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銀色車輪

作者: 榊マユリ

新選組になる前の江戸の試衛館でのエピソードです。

夜のうちに江戸に降り積もった雪は、朝陽を浴びてキラキラと小さな光を放っていた。庭の木々にも白い化粧が塗されて、いつもの試衛館とは違う幻想的な一日を迎えた。

しかしその一方で、部屋にこもりきりの近藤は「うーん」と何度も唸りながら頭を抱えていた。火鉢をいじりながら、手慰みに黒い灰に埋もれた火種を探す。

「どうしたもんかな…」

火鉢の反対側、向かい合う様に座る土方に語りかける。何度となく呟いた独り言だが、しかし幼馴染も眉間に皺を寄せて押し黙っていた。

あと十日ほどすれば、近藤や土方ら食客は幕府の浪士組に参加して上洛することが決まっている。支度金が出て、皆思い思いの準備を進め親しい人とのしばしの別れに出向いているところだ。近藤も出稽古先の挨拶回りで日々忙しく過ごしている。試衛館を離れることで妻や子供と離れるのは寂しく感じるがその一方で、上洛した先でどんな働きができるのか期待して、わくわくする気持ちもある。

この先の順風満帆な日々を想像して門出を迎えるはずが、しかし思いもよらぬ事態が起きた。

「まさか総司が行かないと言い出すなんて思わなかったなあ…」

試衛館塾頭、小さな頃から内弟子として試衛館で育ってきた総司が、突然「一緒には行けない」と言い出したのだ。今まで出稽古先にあいさつに回ったり、ともに上洛の準備を進めていたし、今まで近藤の意向に反する様なことが一度もなかっただけに、寝耳に水の話だった。

「…歳、やっぱりお前が何か言ったんじゃないのか?」

「俺じゃねえ」

近藤が訊ねると、土方は不機嫌そうに返答した。てっきり土方と喧嘩をしているのかと思っていたのに、そうではないようだ。

(そのほうが良かったんだがなあ…)

だったら宥めて、仲裁してやればいい。それならいつものことなのだが。

「最初はあんなに乗り気だったのに…」

試衛館食客たちに浪士組参加の意向を相談した時、真っ先に手を上げて行きたい、と言ったのは総司だった。道場を閉めることになるのは、先代にも申し訳ないことではあったが、先日の講武所剣術方に不本意な形で落選した近藤としては、晴れの場である浪士組参加に総司を連れて行きたいとは思っていた。だから願ったりかなったりだったのだが。

「歳、どう思う?」

押し黙ったままの土方に近藤は訊ねる。火鉢に手を翳していた土方は、少し黙り込んで

「総司に聞いてみるしかないだろう」

と答えた。しかしそれができれば苦労はしないし、こんなに悩むことはない。

「総司は何も言わないんだ。ただ、自分は一緒は行けない、道場を守るからどうか置いて行って欲しいと」

「……」

近藤が答えると、土方はさらに眉間の皺を深くした。

確かに道場を任せることができるのは総司しかない。総司が残ってくれれば、養父周斎も喜ぶだろうし、出稽古も滞りなくできるだろう。よくよく考えれば良いことも多いのだが、近藤にとっては出鼻を挫かれる気持ちだった。

「…総司にだって、自分の人生を決める権利があるか…」

総司を連れて行きたいと思うのは近藤の我が儘だ。食客たちにも残りたい者は残っても良いと思っていたので、総司も例外ではない。理由を話したくないというのなら無理には聞かないし、自由にすればいいと思っている。しかし、そう思う反面、とても残念ではある。

(あれの剣は…道場で収まるのは、勿体ない)

彼の剣がどこまで通じるか、上洛した先で見て見たかったのだ。

「…仕方ない。総司の思うようにしてやろう。何だったら天然理心流を継がせてやれば俺も安心だし…」

「かっちゃん」

長考の末、近藤がようやく諦めたところで土方が強く制した。

「かっちゃんがそんな甘いことを言うから、あいつが行かないと言うんだ」

「歳?」

土方は不機嫌そうな顔のまま立ち上がる。

「あの馬鹿には荒療治でいいんだよ」

吐き捨てるように言うと、土方は部屋を出て行った。バタバタと大きな足音が遠ざかっていくのを聞きながら、近藤は苦笑した。

「結局、お前が一番来てほしいんだよな…」

そう言えば土方は怒るだろうから、口にはしなかったけれど。

(しばらくは歳に任せてみようかな)

近藤はそんなことを思った。



廊下の冷たさが、そのまま素足の土方の体温を下げるが、そんなことも気にならないほど土方は苛立っていた。

数日前。総司が「行かない」と言い出したと近藤から聞いたときは、何の冗談かと思った。浪士組の話は、食客の中でも一番喜んでいたのは総司だったので正直信じられなかった。しかしそうは言っても、最初はどうせ一過性のものだろうとタカをくくっていた。総司が近藤の意思を無視して自分の希望を優先させたことなど一度もなかった…それは沁みついた師弟関係がそんなことを許さなかったのだろう。けれど、何日経っても総司の決心は変わるわけでもなく、出発は目前に迫っていた。静観するつもりだったが、もう我慢の限界だった。

朝餉の前、この少しの時間は総司が素振りをする時間だ。昔、下働きとしてやってきた時からの習慣で、今も続けている。

道場に近づくと、人の気配がした。想った通り総司が一心不乱に木刀を振っていた。

「お…」

おい、と声をかけるつもりでいた。しかし、その言葉は、喉まで出かかって、形になることはなかった。

思った通りだった。総司は一心不乱に木刀を振り、ただただ一点を見つめて集中して…この真冬なのに汗を流していた。けれど、土方が言葉を止めてしまったのは、その汗がまるで涙に見えたからだ。

(…泣いているのか?)

嗚咽のようなものは聞こえない。ただ木刀が冷たい空気を切る音だけが道場に響いている。だから、本当は汗なのかもしれない。けれど、声をかけることができなかったのは、やはり総司が泣いているのだと、気が付いてしまったからだ。

(何故だ…)

行かない、と言ったのは総司だ。まだ誰もその決断を責めることはなかったのに。

だが、総司は固く唇を結んだまま、木刀を振り続けている。

何故だがその姿が、土方の胸を締め付けた。まるで行きたい、行きたいのだと叫んでいるみたいだった。

(お前、本当は…)

土方がその姿を見つめていると、総司が急に手を止めた。

「歳三さん、居たんですか?」

目標の回数まで素振りが終わったのか、それとも土方に気配に気が付いたのかわからない。けれども、振り返って土方の方を見た総司は、晴れやかな笑顔だった。

「…風邪、引くぞ」

土方は道場の隅に置いていた手拭いを投げつけた。総司は受け取ると「ありがとうございます」と言って滴る汗を拭き始めた。

「歳三さんがこんな早くに起きているなんて、珍しいですね。もう朝餉の時間ですか?」

「ああ…まあ、そんなところだ」

土方が曖昧に答えると、総司は首を傾げた。しかしあまり気に留めることもなく「まあいいですけど」とさらに汗を拭った。

「じゃあ私は行きますね。朝餉の準備を手伝わないと」

もう試衛館の塾頭に上り詰めたというのに、総司は相変わらず下働きの時のまま、台所を手伝い続けている。軽やかな足取りで道場を後にしようとする総司だが、しかし土方がその腕をとった。

「歳三さん?」

引き留めるようにして、土方は力を入れる。総司が「痛い」と訴えても、その力を抜こうとはしなかった。

「お前、どういうつもりなんだ?」

「どういう…って?」

まるで心当たりがない、という風に誤魔化す総司に、土方は苛立った。

(泣いてたくせに)

行きたい、一緒に行きたいのだと、叫んでいたくせに。

「ぐだぐだ悩んでねぇで、一緒に来い。それでいいだろう」

こんな風に強引に言えば総司は断らないだろう。困ったように笑って、首を傾げながら、「仕方ないですね」と笑うだろう。今までだって、そうだったのだから。けれど、なのに

「…行けません」

と、目を逸らした。その大きな黒い瞳が、揺れていた。固く結んだ口元に決心の強さが感じられた。

土方はさらに苛立った。

「なんでだ」

「なんでって…道場に残ったほうが、良いと思ったからです。大先生のお身体も心配だし…」

「それは、かっちゃんが言っていた理由だろう」

総司が言い訳のように口にしたのは、近藤が言う「総司が残る理由」だ。けれど、土方がいま訊ねているのはそうではない。

「お前は…何を我慢しているんだ」

理由があるなら聞かせてほしい。どうしてもいけないというのなら、仕方ないだろう。けれど一人で抱えて、一人で決めて、一人で我慢するのは土方が我慢ならない。

しかし、総司は強引に土方の手から逃れた。

「何も我慢してませんよ」

満面の笑顔を土方に向けた。そして背中を向けて、台所へと走っていく。

土方はしばらく、呆然とその場に立ち尽くしていた。




「へえ。そんなことになっているんですか」

少し驚いたような顔をしつつも、好物の天麩羅を食べながら、悪所通いの友人である伊庭八郎は土方の話に相槌を打った。柄にもなく悩む土方は、いまいち箸をすすめずに肴を弄るばかりだ。

評判の居酒屋は大勢の客で賑わい、そこらでどんちゃん騒ぎになっている。由緒ある幕臣の御曹司は、その見た目はいわゆる「お高く留まっている」と言わんばかりに小奇麗だが、中身はちゃきちゃきの江戸っ子で、こういった庶民の居酒屋でも平気そうにしている。分け隔てのないあっさりとした性格は、試衛館食客たちにも好かれ、それに加えて吉原でも一、二を争う美男振りなのだから天は二物を与えている、と土方はたびたび思う。そして剣の腕さえも、神は彼を見放さなかった。

