瑞穂の過去
「あなたが仕事に失敗する直前、勇気は施設に追いやられてしまっていた」
瑞穂は苦々しい顔をしながらも、淡々と説明を加えていく。
「私は、悔しくて仕方がなかった。どうにか勇気を取り戻せないか。また一緒に暮らせないか、ずっと考えてた。でも、どうしようもできなくてずっと悩んでいた。そんな時だった。満月の職員が、父のところへ駆けこんできたの。
『侵入者があった。捕まえようとしたが、逃げられた。何か証拠をつかまれたのかもしれない。このままでは、まずいことになりかねない。手をかしてくれ』って。その時、ピンと来たの。もしかしたら、あの日。図書館で会ったあの人なのかもしれないって。だとしたら、何としてもあなたを助けたいって思った」
瑞穂のまっすぐな瞳が、ぶつかった。
少し熱を持った夜風が瑞穂から流れてくる。いつも薫ってくる濃い香水の匂いの代わりに、図書館の古びた本から漂う独特の匂いが風に乗って懐かしい香りがする。それを掻き分けるように目を細まっていく。
「そこで、私が満月職員に申し出たの。犯人を捕まえるのに協力するって。満月の幹部は、みんな年老いたおじさんやら、頭は筋肉の人たち。機械系には弱いの。私が『監視カメラの精査や不正アクセスがなかったか調べる』っていったら、すぐに快諾してくれたわ。調べ始めて割とすぐ、バッチリあなたの顔が映っていたわ。だから、監視カメラ映像は他のものにすり替えて、堂々とパソコンにウィルスを仕込んでデーターを全消去。私に感謝してよね」
瑞穂はいたずらっぽく笑う。
確かに陰ながら瑞穂の助けがなかったら、今の俺はなかったかもしれない。だから「そこは、感謝するよ」と述べれば、まさか素直に礼を言うとは思っていなかったのだろう。瑞穂は驚きながらも笑っていた。その顔はやっぱり、あの時の少女で根本的には何も変わっていないことを知り、あの時の穏やかさな空気がふわりと漂ってくる。
「いただいた防犯カメラで、あなたの顔を知ったまではよかったのよ。そこから何とか辿れると思っていたけど、情報は本当にそれだけで、他には何も手掛かりがなくて行き詰ってしまったわ。何とか、ルパンの名前は『八神翔』それだけは知ることができたのは、それから数年後。名前さえわかれば、その後は、父の権限で全国の市民データーを調べ上げればわかると思った。それでも、あなたの居場所を見つけられなかった。だから、賭けたの。私が移住制度を大々的にアピールする。そうすれば、逃げ惑っているあなたは、絶好のチャンスとばかりに、ここへやってくるんじゃないかって。そしたら、本当にあなたがやってきた。奇跡が起きたと思ったわ」
瑞穂のほの暗かった瞳に星が散りばめられたように輝いた。それを喜ぶべきか、憂うべきか。これが、本当に敵だったら全て終わっていたのだ。己の未熟さに頭を抱えそうになる。複雑な感情を隠すために、全身でため息をついて、軽口を叩くしかなかった。
「そのころから、父親の職権を利用していたのか」
冗談めかして言ったつもりが、瑞穂が浮かべていた柔和な笑みは一瞬で消えつぶやいた。
「ずっと父のせいで、不幸を背負わされてきたんだからそのくらいの見返りがないと生きていけない」
「どうして、そんなに父親を毛嫌いしているんだ?」
その問いが表面だけ輝いていた瞳の光を奪い取った。ずっと、その奥に隠されていた暗さが前面に押し出されていた。
「勇気と私は異母姉弟なのよ」
瑞穂は、いつもの鋭い目つきを鞘に納めて、勇気の頭を撫でる。一方、俺は意外な事実に、目を見開いていた。
「政治家の月島源蔵に、愛人がいたということか?」
政治家に愛人や妾がいること自体、驚くべきことではない。だが、メディアに映る月島源蔵に関しては、まるでそんなことを感じさせない清潔感があった。むしろ、愛妻家であり、自分の愛娘を溺愛する父親のイメージを前面に出している。テレビから流れるイメージは、ただそれだけだ。
