村雨市役所
仕事を終えた数日後に、必ずみる夢。
捨てられた日の悪夢とは違うやるせなさに駈られながら、ゆっくり目を開けると、薄いカーテンの隙間から柔らかい遅く起きだした朝日が零れていた。スマホを見れば、時刻は午前七時を少し回ったところだ。
俺――八神翔は、布団から出てシャワーを浴び、纏わりついてくる薄暗さと少し伸びた髭を剃り落とす。風呂を出て、端正な顔立ちの額に残された古傷を長めの前髪で素顔を隠し、ワイシャツに背広を着こんだ。あとは、買い込んでおいた菓子パンを口に入れて、田舎の地方公務員らしい地味な黒鞄で仕上げをすれば、完璧だ。表の職場である村雨市役所へと向かった。
山々に囲まれている村雨市の朝は、都会よりも遅い。お陰で、この地域の空は俺の肌によく馴染む。だが、思い切り深呼吸すれば、一切不純物のない透明な空気。汚れ切っている内臓にはあまりに清らかすぎて少し刺激が強すぎる。肺が少しピリッと痛む。
通勤路の景色は、四季折々美しく姿を変えていく自然に囲まれた緑だ。
今は、山を彩る鮮やかな紅葉も終わりを告げて寒々とした色に塗り替えられているが、それを超えればまた彩り豊かな自然が眼前に広がる。
ここにきて三年にもなるというのに、未だに清々しさ慣れないのは、薄暗い過去を背負い夜に蠢くような人間は不純物とみなされているからなのかもしれない。
蔦が白い塀に這うボロボロの村雨市庁舎に到着し、階段を上り五階総務課の扉を開ける。全体で二十人ほどの机と椅子をくっつけて一つの島になっている。始業十分前で、霧島市町と俺の大嫌いな女性職員約一名を覗いたほぼ全員の職員が揃っていた。明るい挨拶が俺を迎えてくれる。
「おはよう!」
すでに出勤している総務課の面々は、清々しい笑顔まで向けてくるが、いつまで経っても、慣れずむず痒い。
「おはようございます」
俺は、不愛想になりすぎないような顔をして、高くも低くもないちょうどいい声でそれに応えながら、自分の席へ鞄を置いた。
総務課の中で各々担当が決められており、俺はその中の広報担当だ。同期の間宮信也と自分を含めた二名で切り盛りしている。席は島の一番端の入り口側。ちなみに、部屋の課の一番右奥には小さな個室が市長室。左側は、使用されていない机と椅子を四つ並べた名ばかりの会議用スペースとなっているが、俺がここに来てから一度も使用されたことはない。
ここ村雨市は首都圏から電車で二時間半の場所に位置する過疎化が進んだ人口三万人程度の弱小自治体。
田畑が土地の半分を占め、県境に山々が連なる。良くいえば、緑にか囲まれた長閑な。悪くいえば、首都圏と地方都市の狭間に落ちてしまった見捨てられた場所だ。近い将来消滅するであろう自治体リストに名前がしっかりと載っている。
さすがにこのまま過疎化が進んでしまっては、本当にこの町はなくなってしまう。そこで立ち上がったのが現市長の霧島だった。若者を呼び込み、少子化に歯止めをかける。そう豪語し、他都道府県から若者たちをこの町へ呼び込むために移住助成金を出すと発表した。今ではそれほど珍しくない制度となりつつあるが、端を発したのは村雨市だった。
当時は斬新で画期的だと、話題になっていた。しかも、その最初の移住者が月島瑞穂。厚生労働大臣を務めている現役大物政治家の月島五郎の娘だったということもあり、連日メディアは大騒ぎ。
その頃の俺は、ある仕事で失態を犯し、ある団体に住んでいた場所が突き止められてしまう危うい状態に陥っていた。
移動しなければまずい。そう思っていたところに、村雨市の存在を知った。渡りに船とは、まさにこのことだと思った。人が激しく流入してくる騒がしさに便乗し、この町へ紛れ込むことに成功したのだ。
流入者に危うい者が紛れていることなど微塵も疑うことはなかった市は、ろくな身体検査もせずに、どんどん人を受け入れていった。
お陰で、しんと静まり返っていた町には活気が戻った。それを霧島市長から村雨市民まで、俺のような不純物が混ざっている知らず、手放しに大喜び。
純粋培養で育った田舎者たちは、本当に甘い。世の中そんなうまくはできていないということを知らなさすぎる。内心揶揄しながらも、田舎の甘さに漬け込んで、するするとこの市役所にまで就職を決めていた。
こんな薄汚れた人間をも受け入れてくれる骨の髄まで純粋な人間の懐の深さは、愚かだ。その頃の俺は、心底嘲笑っていたのだが、一度職場へ足を踏みいれた途端、俺の中で米粒ほどのこっていたらしい罪悪感が疼いた。こんな俺を受け入れてくれた場所だ。せめて、表の仕事は仕事でしっかりやろうと、訳のわからない恩義が芽生え、配属された広報の仕事。
