記憶
図書館の片隅で、古びた本から香る独特のにおいの中に埋もれ続ける。それが、少年の唯一の安らぎだった。
学校に通う頃になると、児童養護施設と同じように居場所はなく、どこか一人だけ違う空間に取り残される。少年は、丸刈りにされ、額に残された古傷を隠すためにキャップを被り、逃避するように施設の近にある図書館へと通うようになっていた。
重い空気で身を固め、誰にも邪魔できない空間を作り出しながら、真剣に読みふける少年。そこに、ふわりと透き通った清涼感ある風が吹き気抜けた。
「何を読んでるの?」
はっとして顔をあげると目の前に、皴一つない綺麗な服を纏った、清々しい空気を放つ少女がたっていた。ボロ服で汗臭い自分とは全く違う匂いだ。彼女の瞳の表面は眩しいほど輝いて、整った顔立ちに少しだけ吊り上がり、きりっとした目元とその下にうっすらとあるそばかす。西洋の昔話に出てくるような美少女。天と地ほどにあまりに住む世界が違う住人だと、思った。
いつもならば、そっち側の人間は、容赦なく切り捨てるのが常だ。だが、この時は何故かそんな気が起こらなかった。その理由は、彼女の瞳の奥に隠し持っている何かのせいだ。少年は直感し、素直に口を開いた。
「アルセーヌ・ルパン」
「へぇ。どんな話?」
「貴族の宝を盗んでいく大胆不敵な大泥棒の話」
答えると、彼女は詳細を聞きたがった。この時、少年は直感した。彼女もまた逃げたい現実があるのかもしれない。自分がずっと背負い続けている薄暗い環境が敏感にそれを察知し、共鳴していたのだろう、と。
それから、二人は顔を合わせるのが当たり前になっていった。会うのはいつも図書館の片隅の日の当たらない場所。約束するでもなく、気づいたときには彼女はふらっと現れ、隣に座っている。そんなことを何度か繰り返したところで、少年は自分の夢を語っていた。
「俺の憧れはアルセーヌ・ルパンなんだ」
「彼は怪盗で、悪党なんでしょ?」
「違うよ。彼は、盗みを働いた金を虐げられた弱い人たちに使っていたんだ。市民のヒーローなんだよ。だから、俺はそんな存在になりたいんだ。今も苦しんでいる誰かを……助けたいんだ」
彼女は大きな瞳を何度か瞬かせていた。その度に、表面の輝きが失われ、奥の暗い部分が俺と共鳴するように暗く光り始めていた。その変化に少年は気付くことなく、手の下にある表紙をゆっくり撫でた。無機質な固い感触の奥で、あの日の手の中にいた、小さな温もりが甦った。
「俺は、絶対になってやる」
少年の真剣な眼差に、一層熱が籠っていた。
普通の人間ならば嘲笑ってしまうような夢。
だが、少女は長い黒髪を耳にかけ、真正面から受け止めていた。
「あなたなら、なれるよ」
力強い声でそういう彼女の瞳もまた、意を決したような強い光が宿っていた。
誰にも見せることのない薄暗い部分が、この時二人の胸の奥の深い場所で確かに繋がっていた。
それから、中学の制服に身を包んだ少年と少女は、相変わらず図書館隅にいた。窓の外は桜で満開になっている。
「ねぇ、まだルパンになりたい?」
少女は唐突に少年へ尋ねていた。少年は、顔を上げて本の活字から彼女へと視線を移した。ぶつかったのは彼女の真剣な眼差し。その中に、いつも以上に何かに追い詰められているような緊迫感が漂っていた。その雰囲気に困惑しながらも、少年ははっきりと答えた。
「あぁ、もちろんだよ」
少年は堂々とそういいながら、いつまでも子供じみたことを言っていて、さすがに馬鹿にしてくるのかもしれないと、密かに危惧していた。だが、そんな予想は彼女の笑顔で、跡形もなく吹き飛ばしていた。
「じゃあ、信じて待ってるね」
彼女の目の表面だけ輝きは、この時だけは奥まで光が届いているように見えた。安堵したように表情を緩める彼女は、今までで一番穏やかな表情をしていた。少年は困惑しながら、彼女に問い返す。
「信じて待っているって、どういう意味?」
「あなたが有名になる日」
笑った瞳は、きりっとした気の強さは消えて、きれいな三日月のような優し気で少し寂し気な弧を描いていた。印象的な笑顔だった。それは、あの日、母から別れを告げられた呪いの言葉以上に、脳に強く刻まれていた。
そして、それ以来彼女は図書館には二度と現れることはなかった。
突然切られた糸。どうしたらいいのかと戸惑いは一瞬だけ生まれたが、それ以上の憂いはなかった。一度つながりが消えてしまえば、二度と会いたいとも、探そうとも思わなかった。自分は日陰の世界に生きる人間だ。彼女とつながったままでいたら、自分の首を絞めることになる。だから、お互い住む場所も名前も知らなかったことに、寧ろ安堵していた。
あの頃の俺は、必死だった。今を生きることに。頭上に燦然と輝き続ける憧れのアルセーヌ・ルパンになることに。必死にもがいていた。