「お前なら同じモノの考えなのかと思ったんだがな」

試衛館筆頭の遣い手である総司と互角に渡り合う伊庭は、そのうち江戸四大道場を継ぐ。無敵の総司と、剣を始めて数年で上り詰めた伊庭。その二人に土方は似たようなものを感じていたのだが。

「剣の腕と頭のなかは関係ないでしょ」

とあっさりと否定されてしまった。

「沖田さんが『行かない』と言うなんて思わなかったですよ。近藤先生のことを誰よりも慕っているのは沖田さんなのに。普通は天地がひっくり返ってもあり得ないでしょう」

総司の浪士組参加取りやめについて、伊庭は土方の意見と同じだったようだ。彼の同意を得て、やはりおかしい、と土方は再確認する。

『何も我慢してませんよ』

そう笑顔で誤魔化した総司は、そのあと土方と目を合わせようともしなかった。他の食客と談笑する姿はいつもと変わらないものの、朝餉を食べた後は逃げるようにして出稽古に出掛けてしまった。もやもやした気持ちを残した土方は伊庭を誘って町へ繰り出し、事情を説明したのだ。

「だから、どちらかと言えば…沖田さん自身の理由ではなくて、他の理由があるのではないですか?」

「他の理由?」

伊庭は鍋をよそいつつ、「例えば」と続けた。

「誰かに引き留められたとか?」

「…誰かに?」

土方は眉間に皺を寄せる。伊庭は「たとえばの話ですよ」と念を押したが、案外的を射ているような気がした。

ただし、誰に引き留められたのか、というのに心当たりがない。総司のなかで優先すべき順位は、一番は師匠である近藤に間違いなく、二番以降も試衛館のなかにいるだろう。もちろん試衛館のなかに総司を引き留める人間などいない。身体を悪くしてしまった先代の周斎ですら、「かわいい子には旅をさせろと言うだろう」と言って、背中を押してくれた。

(他に誰が…?)

土方は腕を組み、思い当たる人物を探した。そうして考え込んでいると、伊庭が

「まあでも、俺も引き留めちゃいたいですよ。遊んでくれる人が誰もいなくなっちゃうし」

と言う。そうだ、試衛館以外にもここにいた、と思わず土方が

「…まさかお前が?」

訊ねると、伊庭は苦笑しつつ手を振った。

「ないない。そんなわけないでしょう。それに俺が引き留めたくらいじゃあ、沖田さんの決心は鈍りませんって」

「そりゃあそうだが…」

「冗談ですよ。それよりも早く食っちゃってくださいよ。冷めますから」

伊庭は小鉢を土方に差し出した。茹った湯豆腐が柔らかく揺れていた。箸をさすと簡単に崩れる。

(こんなもんか…?)

他の誰かに言われたくらいで、崩れて無くすくらいの決心だったというのだろうか。誰かが引き留めたくらいで、近藤の期待から逃げるような脆い決意だったのだろうか。

(…そんなはずはない)

朝方、道場で素振りを繰り返していた総司は、確かに泣いていたのだから。

「俺なら…小太に引き留められたら、ちょっと考えちゃうかもなあ…」

同じく湯豆腐を頬張りながら、伊庭は呟いた。

「…例の幼馴染か?」

「そうです。あいつが泣いて泣いて、行かないでくれ行かないでくれって懇願してきたらちょっと決心鈍るなあ」

そう茶化しつつ、伊庭は楽しそうだ。土方には大人びた表情しか見せない伊庭だが、ふとその幼馴染の名前を出した時に年相応の緩んだ顔を見せる。余程その幼馴染のことが大切なのだろうと思う。

「あ、だったら、土方さん。沖田さんに『頼むからついてこい!』って号泣しながらお願いしたら、何とかなるんじゃないですか?」

「馬鹿。そんな真似できるか」

「できないんですか?」

実力は敵わなくても、あくまでも総司にとって土方は兄弟子だ。プライドの高い土方にはそんな芸当とてもできない。

それに

「それじゃ…駄目だろう」

伊庭の言うとおりに必死に懇願すれば、総司は困った顔をしつつも浪士組参加を承諾するだろう。自分の考えを押し込めて、従うだろう。しかし、上洛した後は一体何が起こるかわからない。その場所が自分の死に場所になるのかもしれない。だからこそ、あくまで自分の意志で総司には決心してほしいのだ。それは近藤と同じ意見だ。

「まあ、駄目ですよね」

伊庭は頷いて同意した。年下の優男だが、どうも先回りして話を誘導する癖がある。聡い、ということなのかもしれないが。

「だったら、沖田さんを引き留める原因を突き止めれば良いのでは?」

「そう言うが、総司は頑固に何にも言わねえし…」

「大体、いつから突然そんなことを言い出したんです?」

伊庭の質問に、土方は思い起こす。あれは確か息を切らして総司が試衛館に戻ってきたとき――。

「確か…出稽古に行って、帰ってきてからだ」

「どちらへ?」

「日野だ」

土方は箸を置き、すぐさま立ち上がった。



昼が過ぎ、今日中に試衛館には戻れないだろうという時間になっていたが、土方は日野へと足を向けた。日野の出稽古先に行けば何かわかるのではないか、と気が急いていた。

「お前はついてこなくても良かったのに」

「そんな殺生な。中途半端に気になって夜も眠れないじゃないですか」

伊庭がにやりと笑うものだから、土方はため息をつくしかない。もともと土方が一人でいくつもりだったが、面白がって伊庭がお供に願い出た。焦る土方の隣で、伊庭が飄々と歩く姿を見ていると、最初は呆れたものの次第に気が休まってきた。総司とは違う安堵感を伊庭には感じるのだ。

畦道を二人で歩きつづける。土方は足早になっていたが、伊庭は文句も言わず後ろをついてきた。

「そう言えば日野に行くのは初めてなんですよ。前に土方さんの姉上は大変な美貌をお持ちだと近藤先生に聞いたから、楽しみだなあ」

日野は土方に馴染みの土地だ。土方の実姉であるのぶが嫁いだ佐藤彦五郎の構える道場があり、土方の幼少時はそこで過ごしや。今は出稽古先になっている。

「かっちゃんは小さい頃から、のぶ姉さんに会うたびに、顔を真っ赤にしやがる」

「へえ!それは益々期待が高まりますね。相当の美人でしょう」

「そんなことねえよ。口煩いだけの姉だ」

伊庭は笑いながら「ご謙遜を」と茶化したが、実の姉に「綺麗」だとか「美人」だとかそんなことは思わない。

先を急ぎつつも、伊庭との会話は弾んだ。

「美人で言うなら、総司んとこの姉さんだ」

「え?沖田さん、姉上がいらっしゃるんですか?」

「ああ、二人いる」

伊庭は驚いたような顔をしたのだが、それは当然だと土方は思った。

総司は家族の話をあまりしない。近藤曰く、試衛館に預けられた当日から全く寂しがる素振りも見せず、黙々と内弟子として働き始めたのだそうだ。母を亡くしたのはまだ物心を付く前のこと。母代りに育ててくれた姉から突然離れ、試衛館にやってきたのはわずか九歳だった。寂しさに耐えきれず泣くのは当然だとは思うのだが、おくびにも出さずに仕事と剣術の稽古に励んだ。振り切るように…まるで、今の総司みたいに、一心に剣を振っていた。

だから総司が里帰りをするようなことはなかったが、長姉は数年に一度、様子を見に試衛館にやってきた。もちろん総司は出迎えたものの、土方にはまるで他人が久々に再会する様な…そんな異様な姿に見えてしまっていた。

(まあ…それぞれか)

土方の姉であるのぶが、世話焼きで事あるごとに見合いの話を持ってくる口煩い姉だから、総司と姉の関係が冷えたものに見えてしまうだけなのかもしれない。

「そろそろですか?」

伊庭の問いかけで、土方は前方を見据えた。冬の乾燥で澄みきった空気なので、この先の道筋がはっきり見えた。

「ああ、あそこの家だ」

土方が指さす。佐藤道場にやってきたのは、久々のことだった。


佐藤家に着くと、早速口煩い姉が出迎えた。

「まあまあ、突然やってくるから驚いた。今日は出稽古じゃないでしょう」

玄関へ駆け足でやってきたのぶは早速土方を問い詰める。「騒がしいな」と土方は眉をひそめたが、気にする姉ではない。むしろ連れの伊庭が気になるようで

「まあ!今日は麗しい方を連れてきてくれたのね、どなた?ご紹介してちょうだい」

「麗しいって…」

伊庭を見るや、年甲斐もなく興奮気味の姉に土方は呆れたが

「初めまして、伊庭と申します。突然お邪魔して申し訳ありません」

と、伊庭が丁寧に頭を下げて微笑んで見せたので、その女たらしっぷりに、さらに呆れてしまった。

のぶは早速二人を客間に通した。のぶの夫で道場主の佐藤彦五郎は外出中で、道場の稽古は休みのようだ。

「全く、歳三は本当に顔を見せに来ないんだから。浪士組に参加するのなら支度もあるでしょうに、全然寄り付きもしないで。せめて出立の前までには挨拶に来なさいと何度もお手紙したでしょう。……伊庭さまも浪士組に参加されるのかしら?」

「いえ、俺は」

「姉さん、こいつはれっきとした幕臣なんだよ」

土方が教えてやると、のぶは驚いて「まあ」と口をぽかんと開けた。いくら豪農とはいえ農民の身分に違いない弟の友達が、まさか幕臣とまでは思わなかったのだろう。

「弟が失礼な真似を。伊庭さま、口が悪いのは生まれつきなのです、どうかご容赦ください」

弟にとっては酷い言い草だったが、よくよく考えれば、農民の土方が由緒正しき幕臣の伊庭と同等に物を言い、連れだって歩くのは、異様な光景なのだろう。しかし伊庭がすかさず