意気込み、いざ業務に取りかかろうとしたのだが、肩透かしを食らうほど、アピールできる出来事が何もなかった。唯一の大イベントは、秋の米の収穫くらい。現実に愕然としてからというもの、わざわざこちらに労力を注ぐ理由もない。周りも現状維持を望んでいることもあり、結局ささくれくらい小さく芽生えていた恩義はすぐに枯れていた。
そして、いつも通りのなんの刺激もない淡々とした日々を繰り返し、今は緑さえも消えた冬の時期。故に、現在の業務は更に皆無。
始業のベルが鳴り始めても、どこの担当も仕事はほとんどない。有り余っている労力は、口を動かす力へ費やされ無駄話に変換されていく。
それは、今日もそれは例外ではなく、俺がノートパソコンを立ちあげている間、一番遠い席にいる女子のおしゃべりが聞こえてきた。
「そういえば、孤児院にまた多額の寄付があったみたいですよ」
俺と同じ時期に流入してきた、五つ年上の面長に小さめの目をさせた玉川和美が話題を提供していた。彼女も都会からやってきた。大企業に勤めていたのだが、忙しい日々と都会の殺伐さに嫌気をさしてしまったところに、村雨市の話を聞きつけてやってきたらしい。ここの緑に癒されると、口癖になっている彼女ではあるが、身体に染み付いた都会の匂いはなかなか消えない。どこかで、やはり刺激を補充しようと、いつもどこからか事件や話題を持ち寄ってくる。
「あぁ、知ってる! 昨日ニュースでやってたやつだろ?」
そんな刺激話にいち早く反応したのは、なぜか端を発した玉川から一番遠い席にいる俺の隣にいる同じ広報担当、間宮。
俺たちとは違い、流入者ではなく、この土地で生まれ育ち、アイドル顔負けのキラキラオーラを放っている日向ですくすく育ってきた純粋培養者だ。ずっと平らな世界にいたからこそ、煌びやかな世界を求め、少しでも刺激のある話に何でも食いついてくる。
「数ヵ月前にも違う孤児院に金塊だか寄付されたことあったよな? もしかして、このあしながおじさん、同一人物なのかなぁ」
間宮は、興味津々だと言わんばかりに、瞳をキラッとさせる。
一方俺は、大いに不満だった。理想はあくまでもアルセーヌ・ルパン。なのに、現実はあしながおじさんだ。冗談じゃない。欲にまみれた善意とは違う。憧れは、子供の頃頭上に瞬いていた星よりもずっと程遠い場所にあることを思い知らされる。
俺がターゲットとしているゴミたちは、警察には絶対に通報することはない。警察に入られてしまえば、窃盗された以上の犯罪証拠が腐るほど出てくるからだ。叩けば埃は何百倍の高さとなって湧き上がる。だから、そんなゴミたちは、盗みにはいられたとしても騒がない。どこまでも、沈黙する。それはつまり、俺の手柄と善意もすべて沈黙の中に埋もれてしまうことを意味していた。だから、施設への寄付をする際は『アルセーヌ・ルパン』と名前を添えているのだが、結局そんな詳細は伝わることなく伝言ゲームのように事実がねじ曲がって伝わっていく。
ムッとしながらパソコンの画面を睨むと、本来の端正な顔立ちを強調する目元を分かりにくくするため伸ばしている前髪が乱れてしまっていた。
「なぁ、八神もそう思わない?」
急にこちらに振られてきて「うーん。どうなんだろうなぁ」当たり障りなく素っ気なく答える。
間宮は、場を盛り上げてくれるし、気も利くし、親切だ。俺のように輪の中に入ろうとしない人間も溢れないように、面倒くさいほど手を伸ばしてくる。同時に、典型的な善良な太陽の匂いをぷんぷん漂ってくる。俺の苦手な香りだ。
つい眉間に皺がよりそうなのを、紛らわすために、立ち上がった画面を睨み付けていた。
そこに、総務課のドアを叩く音。
どうやら来客のようだ。その対応は、出口に近い俺の仕事でもある。話題から抜けられることに、安堵しながら前髪を整えると丁度ドアが開いて、風が吹けばとんで行ってしまうのではないかと思えるほど、ひょろひょろ細長男が立っていた。華奢すぎる身体にしては、両手に抱えた資料はずいぶんと重そうに見えた。大抵、分厚そうな資料を抱えてくるときは、市長目当てなのだが、今回はどうやら違うようだ。市長室ではなく、総務課の面々を見渡している。
「誰か、お探しですか?」
俺が、声をかけると細男は俺の首から下がっている職員カードを見て、見つけたといわんばかりに。
「どうも、失礼します。市民課の伏見と申します。課長から、広報担当者の方と相談して来いと言われまして。少し、お時間よろしいでしょうか」
ゆるい村雨市役所にしては、ずいぶんと礼儀正しい言葉遣いをした上に、細長い身体を直角に曲げていた。広報に仕事なんて、珍しい。配属されてきて初めてのことだ。そう思ったのは、間宮も同じだったようだ。俺と間宮は顔を見合わせて首を傾げていた。