居候
「おかえりー」
玄関を開けて、これまで一度も聞いたことがない迎え入れる声。全く馴染みのないものに、一瞬帰ってきた場所を間違えたのではないかと思って、靴を脱ごうとした動作が止まってしまった。「あぁ、そうだった」と思い出し、動作を再開して部屋の中へと足を踏み入れた。
昨晩、あのホワイト動画を無我夢中になって作成し、マスコミに送り付けた。これで、満月は大混乱に陥り、勇気を追う余裕もなくなる。何とか勇気の安全は確保できそうだ。実際にそうなったし、そこまでは、よかったが、その後ふと気づいた。それでは、勇気の問題解決にはならない。勇気がこれから暮らしていく場所を、作らなければならない。
本来であれば、瑞穂のところで暮らすのが一番だろう。だが、それでは逃げた意味も、助けた意味もすべて消え去る。ならば、どうするべきか。
俺は真面目に考えようと思考を巡らそうとしたのだが、瑞穂はいとも簡単に「名案、思いついた」と言い出したのだった。この時「それなら、よかった。これで肩の荷が下りる」と、一瞬でも安堵してしまった自分を呪い殺してやりたい。
瑞穂の名案。それは。
「八神君のところで、勇気を預かってくれればいいのよ」
「は?」
開いた口が塞がらないという事象は、本当にあるのだと身をもって知った瞬間だった。人間、本当に予想外なことを押し付けられたとき、口はぽかんと、あきっぱなしになることを。
「職場、大丈夫だった?」
顔を出してきた勇気の丸い顔。俺に対する気遣いも見え隠れしている。それに対して、俺は思う。
勇気はやっと自由を手に入れたのだ。それをここに置かれているという理由で、消してしまうのは俺の本意ではない。リビングで、しゃがみ込み、勇気と目線を合わせる。
「勇気。ここにいる間は、俺の機嫌をうかがうことも、周りを気にする必要はない。お前らしくしていれば、それでいい。ここには、お前を無理やり言うことをきかせる大人は、いないんだから。わかったな?」
そういって、口角を上げてやれば、勇気は弾けるような笑顔を見せていた。
「うん、わかった! ありがとう、翔兄ちゃん!」
笑顔を返し、頭をくしゃっと撫でてやる。作業机は、一切触らない。パソコンは瑞穂野連絡時だけは、自由にというルールを作って、他は好きに使っていいことにしてある。そのため、勇気はスキップしてテレビの前を陣取っていた。施設ではテレビなどはもちろん、自由に見せてはくれなかったのだろう。すでに始まっていたアニメを食い入るように見入っていた。
そんな小さな後ろ姿を見やりながら、瑞穂から帰り際、職場の屋上に呼び出された時のことを思い出す。
「今朝、父親から探りの電話がかかってきたの。『お前のところに、勇気はいないだろうな?』って、唐突にね。だから、『勇気? 何の話? むしろ、あなたが勇気を家から追い出したんでしょう? その後、勇気がどうなったのか、こっちが聞きたいんだけど』って返したら『そうか』といって、不機嫌な声で切られた」
「当然、信じていないだろうな」
「えぇ。しばらく、私のマンションへ探りに誰かが頻繁にやってくると思う。だから、勇気のことよろしくね」
瑞穂は、俺と同じ村雨市流入者。本来ならば、流入者が住むアパートに住むはずなのだが、瑞穂は特別枠。都内の高級高層マンション住まいだ。だから、いくらそこを調べられても痛くも、かゆくもないというわけだ。勇気は俺のアパートに転がり込んできているのだから。
それを聞いた俺は、はぁっとため息と共に、頭を抱えるしかなかった。俺に押し付けるなんて、どうかしている。俺はまっとうな人間ではないことは、よくわかっているはずだ。抗議の視線を送るが、瑞穂は見て見ぬふりをする。さすがの俺も、声を上げていた。
「そもそも俺は勇気を引き取るなんて、一言も言っていない」
「あら。でも、引き取ってくれたじゃない」
「緊急事態だったから、一時的に泊めてやっているだけだ」
「あら、そうだったの?」
わざとらしい言い方に、相変わらずの濃い化粧。眼前に広がる豊かな緑に、まったく似つかわしくないカツカツ鳴るピンヒール。カチンとくる。昨日感じた懐かしさは、濃い香水の匂いで簡単にかき消されていた。今まで自分の素性を隠すために、感情もなるべく殺してきたが、瑞穂の前ではそんなことはもう無用。俺は、捲し立てた。