「俺なんか全然たいしたことないですから。土方さんにはいつもお世話になってます」

と腰の低いことを言うので、のぶは安堵したようだ。

「そんなことより、この間、総司が来なかったか?」

これ以上下らない事を言い出す前に、土方は尋ねた。すると茶を差し出すのぶは、不思議そうに「いらっしゃったわよ」と答えた。

「何か変なことはなかったか?」

「変だったわね」

のぶが即答したことに、逆に土方と伊庭の方が驚いた。のぶは困ったように顔を歪めつつ続けた。

「出稽古の番だったから、好物の甘いものを準備しておいたのよ。いつも嬉しそうに食べるから、沖田先生が大好きな御菓子をね。でも稽古が終わると何だか疲れた顔をして、すぐに試衛館へ戻ると言って行かれて…何かあったのではないかと主人と話したものだわ」

「何かって?」

「ほら、沖田先生も浪士組に参加するじゃない。だから歳三と違って、先生、稽古にいらっしゃる前にきちんと、おミツさんの所へ挨拶に行ったらしいのよ」

のぶは土方というよりも伊庭へ語りかける。そしていちいち一言多いのは相変わらずだ。

「そこでなにかあったんじゃないかしら。いまおミツさん、お身体を悪くされてるからねえ」

「おミツさんが?」

寝耳に水の話に、土方は驚く。そんな話はおそらく近藤も知らないだろう。

「沖田先生もご存じなかったんでしょうねえ。いつもは明るくて無邪気で…あの日は青ざめた顔をしていてねえ…」

それからくどくどとミツの話は続いた。伊庭が笑顔で相槌を打っていたので、のぶの話は止まる事はなかったが、土方は口をはさむことなく、頭の中が真っ白になっていた。




佐藤家を出て、土方は伊庭と共に総司の生家であるミツの家に向かって歩いた。病だということだったので、気の利く伊庭は、生のつく卵などを近所の農家に買い求めた。

「土方さんの姉上…のぶさんの言った通りのような気がしますねえ」

卵といくつかの野菜を抱えて、伊庭は少しさみしげに呟いた。

「お姉さんの病が気に掛かって上洛を躊躇っている。沖田さんらしいと言えば沖田さんらしい理由です」

「…そうだな」

土方も、総司の「上洛できない理由」が解消できるようなものなら、出来るだけの力を尽くすつもりだった。しかしその原因が「ミツの病」だとしたら、今日明日に解決できる問題ではない。

そうなれば総司の上洛も、不可能になってしまう。

しかし

「けれど、あいつは…試衛館に収まるような、人間じゃねえよ」

土方の中にはまだあきらめられない気持ちがあった。

「かっちゃんもそう思っているから、あいつを置いていく決断ができねえんだ。俺も…出立する日までは食い下がるつもりだ」

「泣いて喚いて?」

緊迫した空気を破って、伊庭が茶化した。一緒に飲んでいた時はそれを否定したものの、

「…必要なら、そうする」

今は肯定し、真顔で受け取った。

心のどこかで、「きっと総司は一緒に来るはずだ」と油断していた。しかしその安易な考えは完全なる間違いで、総司ほど頑固な人間が己を閉じ込めて「行かない」と言うのだから、その牙城を崩すのは並大抵のことではない。

だから、初めて考える。

この先に、総司が居ない光景を、未来を。そしてそれが…どんなに心に穴をあけるのか。それは痛い程に疼き続けるだろう。

「でも…もし、あいつが本当に行かないということになったら…」

土方は足を止めた。振り返って、後ろを歩く伊庭の方へ向く。

「あいつのことを、宜しく頼む」

「土方さん?」

土方がこんな殊勝なことを口にしたことがなく、もちろん聞いたこともない伊庭は驚いた。いつも傲慢で他人に謙る事のない土方の台詞に、いつもは饒舌な伊庭でも言葉を失う。しかしそれどころか、土方は頭を下げた。

「ちょ…!やめてくださいよ!」

伊庭は慌てて謙遜し、すぐに頭を上げるように願った。何の冗談か、と伊庭は狼狽したものの、土方の表情は真剣そのものだった。

「あいつは俺たちとは違う、れっきとした武家の出だ。身分に問題はないし、あの腕なら引き立てられるようなこともあるかもしれない。その時は…お前が後ろ盾になってくれれば、助かる」

「わかりました。…というか、そのつもりです。私にとっても沖田さんは友人なんですから」

伊庭は即答して頷き、「でも」と続けた。

「沖田さんの望む道はそうではないはずです。とにかく、姉上の話を伺いましょう」

そういって背中を押す。すると、視線の先には既に目的地が見えていた。



江戸の名門、伊庭道場に比べると試衛館は古びた建物で、周囲からの「田舎道場」という汚名をぬぐえない様相だが、総司の生家になるミツの家は、さらにボロボロの一見人の住まう場所には見えないものだった。

「ここが…」

古民家を見上げて、絶句する伊庭に土方は苦笑した。

「何だ、想像と違ったのか?」

「…ええ。沖田さんの見た目との隔たりに驚きました」

率直な感想に土方は「そうだろうな」と同意した。

他の食客や伊庭などは忘れがちだが、総司はもともと下働き…貧乏による「口減らし」の為に試衛館にやって来たのだ。やって来たばかりのころは細く痩せていて、今のように「天才」として名を馳せるような雰囲気はまったくなかった。

「土方さんは来たことがあるんですか?」

「ああ、一度な」

その時も伊庭と同じ感想を持ったものだ。この家を見れば、総司が口減らしとして試衛館に寄越された理由が、すぐに分かった。

「あいつは、実家の話とか子供のころ…といっても、五つか六つのことだが、そういう話を全くしないから、こういう『実家』っていう匂いが全くしないんだ」

「忘れたい…ってことなんですかね?」

「自覚はないだろうが…潜在的にはそんな風に思っているのかもしれないな」

今まで考えもしなかった。どんなふうに生まれてどんなふうに育って…どうして試衛館にやってきたのか。

もしかしたら総司が触れてほしくないと思っている場所なのかもしれない。これ以上踏み込むことに、少しだけ躊躇いがある。

そんな風に迷っていると、ふと、背後から人の気配を感じた。

「土方様?」

と、名前を呼ばれて振り向く。聞き覚えのあるその声は、懐かしい記憶のなかにあった。

「おミツさん…」

顔を合わせるのは数年前の正月、ミツが年始の挨拶に試衛館を訪ねて来た時以来だ。その時は年始の挨拶向きの衣服に身を包んでいたので、まるで武家の奥方のような高貴な雰囲気があったが、いまは印象が違う。化粧もせず、質素な着物に身を包み肌も畑仕事のせいか黒く…しかし、生来の整った顔立ちは浮いている、そんな生まれと現状が入り乱れる、ちぐはぐな雰囲気だ。

「お久しぶりでございます。どうしたのです?まさか、宗次郎がなにか…?」

突然の来訪にミツが誤解したようで、不安そうに顔を歪めて土方に詰め寄った。伊庭が「違うんです」と即座に否定すると、ほっと息を吐いた。

「良かった…。この間、あの子が来た時も様子が変だったから…」

「総司ですか?」

ミツはうなずきつつ、「宗次郎ではなく総司でしたね」と苦笑した。宗次郎は総司の幼名だ。改名したのも試衛館に来てからなので、馴染みがないのだろう。

「何だか泣きそうな顔をして…それに…」

ミツが話し始めた所で、突然「うっ」と嘔吐いた。顔を真っ青にして手のひらを口に当てて、膝を折って地面に座り込む。

「おミツさん!」

「土方さん、家に運びましょう!」

伊庭の咄嗟の判断で、土方が背中にミツを乗せた。ミツは大丈夫だと頭を振ったが、無理矢理に背負い、古びた家の中に入った。

屋内は部屋が二つに分かれていて、小さな子供が一人昼寝をしていた。おそらくは総司の甥っ子に当たる芳次郎だろうと土方は思った。偶然、その隣に布団が敷いてあったのでミツを二人掛かりで横たえた。

「申し訳ありません…」

横になるとミツは少し顔色を戻したので、土方と伊庭は安堵した。しかし土方から見ると、話に聞いていた通りミツは身体の具合が悪いようだ。

「この間も総司の前で倒れてしまって…ひどく心配をかけてしまいました」

「そう…でしたか」

目の前で実姉に倒れられれば、総司も動揺しただろう。その心情は計り知れず、だから自分が上洛するわけにはいかないのだと…決意したのだろうか。その的を射た予感に土方は黙り込む。伊庭がミツへ自己紹介をする言葉も入ってこなかった。

「それで沖……総司さんは何の用でこちらに?」

土方が何も聞かないので、伊庭が見兼ねて切り出す。するとミツは

「さあ…わからないんです。私が尋ねても、あの子は何も言わずに、顔を見に来ただけだと言い張って…」

と曖昧に答えた。

のぶは「浪士組の挨拶」に行ったのだと言っていたが、総司はそれを口にしなかったようだ。

「あの子は…九つのとき…試衛館へお世話になりだしてから、あまりここには近付こうともしなくて。…きっと、自分が捨てられたと思っているんでしょうねえ…」

そしてミツは寂しげに語り始めた。

「父の顔も知らず、母の事も…物心つく頃には亡くなったので、あまり記憶にはないのだと思います。口が裂けても裕福だとは言えない家で、満足に食べることもできず、ずっとずっと我慢をして…挙句の果てには一人きりで、家から出してしまって」

「それは…仕方のないことでしょう」

父が亡くなり、女手一つとなった沖田家は困窮を極めた。事情を知る土方が慰めるが、ミツは頭を振った。

「私も最初は仕方がないのだと思っていました。けれどある日、あれは…総司が試衛館に行ったばかりの頃だと思いますが、その頃に、一人でこの家にやってきたことがありました。幼い子の足で、こんな遠くまで…『帰りたい』と何度も言うあの子を、私はこの家に入れませんでした。戸を叩いて泣きながら訴えるあの子を…甘やかしてはいけないのだと、そう思って…」

