な船は見る間に港を後にしていった。
船で一緒にこの島へ着いた時のことが、遠い昔の様な気がしていた。今は一人、島を後にする。それは、思っていたよりも寂しいものだった。