「俺のところに見ず知らずの子供がいるなんて、周りに知られたら、どうしてくれるんだ」
空気は相変わらず、どこまでも澄んでいる。俺の反論を浄化するように、瑞穂は深呼吸をし始め、しれっと言い放ってきた。
「心配無用よ。そっちの方は色々考えてある。あなたのところに勇気がいることがバレたとしても、問題ない」
「問題ない?」
「えぇ。なーんにもね。あぁ、外で呼ぶ時は、勇気ではなく『ユウ』にしてね。さすがに本名はまずいと思うし。あと、今日は、ホワイトの話題でみんな頭がいっぱいになっているけれど、明日になれば全部解決するはずよ」
自信満々に、浮かべる笑みは不敵。嫌な予感しかしない。俺は、キッと瑞穂を睨みつける。
「……お前……いったい何を?」
「お前って呼ぶのは論外。だからって、月島って呼ぶのもやめて。私、この名前大嫌いなの。そうねぇ……瑞穂さまって呼んでくれていいわよ」
瑞穂は、俺を弄ぶように、ふふっと笑う。
「というわけで、私も翔君って呼ぶことにする。あなたって、常に冷静で、男気がある人かと思ってたけど、案外細かくて面倒くさい性格しているのね」
わざと俺の神経を逆なでしているようにしか思えない。怒りを前面に出しながら、更に瑞穂をにらみつける。瑞穂は、また小さく「面倒くさい」と零して、踵を返す。背中を見せ歩き出す瑞穂。そのまま退散するかと思いきや、振り返ってニッコリとほほ笑んでいた。
「ともかく、翔君のところに子供がいても、大丈夫。みんなから、何を聞かれても「はい、そうです」と余計なことを考えず、答えれば問題なし。じゃ、またね」
言いおいて、今度こそ屋上から姿を消していた。
はい、そうですと、答えろだと? 一体どんな勝手なことしやがったんだ?
屋上に残された俺は、一杯に新鮮な空気を吸む。不純物が無さすぎて、肺が痛くなりだった。だが、このときの俺は燻りそうな靄を透明にしようと、必死になりながら帰路についていた。
陰鬱な気分をシャワーで流して、Tシャツにジャージに着替えた。相変わらず、テレビにかじりついている勇気の邪魔をしないように、パソコンを立ち上げる。
勇気がいようがいまいが、俺は俺の仕事をする。そのスタンスを変える気はない。
次のターゲットを調べようとキーボードを叩こうとした矢先、ホワイトの会議システムからアラームが鳴った。瑞穂から『スマホでは私たちが連絡を取り合っていることがすぐにばれちゃう。今後は、ホワイトの時に使った会議システムで連絡するようにするわ』と言っていたなと、ぼんやり思い出し、システムにログインすると化粧を落とした瑞穂が画面に映っていた。
化粧というものは、本当に人を化けさせるものなのだなとある意味、感心する。だが口調は、化粧の有無は関係ない。
「勇気に代わって。勇気と私の大事な話をしたいから、翔君は一時間くらい散歩でも出て頂戴」
相変わらず上から目線でいわれ面倒になり「はいはい」と、適当な返事をして、そのまま勇気にパソコンを明け渡した。
瑞穂からだぞと告げると、勇気の顔は一気に明るくなって、テレビ以上に画面の奥の瑞穂に満面の笑みで食いついていた。
まぁ、確かに、二人は離れ離れだったんだ。積もる話もあるだろう。
瑞穂の言葉を素直に受け取り、何もない真っ暗な田舎道やらあぜ道を散歩することにした。一日中、どうしてもカスミのことばかり脳内にチラついて仕方がなかったから、気分転換にちょうどいい。そう思っていたのだが、歩けば歩くほど、出会った時のカスミの赤黒い瞳が鮮明に思い出された。こんなに周りは真っ暗闇なのに、頭上でやけに明るく輝く星が照らし出してくる。その中に赤い光も混じっていて、より一層皮肉られているような気分になってくる。気分転換どころか逆に重苦しい気分になって結局、苦笑しながら帰宅。いい加減テレビ電話も終わっているだろうと思っていたのだが。俺に聞かれちゃまずい話でもしてたのか、何だかそわそわしていた。
が、すぐに気を取り直したのか、明るい声が響き始めて、終わったのは、深夜。
勇気は電話が終わるなり、敷いてやった布団に寝転び、あっという間に穏やかな寝息を立てていた。環境適応能力の高さは、さすがだなと苦笑しながら、俺はベッドに潜り込む。
他人と同じ部屋で眠るなんて、施設以来。寝息が煩くて、しばらく眠れそうにない、なんて思っていたのだが、驚くほど早く意識を手放していた。