「…」

土方も、そして伊庭さえも言葉を失い、何も言うことはできなかった。それは今の、天真爛漫だと言われる総司からは想像できない姿だった。しかし、ミツは淡々と続けた。

「その日から、ぱったりと総司はこの家に寄り付かなくなりました。私が試衛館にお邪魔しても…どこか他人行儀で、避けているようなところもあって…でも、私が悪いのでしょう。試衛館で塾頭をさせていただいて、あの子は私が思っていた以上に立派になりました。だから今更、家族の様にすることは…できないのだと、思っています。それはとても自己中心的です。だから、失ったものの大きさに今更気が付いても…どうしようもないのですよね」

小さく笑みを浮かべたミツ。その表情はあの朝、『我慢なんてしてませんよ』と笑った総司に似ていた。哀しくて仕方ないのに、どうにか堪えて、それを隠している。

総司は貴方のために、どこへも行かない決断をした。

そう言ってしまえば、ミツは喜ぶのかもしれない。いや、総司の足手まといになっているのだと、嘆くかもしれない。

しかしどちらにしても、それを伝えるのは間違っているはずだ。総司が何も言わなかったということは、決して、自分の選択をミツのせいにするつもりはないのだということなのだろうから――。



そのうち、ミツの夫で総司の代わりに沖田家を継いだ林太郎が戻ってきた。面識のない二人に、泊まっていけばいいと誘ってくれたものの、土方と伊庭は断って試衛館への家路を急いだ。もうとっくに陽は暮れて、辺りは真っ暗だ。伊庭がミツに提灯を一つ借りてきたので、どうにか歩けるものの、酷く頼りない。

「意外だったなあ」

「ん?」

伊庭が漏らした感想に、土方が相槌を打つ。

「てっきり、事情を話して、おミツさんから沖田さんを説得してもらうのかと思いましたよ。思いつかなかったわけでもないんでしょう?」

その問いかけに、土方は沈黙した。

もちろん伊庭の言うとおり、その方法も考えた。総司が上洛を躊躇う理由がミツであるのなら、ミツ自身で説得してもらうのが一番早い方法だろう。しかし、総司が上洛をためらう理由が、ミツの身体のことを気にしてのことだと、他人が伝えるのも烏滸がましい気がしたのだ。

(一番触れられたくない場所なのかもしれない…)

それは総司にとっても、ミツにとっても。

「…俺はあいつに、一緒に来いなんて言えねえ…」

きっと、総司は。

ミツに浪士組へ参加することを伝えにやってきたのだろう。治安の悪い都では己の身も危ういかもしれない。縁が遠くなったとは言えども、家族であることは違いない姉に、別れを言う。そういう覚悟をして、ここにやってきたのだ。けれど、目の前の姉は何も変わらない貧乏な生活を送り、身体を壊していた。縁遠いと思っていた家族が、目の前で倒れたことで初めて、姉を、家族を失う怖さを実感したのだろう。そして、立ち止まり、ここに居続けることを選んだのだ。

自分には何もすることができないのに、けれど家族として、傍に居たいと願ったのだろう。

そんな総司の決意を、誰が破ることができるだろうか。

(できやしない…)

「諦めるんですか?」

しかし思った以上に強い語調で、伊庭が言葉を発した。月の光しかない真っ暗な闇のなかでは伊庭がどんな顔をしているのか、わからない。けれど、どこか、怒っているように感じた。

「伊庭…?」

「このまま土方さんたちが上洛して置いて行ったら、沖田さんはひとり…ずっとそこで立ち止まったままですよ」

「それを…あいつが望むのだから、仕方ないだろ」

「俺だったら、そんなことは絶対にさせません」

弱弱しい言葉しか返せない土方に、伊庭はきっぱりと言い切った。

「我儘だろうが、勝手だと言われようが、絶対に連れて行きます。家族の死に目にも会えないなんて、戦場に居れば誰でも同じこと。それに、こういっては何ですが、沖田さんが残ったからと言って、おミツさんの身体がよくなるわけではありません。沖田さんはただ、今までのことを後悔して、反省して、残ることで自己満足しているだけでしょう」

いつになく苛立った伊庭に、土方はようやく思い当たる。伊庭自身もまた家族とは何かを言う問題を抱えているのだと。

「いろんな理由があって、確かに幸福だと言える家族ではないかもしれない。けれど、そんなのはただの結果だ。振り返って後悔しても何も変わらない。時は容赦なく過ぎていくのに、走り続けているのに、沖田さんはその波に乗らずにここに居たいんだって、駄々こねているだけです。それは甘えだ」

いつになく辛辣に語る伊庭の言葉に、土方は反論もせずに黙って聞いていた。

全く、全くの正論だと思いながら。

しかし、どうしても

「…それでも俺は、言えねえな」

伊庭の様に強気に宣言することなどできなかった。伊庭がさらに苛立って問いただす。

「どうしてですか」

「どうしてかな…」

土方は答えを迷った。

ほの暗い目先の光。提灯の小さな光に照らされて、ゆらゆら揺れる。

「今までずっと、あいつは誰かの思いに応えてきた。九つの頃に家を追い出されたのも、試衛館で剣を振るうのも、浪士組に参加するのも…嫌だったわけじゃねえが、自分の意思じゃなかったはずだ。けれど、今回、初めて自分の気持ちを優先したいと言った。それが…どんなに、あいつにとって大きな決断だったのか。師匠であるかっちゃんの意思に背くことが、総司にとってどれだけ苦しいか。それを考えれば考えるほど、知れば知るほど…俺には何も言えない」

「…」

「むしろあいつの気持ちを尊重してやるのが…兄弟子の務めなのかもしれない」

土方は小さく笑った。

きっと、引き裂かれるような思いだっただろう。家族とは縁が切れたのだと自分を律してきたのに、いざ目の前の姉の姿を見ると怯んでしまった。それを弱さだと伊庭は言うが、それは優しさでもあるはずだ。遠い、遠い総司の記憶のなかに、確かに姉の、家族の姿があって、それを拭いきれなかったのだろう。

だから行けないのだと、思っているのだろう。

「何にせよ、自分で決めない限りはあいつは梃子でも動かないだろう。もしかしたら泣いて縋って頼み込んでも…あいつには届かないのかもしれないしな」

自虐的に笑うと、身体のどこかが痛んだ。軋んで、罅が入るように。

「…それに、浪士組に参加して上洛っつったって、予定は半年だ。こんなに大騒ぎするほどのことじゃねえ」

「まあ、土方さんがそういうのなら、俺は何も言わないですけどね」

伊庭は先ほどまでの語気を抑えて、いつもの飄々な物言いに戻っていた。

しかし、どこか責めるように続けた。

「これが一番良い選択だとは、思いませんよ」

と。


提灯の頼りない光。畦道のせいで足元が覚束ない。

「あ…雪だ」

土方の後ろで、伊庭が呟いた。

ひらひらと舞う、銀の破片。

蝋燭の光で、消えていく。
















家を飛び出したのは、月も隠れた真夜中のことだった。

うろ覚えの家路。当てもなく息が切れるまで、両腕を振って走り続けた。

何度も転び

何度も道を間違え

何度も諦めそうになる心を、どうにか押さえつけて、夜が明けるまでにと急いだ。

ようやくたどり着いた日野の家は、静まり返っていた。夜に見ると、真っ暗な影が家を覆っていて、不気味で、まるで知らない家のようだった。

勇気を振り絞って戸を叩く。家族は寝ているだろうから、と遠慮気味に叩いたが、誰の気配もしない。宗次郎は更に強く叩いた。近所中に音が響いても構わない。誰かが出て来て、温かく迎え入れてくれることを期待した。

すると家の奥から、足音がした。その音はだんだんにこちらに近づいてきて、宗次郎は胸を弾ませた。

(姉さんだ!)

長年暮らした家族の足音くらい見分けられる。姉であるミツが扉を開けてくれる。その瞬間を待った。

しかし待ち侘びても、待ち侘びても、その扉は開かれない。

「…ミツ姉さん…?」

そうか、分かった。怒っているのだ。勝手に試衛館を抜け出してきたから。預けられて数日くらいで帰ってきたから。

(でもそんなの…わかってる)

覚悟の上で戻ってきた。

口減らしで預けられた試衛館は、宗次郎にとって未知の場所だ。大先生はとても穏やかで優しいけれど、奥さんは何かあるとすぐに怒鳴り散らす鬼のような人で。養子だという勝太先生は、親切にしてくれるけれど大きな口がまだ怖くて…。たまにやってくる歳三さんは何だかよく分からない。

でも、分かるのは、一人ぼっちだということ。守ってくれる人も支えてくれる人も誰もいないということ。

「ミツ姉さん、怒ってるの…?」

宗次郎は答えを待つけれど、返事はない。扉のすぐ向こう、そこにいるのはわかるのに、何も答えてくれない。

姉は怒ると怖い。でも同じ『怒られる』でも、試衛館の奥さんとは違う。最後の最後には、甘やかしてくれる。

だから期待して待つ。怒っても、怒鳴っても、最後には許してくれることを。

しかし姉がくれた答えは、宗次郎が考えるようなものではなかった。

「帰りなさい」

「…姉さん…?」

その言葉が空耳であって欲しかった。けれど、姉はもう一度繰り返す。「帰りなさい」と。

宗次郎は呆然と目を見開いた。慣れ親しんでいた家の扉が、暗く重く堅く…阻んでいる、拒否をしている。その向こうに姉の姿を感じたいのに。

「…嫌だ…」

宗次郎は呟いた。同時に、涙がほろほろと流れていた。

「嫌だ。姉さん、家に入れてよ。僕は…ここに帰りたいよ」

そう何度も懇願する。けれどミツは「帰りなさい」と繰り返すばかりで、何一つ願いを叶えてはくれない。

そして宗次郎の懇願は、嘆きへと変わった。

「どうして…!食べ物がなくったっていい、お腹をすかせたっていいよ!僕、我慢するから、文句なんて言わないから!」

どん、どん、と握りしめた拳を扉にぶつける。そこら中に響き渡る音。

そうだ、この扉が壊れてしまえばいい。そうすれば、この家に入る事が出来るのだから。

ただただ泣きながらに、握りしめた拳の痛みを堪えて、扉を叩きつづけた。かじかんだ指先から血が流れようとも構わなかった。まるで縋るように、宗次郎は扉を叩きつづける。

しかし、扉の向こう側にいるはずの姉は、宗次郎が扉を叩く音が大きくなるにつれ、何にも言わなくなった。ただただじいっと扉の向こうにいるのだ。

「ミツねえさぁんっ!」

小さな身体の大音声。夜の寂しい田舎にその声は響いた。木霊して、反響した。

けれど、やはり何も返ってこない。まるで聞こえていないかのように、姉は何も返してくれない。

宗次郎は扉を叩くのをやめ、声を張り上げるのをやめ、扉に縋った体をずるずると地面に落とした。膝をつき、愕然と倒れ込む。

身体に力が入らないのが、はっきりとわかった。そしてはっきりと理解した。

(僕は…もう、いらないんだ)

この扉の向こうにある、あの暖かな家族のなかに戻る事は、二度とない。理由はわからないけれど、姉はもうこの家に自分を入れてくれないのだ。それを望むことさえ、許されないのだ。

「…ごめんなさい…」

両足に力を入れて、どうにか立ち上がる。大粒の涙は止まらなかったけれど、自分の気持ちを押さえつけることはできた。

宗次郎は背中を向けた。この家を出ていく。その覚悟を初めて決めた。二度と振り返らない。振り返った所で、ここは既に宗次郎の居場所ではない。振り返ったって、寂しいだけだ悲しいだけだ辛いだけだ。

そして歩き出す。姉が呼んだような気がしたけれど、それが本当にそうだったとしても、もう断ち切ると決めた。自分が拒絶された理由はわからないけれど、そうしなければならないと理解した。

試衛館に帰る。その道中、ずっと涙が止まらなかった。止まれ、止まれと思っても、溢れてくるばかりだった。




総司はゆっくりと目を開けた。冬なのに寝汗をかいていたのは、きっと夢のせいだろう。重たい上半身を起こし、目を擦る。

こんな夢を見たのはずいぶん久しぶりで、今では思い出すことはない。けれど記憶の奥でずっと眠っていたのだろうか。

総司は苦笑した。あの頃の九つの頃の自分が、今の自分を見たらきっと怒るだろう。見捨てられた、追い出された家族の事で、決めていた師匠と行く道を思い悩み、京行きを断念するなんて。そんな馬鹿げたことをするなんて、と。

けれど、どうしても江戸を離れるわけにはいかなかった。

もし姉さんが死んでしまったら?その死に目に合えないとしたら、自分は後悔しないだろうか?

今なら、自分が口減らしの為に家を出たのだと分かる。姉の苦しみも分かるし、そうすることで自分を生かしてくれたのだと感謝できる。今更開いた距離は戻らなくても、情を失ったわけではない。

そんな姉を見捨てて、自分は上洛しても良いのだろうか。

そう問いかけると、かすかに残っている幼い日々の記憶が思い起こされた。母の代わりに育ててくれた姉の姿が、どんどん湧き上がってきた。

おかしい、こんなはずじゃない。

そんな戸惑いがある一方で、知らぬうちに自分で「行かない」と言い出していた。

「起きよう…」

考え込むのはもう止めにした。決めたことを変えないのは、自分の性格だからよく知っている。気分を切り替えようと、着替えて朝稽古の準備をした。

部屋を出るとひやりとした冷たい風を感じた。まだ他の食客たちは眠っているようで、別の部屋から原田の大きな鼾が聞こえた。苦笑しつつ、総司は道場へと歩き出した。

「そういえば歳三さんは…」

昨日、朝から出て行って夜になっても帰ってこなかった。伊庭と飲みに行ったらしいという話は、近藤から聞いていたので特に案じていたわけではないが、昨日の朝のやり取りは的を射たものだった。

『何を我慢しているんだ』

土方の指摘は最もだ。本当は一緒に行きたい。一緒に上洛して、今まで磨いてきた腕を存分に発揮して、近藤の為に土方の為に生きていきたい。

しかし今、その高揚した気持ちをどうにか静めて、我慢をしている。浪士組の上洛はたった半年だ。半年我慢して、皆を待ち続ければいいんだ。何度もそう言い聞かせた。

総司は道場へ着くと、すぐに木刀を手にした。

邪念を振り切るように、力強く木刀を振り下ろす。ずっと続けてきた朝の習慣は、思い起こせば幼い頃に身についたものだ。家に帰れない孤独と寂しさを、泣いてばかりでは何にも変わらないのだとこうして言い聞かせた。もうこれしかないのだと木刀を振り続けた。それが、今に繋がっている。

「…っ」

僕は行かない。どこへも行かない。

今更家に戻っても、何の意味もない事も分かっている。けれど、せめて、ここにいたい。何かあったときにすぐに駆けつけられるように、姉の為に、ここに、いたい。

額からじわりと汗が流れた。体温が上がり、息も切れ切れになった。

目標の回数まで振り切った。いつもなら、真っ白になる頭が、今日はそうもいかずにぐるぐると渦巻いていた。

その時だった。

ガタン、と大きな物音が道場に響いた。総司は振り返ったが、誰もいない。しかし、確かに誰かの気配を感じた。昨日と同じように土方がこちらを覗いているのだろうか?そう思い、道場の出入り口に駆け寄った。

「…歳三さん?!」

その予想は当たっていて、しかし、大部分は外れていた。

土方は道場の扉を背にして、そこへ座り込んでいた。最初は寝ぼけているのかと思ったが、すぐに気が付いた。彼の左腕からだくだくと血が溢れ出ていたのだ。

「…よう。早起きだな」

眉間にしわを寄せて苦い顔をしているものの、土方の意識はある。総司は持っていた手拭いを急いで彼の腕に巻きつけた。血を止めようと強めに括ると、「いてえ」と文句を言われる。

総司はひとまず安心した。痛みを感じることができるのなら、神経まで切れていない。

「歳三さん、どうしてこんな怪我…!」

「…説明は後だ。肩を貸せ」

怪我をしていても尊大な態度は変わらないようだ。総司は一呼吸おいて、「誰か呼んできます」と母屋の方へ駈け出した。



いつも朝早くから起きて手習いをしている近藤に手伝ってもらい、土方を客間まで運んだ。しかし、朝っぱらの騒動に食客皆が飛び起きて、客間に集合することとなってしまった。

医者を呼ぼうとしたものの、土方が「かすり傷だ」と意地を張るものだから、総司が手当てをした。確かに見た目には血だらけだが、浅手ではある。手当をしているうちに血が止まり、皆がほっと安堵した。

「で、誰にやられたんだ?」

神妙な雰囲気の中、食客の原田が好奇心を丸出しにして訊ねた。隣にいた永倉が「おい」と諌めたものの

「顔はわかるが、名は知らねえな」

と土方があっさり答えた。近藤が困惑しつつ更に問う。

「どういう間柄なんだ」

「…吉原で見かけたことがあるってくらいだ。何の恨みか、いつも忌々しくこっちを見てやがったから、案外恋敵と言う奴だったのかもしれねえな。何人も引き連れてきやがった」

土方の答えに、食客たちはどっと笑った。

「違えねえ!きっと土方さんに女を獲られたんだろう!」

「浪士組上洛の話を聞いて、江戸の敵は江戸で…ってことだったのかもな」

「なあんだ、心配して損しちゃったじゃないですか」

色恋沙汰ならさもありなん、と原田たちが笑い、土方も苦笑した。近藤は「全く…」と呆れ気味に話を聞いていたが、総司は表情を変えることができなかった。

土方は得意げに話を続ける。

「こっちは徹夜で眠いってのに、朝っぱらからぎゃんぎゃん吠えやがって。四、五人いたとは思うが、一番強そうなやつを峰打ちで叩きのめしたら、他の仲間は逃げて行った」

「あれ?じゃあ、何で怪我をされたんですか?」

目ざといた藤堂が指摘すると

「隠れてた奴が一人いたんだ。まあ、そいつも俺の腕を斬ったはいいが、怖くなって逃げて行っちまった」

土方は武勇伝とも言わんばかりに自信満々だ。その様子に食客たちも盛り上がって囃し立てたが、総司の耳には何も入ってこなかった。

(…今度からは、こういう時に傍にいられない)

そのことを、まざまざと突きつけられたような気がした。

江戸に残るということは、大袈裟に考えれば、彼らの傍で何もできないという事だ。

守ることも、助けることも、救うことも。上洛する彼らを見送ったときが、本当の別れになるかもしれないということだ。

それがどんなに悔しくて苦しいことか…痛い程に、感じた。

総司は唇ときゅっとかみしめた。近藤や他の食客たちは何やら土方の武勇伝で盛り上がっているようだが、自分だけが別の世界にいるかのように、何も聞こえなかった。

(こういうことだ…)

遮断される、置いていかれる、ここに立ち止まったまま―――。

押し黙っていると、盛り上がったまま他の食客たちは去っていき、部屋には近藤と土方そして総司が残された。ひとまず怪我は浅手で上洛に問題がないということ、しばらくは外出を控えて養生すること…そんなことを二人は話し合っていた。

するとバタバタと足音が聞こえた。それは聞き慣れたものではなかった。

「土方さん!」

伊庭だった。いつも冷静沈着の彼が、少し取り乱すようにして客間に駆け込んできたのだ。

確かに近藤が遣いの者をやったのだが、あまりにも早く到着したようだ。

「どういうことですか、あの後襲われただなんて…!」

「伊庭君、大丈夫だ。この通りぴんぴんしているよ」

近藤が穏やかに取り成すと、伊庭は「あれ?」と首を傾げた。自分と周りの空気とのギャップにようやく気が付いたようだ。察しの良い伊庭は「なあんだ」と力を抜いたようにして座った。

「遣いの方が来て、土方さんが大怪我をした、何か事情を知らないかっていうものだから飛んできたのに。急いで損したなあ」

「損とはなんだよ」

はぁとわざとらしく息を吐いた伊庭に、土方が毒づく。

「あーあ。どうせ、色恋沙汰とかで恨みでも買っていたんでしょう。土方さんの腕なら一対一で負けるわけないでしょうから、数人の雑魚に囲まれたんですか?不運でしたね、俺と一緒にいた時ならそんな怪我をしないで済んだのに」

「……」

ぺらぺらと語る伊庭に、三人は呆然となる。そして、まったくその通りだったので、どっと笑いが起こった。

しかし、総司は合わせて、引きつりながら笑うことしかできない。普段であれば伊庭に乗っかって、土方をからかうことが出来るのに、何故かできない。

「まあでも、無事で何よりですよ。上洛には差しさわりないんでしょう?」

「ああ。幸い怪我をしたのも左手だから、問題ない。京につくまでには治るだろう」

「そうですか、それは良かったです」

そう微笑みつつ、伊庭はちらりと総司を見た。しかし、思わず総司は目を逸らした。目ざとい伊庭が何かを察しないわけはないだろうが、

「全く、徹夜で駆け込んで疲れちゃいました。ようやくありついた布団で心地よく寝ていたのに、たたき起こされて…」

と、相変わらず軽やかに嫌味を言うあたりはいつも通りだ。そこで近藤が手を叩き、「そうだ」と切り出した。

「だったらうちで朝餉でも食べていったらどうだ。まだだろう」

「あ、はい。じゃあ遠慮なく頂きます」

伊庭は近藤の提案に乗って部屋を出て行った。やはりちらりと伊庭がこちらを見たが、特に何も言わなかった。すると、部屋には土方と総司の二人だけが取り残された。

しん、とした静寂が空気を重くする。それまでは人の活気があり温かかった部屋が、急に冷えて凍りつく。

「……総司」

沈黙を破ったのは土方だった。総司は目を伏せたまま「何ですか」と返答した。ぶっきらぼうに聞こえたかもしれないが、この言葉でいえない複雑な感情を、彼に悟られるのは嫌だった。

しかし土方は遠慮なく尋ねる。

「何でそんな顔をしてんだよ」

言葉とは裏腹に、土方の声色は優しい。まるで慰められているかのようだ。

「…そんな顔って…どんな顔ですか?」

「今にも泣きそうな顔」

「そんなことありません」

すぐに否定するも、言葉に力はない。すると土方は「こっちに寄れ」と手招きした。総司は躊躇いつつも、彼の目の前に膝をついて座った。

土方は少し沈黙して、しかし言葉を紡いだ。

「きっと軽口の伊庭から漏れるだろうから、先に言っておく」

「何ですか?」

「俺と伊庭は…日野に行ってた、お前の姉さんの所だ」

総司はひゅっと、息を吸い込んだ。その息を吐くことはできなかった。そして息が止まるということは、こういうことなのだと思った。

「…そう、でしたか。姉さんは元気でしたか…?」

絞り出すようにして気丈に振舞ったが、土方は騙されてくれなかった。

「お前が上洛しないと言っているのは…姉さんの為なんだろう?」

「……」

無言が何よりも肯定になるのは分かっていた。けれど彼を納得させる言葉を、総司は持っていなかった。

だが、土方はそれ以上追及せず

「だったら安心だ」

と微笑んだ。総司は驚いて、思わず俯いていた顔を上げて土方を見る。だが言葉通りに、土方は穏やかだった。

糾弾されると思っていた。「そんな理由で」と怒られるのだと思っていた。ずっと前に絶縁した家族を、どうして思いやる必要がある。お前の師匠は近藤さんじゃないのか。そんな風に矛盾を指摘されるのだと。

「歳三さん…」

しかし変わらず、土方は穏やかだ。

「お前、今まで帰りたいって言った事ないだろう」

「え?」

すると土方が、総司の頭を撫でた。まるで子供にするように、優しく暖かにに。

「物心ついたくらいに試衛館に来て、お前は帰りたいなんて一度も言わなかった。誰を恨みことも憎むこともせず、ただ言われたとおりに働いて、剣術を磨いて…まるで決別したように、家族のことをおくびにも出さないで。そんなお前が、俺にはよく分からなかったし、おかしいと思っていた」

「…」

一度として「帰りたい」と言った事がない。土方の指摘は正しい。だから傍目に「おかしい」と思うのは当然だろう、と総司は思った。

九つやそこらで家を追い出されて、何の文句も泣き言も言わないで、家族を思い起こすこともなく大人びた姿を見せる。それはたぶん「おかしい」のだ。

けれど、総司はもう決めた。

あの日、たった一日だけ、抜け出した試衛館。疲れ果ててたどり着いた生まれ故郷。暖かく迎えられると思っていた場所で、拒絶されたあの絶望。ああ、もう家族なんてどこにもいない。自分はたった一人なのだと、そう決めた。そうすれば期待しないで済む、悲しまないで済む、あんなふうに悲しい帰り道を二度と歩かないで済む。

あの日の風は、とても冷たかった。

「だから、お前が姉さんの為にここに居たいと思うのなら…俺たちにとっては無念なことだが、お前にとっては良いことだと思う」

「…良いこと…?」

土方の大きな掌が、滑らかに総司の輪郭を撫でた。

「お前にも家族を大切にしたいという気持ちがあるのなら…何となく、俺は安心だ」

「歳三さん…」

「まあ、変な言い方だけどな」

土方は苦笑して、続けた。

「誰だって誰かから生まれてくる。どこかに血のつながりは必ずある。お前がそういうのを捨ててしまうのは、お前自身の否定だ。だから、お前がお前の家族を大切にしたいっていう理由なら…お前が残るのも構わないと思う。お前にとって最善の道だというのなら、それでいい」

土方は「かっちゃんには俺から言っておく」と付け足された。そして土方の大きな掌が、離れていく。

許されたかった。ついて来なくてもいい、と言ってほしかった。そうすれば、自分の選択を後悔しないでいられると思っていた。

けれど、実際そういわれてしまうと、どうしようもない寂しさが押し寄せてくる。この先の道に、自分が居なくても良いのだと、決められてしまったみたいで。

(わがままだ…)

そう望んだのは自分なのに。

総司はうなだれて拳を握りしめた。何の返答も出来なかった。そして、ただただ自己嫌悪だけが残った。




徹夜だという土方は、その後すぐに寝入った。腕の痛みも引いたようで、寝苦しそうな様子もなく総司は安堵する。起こさないように部屋を出て、土方のせいでまだだった遅めの朝餉を取ろうと部屋に向かうと、伊庭と鉢合わせた。

「もう寝てしまいましたか?」

「はい。わざわざ来てもらったのに、すみません」

伊庭は既に朝餉を取った後のようで、「おいしかったなあ」と嬉しそうにしていた。

「家族で食べる朝餉もいいけれど、同世代の友人たちと囲む朝餉も良いですね。まるで旅行みたいだ。皆が上洛したらこういうことも出来ないんだと思うと寂しいですねえ」

腕を組みつつ伊庭は総司に同意を求める。どこかわざとらしい物言いだったので、総司は曖昧に頷くに留めた。するとその様子を見ていた伊庭が

「やっぱり行かないんですか」

と急に声色を変えた。いつも土方の隣で飄々としている彼にしては珍しい。土方とは正反対に咎めるようなトーンだった。

「歳三さんから聞きましたか」

「ええ。日野にいる姉上を気遣ってのこと…と推測しますが、正解ですか?」

端的で明解な言葉に総司は頷くしかない。土方にしても伊庭にしても、目敏い彼らへ嘘をつくことは出来ないのだ。

「歳三さんには…それでいいと言われました。それが最善だと…」

「最良ではないですがね」

同じ事情を知っていてもなお、伊庭の態度は土方と正反対だ。弱弱しい総司の言葉を、ばっさりと否定した。

「さっき、思ったんじゃないですか?」

「…伊庭君…」

「土方さんが怪我をして帰ってきたとき、貴方はどう思ったんですか?」

有無を言わせず問い詰める。誰とも敵をつくらない伊庭の性格からして、やはり珍しいことだった。

しかし、総司には彼を納得させる答えがない。

「貴方は今まで培ってきたその力を、近藤先生や土方さんの為に使うのではなかったのですか?もし、上洛して同じように…彼らが襲われたとしても、遠くにいる貴方には何もできない。それでいいんですか?」

ずっと問いかけてきた疑問。

その答えから逃げていた。どうしても姉の姿が、姉の笑顔が掠めて、思考を止めさせた。

しかし伊庭はそれを許してくれない。

「答えてください。貴方はもし、彼らが死んでしまっても、殺されてしまっても仕方ないと諦めるんですか?」

「そんなの…!」

そんなの、わかってる。

ずっと天秤にかけてきた。姉と、彼らのことを。伊庭に言われなくても、考えて、考え抜いて出した答えだった。

「じゃあ…伊庭君はどちらを選ぶんですか?!」

総司は逆に詰め寄った。伊庭の袖をつかみ、握りしめながら。

「姉は気丈なひとだから、絶対病のことなんて言わない。自分が死んだところで、私には関係ないのだというはずです!でも姉は家族で、血のつながった大切な姉です!そんな姉の傍に居たいと思う気持ちは…そんなにいけないことですか!」

声を張り上げる総司。吐露したのは本心だ。しかし伊庭は顔色一つ変えなかった。

「いけないことだなんていいません。でも俺は家族を選びません。例え同じ状況であったとしても」

感情的になった総司とは反対に、淡々と告げた。しかし冷め切っているというのとは違い、彼には彼の強い意志があった。

総司は掴んでいた伊庭の袖を離し、一歩二歩と下がった。

「伊庭君は強い…ですね」

「強い?そういうことじゃありませんよ」

伊庭は苦笑した。しかし少なくとも、その選択ができなかった総司よりも、強いはずだ。伊庭は続けた。

「自分のなかにある、ちっぽけなたった一つの信条を守り続けたいだけですよ。自分の足元がふらつかないように、逃げ出さないように、取り乱さないように」

「一つ…?」

「ええ。貴方の中にもあるはずです」

するとふっと、伊庭が緊迫した空気を緩めた。その整った顔立ちで微笑んで

「沖田さん。足元ばかり見ていたら、前には進めないですよ。遠い向こうを見渡して本当にそれでいいのか、貴方は考えてみるべきです。近藤先生の…いや、土方さんの為にも」

と語りかけたのだった。




それから数日が立った夕暮。浪士組上洛が明日に迫り、皆が慌ただしく準備に追われる中、稽古が終わった道場で、総司はただ一人素振りを繰り返してた。

「やぁ!やあ!」

激しく上下運動を繰り返す呼吸。息も切れ切れになりながらの素振りだったが、不思議と疲労は感じなかった。しかしその一方で息が苦しく、もやもやとした感情がいつまでも付き纏う。

解決したはずだった。土方から許されて、近藤にも話が行って。あとは自分のなかで解決するだけだと思っていた。だが、それをせき止めたのは伊庭だった。伊庭の言葉が、惑わせて、迷わせた。

「…っ!」

するっと、手の中から木刀が離れた。激しい音を立てて飛んで行った木刀は、そのまま壁にぶつかり、跳ね返って転がる。

それを総司は見ていた。取りに行くこともせずにその木刀が転がる様を見ていた。

まるで自分のようだ。壁があるって、乗り越えられなくて、立ち止まっている。きっとあの日、試衛館を飛び出したあの日のまま、心が止まっていたのだ。家族というものに見ないふりをしていたのに、姉が病だと知った途端に塞き止めていた感情があふれ出すなんて。

「総司?」

ぼんやりと立っていると、不意に声をかけられた。

「近藤先生…」

いつもは周りの気配に敏感なのに、全く気が付かなかった。近藤は特にいつもと変わらない様子だったから、やはり自分がおかしいのだろうと思う。

放っていた木刀を拾い、「いつから見ていたんですか?」と明るい調子で尋ねた。土方や伊庭のように悟られるのは嫌だった。近藤は

「そんなに長い時間じゃあない」

と首を振ったが、それが本当かどうかはわからない。近藤は微笑んだまま総司に近づいて、「貸してみろ」と木刀に手を伸ばした。てっきり木刀に意味があるのかと思い、素直に差し出すと、近藤はもう片方の手で総司の手を掴んで、引き寄せた。

「…ほらみろ、あかぎれになっている」

「あ…」

手のひらを返されて気が付く。皮膚が割れ、赤い血が滴っていた。木刀の方を見ると、掴んでいた部分がやはり赤く汚れている。

「お前は木刀を持つと自分のことをすっかり忘れてしまう」

近藤は苦笑しつつも、持っていた馬油を差し出した。もしかしたらこうなることを予期して、用意していたのかもしれない。しかしそれを近藤は決して口には出さない。

持っていた手拭いで処置をしてくれながら、近藤は「はは」と何やら笑みを浮かべた。

「あの日も…お前は手を真っ赤にして帰ってきたなあ」

「あの日?」

心当たりのない総司は首を傾げた。冬になればあかぎれになるのはしょっちゅうだし、近藤自身もいつもあかぎれに悩まされている。試衛館で働く女中もいつものことなので、特段珍しい光景ではない。しかし近藤は、「お前は覚えていないかもなあ」と笑った。

「試衛館に来て…何日か経ったときだったかなあ…夜、覗いたらお前がいなくて、心配していたら朝になって帰ってきたことがあった」

「…!」

覚えている。

それは『あの日』のことだ。日野から追い出されて、肩を落として帰ってきたあの日。試衛館にたどり着いたのは朝になってのことだった。しかし、その時に誰かに会った覚えもないので、それは総司だけの記憶のはずだ。

しかし近藤はまるで昨日のことのように語り続ける。

「目を真っ赤に腫らして…途中で草履も無くしてしまったのか、裸足だった。だが、お前は真っ直ぐに井戸に向かって、水を汲んで顔を洗っていた。泣き顔を見られたくなかったんだろうが、なんて強情な奴だと笑ったよ」

「そ、そうですか…」

今更覚えているとも言えなくて、総司は知らないふりをする。

帰り道が酷く寂しくて悲しくて仕方なかったのは覚えているが、試衛館にたどり着いた後の記憶はあまりない。だが、おそらくは日野に行ったなんて知られたら怒られる、ここさえも追い出されるという意識が強かったのだろう。必死に泣いていることを隠そうとした。

「その時も俺は、お前の足にこうして馬油を塗ってやった。あの時のことを考えたら…大きくなったものだよ」

「近藤先生…」

総司はそのことを覚えていない。もしかしたら強がって治療をいらないとでも言ったのかもしれない。しかし近藤は何の事情も聞かず、こうして馬油を塗ってくれたのだ。

そういえば姉もこうして馬油を塗ってくれた。細く優しい指先を、覚えている。

(どうして…そんなことを、覚えているんだろう)

忘れたいと思っていた家族の存在を、今更思い出す。自分を引き留めるように、言い聞かせるように。

近藤が手拭いをぐるぐると巻いて、「これでいいだろう」と笑った。ちょっと不器用な姿になっているが、傷口には薬がしっかりと効いているのがわかった。すると近藤は突然声のトーンを低くした。

「お義父さん…周斎先生と、家を頼む。流派のことは、いずれお前に継がせるように頼んでいるから、心配するな」

「え…?」

突然の報告に、総司は目を見開いて驚いた。

天然理心流の名前は、代々近藤家が継いでいる。近藤もかつては島崎勝太という名前で入門し、周斎の養子となって道場を継いだのだ。しかし総司は、離れているとはいえ沖田家の嫡男。いずれは家を継ぐ立場であるから、その道は全く考えていなかった。

だが、総司が考えつく様な心配事は、近藤は承知の上だった。

「こんな時代だ、生まれがどうとか名前がどうとかそう言うことにこだわらなくてもいい。もちろん近藤家はお前には継げないから、きちんとした嫡男か…無理ならそのうち養子を迎えるつもりだ。だからお前には流派だけを継がせる。大先生も承知済みだ」

「でも…私は、そんなつもりは…」

「うん、だからその覚悟をするんだ」

近藤の言葉に、総司ははっとなった。

ここに残るのは、逃げるという意味だけではない。姉の為に居るだけではだめだ。近藤が残していくものを、守る義務があるのだ。

(そんなことに今更気が付くなんて…)

自分のことしか見えていなかった。伊庭の言うとおりだ、『足元しか』見えていなかった。考えれば考えるほど、自分が何もわかっていなかったことを知る。益々、自己嫌悪に陥る。

「近藤先生は…」

「ん?」

「私に一緒に来いとは…言わないんですか?」

総司の質問で、穏やかな近藤の表情が少し困ったようになった。

「そりゃ…来てくれれば百人力だが、無理強いはしない。総司は総司が思うとおりの人生を歩めばいい」

「…」

土方は、お前が家族を大切にするならそれでいいと言った。

伊庭は、自分にとって一番大切なものは何かと問いかけてきた。

そして近藤は、思うとおりにしろと背中を押した。

でもやっぱり、決めるのは自分自身なのだろう。

「俺は…お前を弟だと思っているのかもしれないな」

「近藤先生…」

「俺自身は末っ子だから、お前が試衛館に来たときは可愛くて仕方なかった」

近藤は「当時はお義母さんが怖くてひた隠しにしていたがな」と苦笑したが、総司にとっては思ってもみないことだった。

試衛館に来た当時、大先生の周斎は孫を見るように優しくしてくれたが、奥方であるふでが総司に厳しく当たった。要領の悪い総司を叱りつけることはしょっちゅうで、誰も助けてはくれなかった。そしてその時、近藤は少し距離を置いて総司を見守っていた。今ならわかるが、当時近藤自身も養子になり立てで、近藤家では居場所がなかったのだ。

「今でも愛弟子であることに間違いないが…どちらかと言えば、家族みたいだ」

もう、人生の半分を試衛館で過ごしている。同じ釜の飯を食べて、同じ屋根の下で生活を共にしている。

共に笑い、ともに悲しみ、ともに喜び、生きてきた。

既に家族なのだ。

(あ…)

目頭が熱くなって、じわりと視界が揺れる。「だめだ」と思い、どうにか俯いて堪えた。近藤の言った「家族」という言葉。きっと、ずっと…欲しかったのだ。




昨晩の内に降り積もった雪が、太陽の光に反射している。真っ白な雪に覆われたせいで足元は冷たいが、日差しは温かく彼らを見送る。

ついに浪士組出発の日となった。江戸で大々的に募集した浪士組参加は、総勢三百人ほどの人数となった。持参金として支給される金目当ての輩ももちろんいたが、殆どはこれからの活躍に胸を躍らせ、意気揚々とした門出となった。もちろん試衛館食客たちも例外ではない。

「じゃあ、行ってきます。お義父さん、お義母さん、お体をお大事に。ツネ、瓊子を頼む」

試衛館の前で集まったゆかりの人々に、近藤が代表してあいさつする。周斎は深く頷き、妻であるツネは名残惜しそうにしながらも微笑んだ。事情の分からない赤ん坊の瓊子が「あーあー」と声を上げたので、何となく場が和やかになる。門下生たちが次々に挨拶を述べる中、近藤は最後に、総司を見て微笑んだ。

「総司、色々頼んでしまって荷が重いだろうが…宜しく頼む」

「…はい」

遠慮がちに頷いた総司に、「元気を出せ」と言わんばかりに、近藤が肩を叩いた。そうしてせっかちの原田が「行こうぜ」と切り出して、食客たちは試衛館に背を向けて歩き出す。

「いってらっしゃい」

「達者で!」

見送りの人々が思い思いに声をかけるなかで、土方が振り返った。そして総司の目を見て言う。

「元気でな」

「……っ」

返事はできなかった。土方はそれだけ言うとあっさりと背を向けて歩き出してしまったのだ。伸ばした手を、どうにか引っ込めて、総司は唇をかみしめた。


その日の昼過ぎ、まるで大名行列のような大軍を一目見ようと、野次馬がその沿道を固めた。試衛館のように道場を上げての参加も少なくなく、見送りの人数も膨れ上がり、ちょっとしたお祭り騒ぎとなった。押せ押せの観客に混じり、試衛館の門下生たちは場所を確保し、固まって見送る。その中の総司もいた。

京へ向かう晴れ姿を、今か今かと待ち侘びる門下生。しかし総司は早く来てほしい様な、来てほしくないような…そんな複雑な心情でその中に混じっていた。

「沖田さん」

そうしていると、背後から声をかけられた。振り返る前から、その声色が誰のものなのか分かっていた。

「伊庭くん」

「近藤先生たちはまだですか?」

爽やかな笑顔を見せる伊庭。彼も見送りに来たようだ。先日の問い詰めるような伊庭とは違い、今日はいつもの柔和な彼だ。総司は頷いた。

「ええ。もう少ししたらこの辺りを通るのではないかと」

「そうですか。じゃあ、間に合ってよかった」

彼が満足そうに笑う。てっきり近藤らの見送りに間に合ってよかった、という意味かと受け取ったのだが、そうではなかった。

伊庭は後ろを振り向くと「こっちですよ」と誰かを手招きした。伊庭の知り合いか試衛館にゆかりのある人か…と思い顔をのぞかせると、そこには思ってもいない人が居た。

「姉さん…!」

余所行きの服に身を包み化粧をした姉・ミツは、先日日野に行った時とはまるで違う、ふっくらとした姿で、病など感じさせない顔色で、とても元気な様子だった。

「すみません。沖田さんに怒られるかなとは思ったんですが、勝手にしてしまいました」

「伊庭君…?」

「俺の自己満足ですから、まあ許してください」

そういって伊庭は手を合わせる。怒る怒らない以前に、事情を把握できない総司は戸惑うしかできない。しかし姉は久々の再会だというのに、険しい顔つきと強い目で、総司を見ていた。

「総司。どうしてここにいるの」

「…姉さん」

叱りつける口調に、幼少期の癖なのか、総司は思わず怯んだ。

「話は伊庭さまからお聞きしました。私の為に上洛を諦めたと」

「それは…」

「私は貴方を捨てたのですよ」

姉であるミツはきっぱり言い切った。その口調に、傍で聞いていた伊庭も驚いたようだった。

「貴方を…こんなに立派にして下さったのはどなたなの?飢えることも、困ることもなく屋根の下で育ててくださったのは、誰のおかげなの?」

問い詰めるミツ。自分によく似た真っ黒な瞳。それが少し、揺れていた。

「姉さん、でも…」

「貴方の家族は、私ではありません」

ミツは強い口調で拒絶した。その台詞は総司にショックを与えるものではあったが、しかしその一方で姉は、総司の右腕を強く掴んでいた。ぎゅっと握って、離さないように引き寄せていた。その手のひらからミツの感情が伝わってくる。本当はこんなことを言いたくないのだと、震えているのがわかる。

(姉さん…)

ミツの意図は手に取るようにわかった。しかし姉は強情に唇を噛んで、続けた。

「…私たちは大丈夫です。貴方は貴方が居たい場所に居なさい。いてほしいと思う人の傍に居なさい。貴方が望まれる場所に居なさい」

自分がそうであるように、姉も頑固だ。そう、きっと『あの日』もそうだった、あの扉を開いてしまえば楽だったのに――姉はそうしなかった。そうしてはいけないのだと、自分に言い聞かせたのだろう。

家族であることを捨てることで、家族を守ろうとした。

「貴方が思うようにしてくれたら…それが、私の罪滅ぼしになるのだから…」

そういってかすかにほほ笑む姉。

確かに覚えている、その優しい笑顔をいつも間近で見ていた。日々の暮らしに困窮しながらも、必死に生きていたあの頃に、良く見ていた。

思わず目頭が熱くなった。でも、姉の前で泣くのは照れくさくて、必死に堪えた。

だが、これだけは言わなければならない。姉は罪滅ぼしなんてしなくたっていい。

「姉さん…私を試衛館に下働きに出してくれたこと、私は…恨んでなんかいません」

「総司…」

最初は憎んでいた、悲しんでいた、落胆していた。けれど、今は晴れやかな気持ちだ。それは姉がその一歩を踏み出させてくれたのだと、わかるから。

「だってそのおかげで…皆に、出会えたのだから」

きっと『あの日』が無かったら、ずるずると自分が捨てられたのだと引きずって不貞腐れていただろう。だから、自分が捨てられたんだと思うことで、次に進むことができた。悲しかったけれど、自分を奮起させてくれる出来事だった。

だからこそ、たくさんの人と出会うことができた。

もう一つの家族と、出会うことができた。

「ありがとう…姉さん」

ミツの瞳から、一筋の涙が零れた。しかしミツはやはり強情にそれを隠して、掴んでいた腕を離した。

「…元気でやりなさい。たまには、文を出すこと。いいわね」

「はい」

姉なりの気丈な見送りに総司は頷いた。そしてミツも頷いて、背を向けて去っていく。その姿を総司と、伊庭が見送った。背中をぴいんと張った姿は貧乏とはいえ武家の女性らしい姿だった。

「ふふ、やっぱり姉弟だ」

「…そうですか?」

「ええ、そっくりだ」

くすくす笑う伊庭に、総司は首を傾げた。見た目は似ているといわれる姉だが、性格は似ていないと思っていたのだが。

「沖田さん、はいこれ」

「伊庭君…?」

伊庭が差し出したのは、大きな風呂敷包み。

「旅支度、ですよ。おミツさんが準備してくれました」

「姉さんが…」

「そしてついでに、良いお知らせを教えてあげます」

子供のいたずらが成功したように、彼は笑った。

「おミツさんのことですが…病ではありません。どうやら赤ん坊ができたらしいです」

「えぇ?!」

総司は声を上げて驚いた。しかし伊庭は「本当ですよ」と念を押したので、思い返す。

そういえば顔色を悪くして、貧血を起こして倒れたり、嘔吐を堪える仕草をしていたが…伊庭の言うとおりだとしたら、姉の具合が悪かったのは、つわりだったということだ。

ほっと全身に力が抜けて、その場に座り込みそうになった。その姿を見て、伊庭が「はははっ」と声を上げて笑った。

「全く、沖田さんも、土方さんも、早とちりもいいところですよ。一緒に暮らしていると似てくるんですかね?家族みたいに」

伊庭はさらに笑った。

伊庭はいったいいつからその事実を知っていたのだろう。もしかしたら土方と共に日野に行った時から、わかっていたのでは…?しかし訊ねたところで、伊庭はきっと教えてはくれないだろう。土方以上に、意地悪なんだから。

だったらせめて総司は気が付かないふりをして置くしかない。彼に合わせて笑いつつ、あの時の返答を彼に贈る。

「伊庭くんに、言っておかなければならないことがあります」

「はい?あ、もしかして怒ってます?勝手にいろいろ行動して、こそこそ詮索しちゃいましたから」

「そうじゃなくて。この間の…私にとって一番大切なもの、の話です」

伊庭は少し考えて「ああ」と思い出したようだ。本当はわかっているのに、芝居が上手だ。しかし総司は指摘することなく続けた。

「やっぱり、私は伊庭君のように…家族よりも、大切なものがわかりませんでした。でも、気が付いたんです。私にとって、姉さんたちも…家族ですが、試衛館に居る皆も家族なんだって。血の繋がりが無くても、そう思えるんです」

誰かを守るために、強くなりたいと思っていた。自分の大切なものを守るために、もっともっと強くなりたいと願っていた。大切なものが、人が、たくさんいるからこそ、これからも強くなりたいと願うだろう。

「私はたぶん我儘だから…全部、大切です」

「…そうですか」

伊庭は微笑んだ。彼のその整った顔が、清々しく和らいでした。

「さっきも言いましたけど…あなたはおミツさんに似ているし、土方さんにも似ています。それはきっと血を分けただけじゃなくて、一緒に暮らしているからこそ似てくることもあるのでしょう。あなたはたった一人で家を追い出されたかもしれないけれど、いま、あなたの周りにはたくさんの家族がいる。俺は…とても、羨ましいと思います。…だからかな、上洛しないと言い張る貴方に、ものすごく苛立ったのは。八つ当たりをしてすみません」

伊庭は持っていた大きな風呂敷を、総司に渡す。

「さあ、行って来てください。ここでのすべての思い出をあなたの糧として進んで行ってくれることを、皆願っているんですから」

「…はい!」

その言葉が、中を押して、総司は駈け出した。


見送りの野次馬達をかき分けて、大名行列のような大軍の前に躍り出る。タイミングよく現れた隊列のなかに、試衛館の面々が居る。大きく手を振りながら別れの挨拶をする彼らに、総司は一目散に駆け寄った。

「総司…?」

一番最初に気が付いたのは土方だった。その声につられて食客たちが土方の視線の先を見つめた。



雪がキラキラと光る。

彼らへとつながる道を、総司は走っていた。

きっとこの先も続く道。

それはこんな風に、輝いているはずだ。

その道を駆け抜けていく。

手を取って、軽やかな、足取りで。 流れ続けていく、

銀色の道を。






幕末・新選組を題材にした創作小説です。関係者様とは一切関りはございません。

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