「ええ。父も列記とした腐った政治家そのものよ。クリーンなイメージは、メディアに賄賂を渡し、金の力で作り上げた虚像」
勇気から視線を外し、こちらへ再び向けてきた瞳は、いつも以上に鋭かった。隠しきれない、憎しみに溢れている。
「父が本当に愛していたのは、昔から月島家のお手伝いに来てくれていた舞さんだった。
でも、いざ政治家の道へ進むとなれば、ただの恋愛結婚は許されない。金持ちの良家の女と結婚することが、理想的。政治に金は絶対不可欠だからね。だから、父は、舞さんとの関係は断ち切らないまま、私の母と狡い結婚をした。母も政治家の妻というステータスを手に入れられる。母もまた、父に舞さんという存在を認知しながら結婚を承諾したの。
そんな愛情なんてものに程遠い歪な二人の間に、私は生まれた。私はそこにいれば、存在していればよかったの。両親からの愛情なんてない。母も私のことは、仕方なく産んだようなものだったしね。私は、両親が政治の表に立つ時だけに、持ち出されるアクセサリーと同じだった。唯一二人から教えられたことといえば、公の場に出て人好きするような笑顔を向け、父の提案には無条件に「はい」と答えることと、二人の機嫌を損ねないこと。それだけ守っていれば、見返りとして、お小遣いを得られる。その金も、誰かから巻き上げてきた出どころの知れない汚い金。真っ黒な金を握らされて、私の手も汚れていく気がしたわ。そして、こんな人生に生きる価値はあるのか、いつも疑問だった」
瑞穂は、悲しげな瞳をして、自分の存在を鼻で笑っていた。
「いつも考えてた。どうやったら、この家から飛び出せるのか。いつになったら、私は自由になれるのか。そんな私を救ってくれたのは、いつも舞さんだった。舞さんにとって、本当は私という存在が一番疎ましかったはずなのに、一番愛情深く接してくれた。血は通っていなくても私の親は、舞さん一人と思えるほど深く。そんな私の態度も、母にとっては気に食わなかったんでしょうね。舞さんに辛く当たることもあった。それでも、舞さんは私のことを決して見放しはしなかった」
瑞穂の瞳は、切なく揺れて、透明な厚い水の膜が張り始めていた。
そこに濁りはなかった。舞という存在が、瑞穂にとってどれほどの救いになっていたのか、想像に難くない。真っ暗な闇の中ずっと藻掻いていた瑞穂の、唯一の希望の光だったのだろう。遠く思いをはせる視線の先は、美しいものを見るかのように穢れがなかった。
ならば、俺は一体何を希望にしていたのだろうかと、無意識に瑞穂と重ね合わせてしまう。いや、俺には瑞穂とは違って、何もなかった。そう思う一方で、うっすらと浮かび上がるのは、やはりカスミの存在だった。あいつもどこかで懸命に生きているのだから、俺も何とか生きていかなければ。そうやって、潰れそうになった時、自分を励ましていたように思う。
「そんな中、父と舞さんの間に子供ができた。母は父の愛なんて一ミリも興味なんてなかったくせに、勇気が生まれた途端、ヒステリックになって『この事実を、週刊誌に売りつけてやる』って言いだした。ゴシップネタも政治家には痛手。失職しかねない。恐れた父は、結局自分の立場を守るために舞さんと一緒に勇気を家から追い出した。それから割とすぐに舞さんは、病気で亡くなってしまった。勇気はまだ赤ちゃんだったけれど、一人になった」
「……愛人がいなくなってしまえば、子供はただの邪魔者だったということか」
瑞穂は、険しい顔をして頷いていた。
ずいぶん物騒な話をまだ子供である勇気の前で明け透けに話して、大丈夫かと危惧したが、当人は全く気にしている素振りはなかった。勇気もまた過酷な環境で育ってきたのか、心を強くしていのかもしれない。動じるどころか、自分の運命をすべて受けて入れているかのような力強い眼差しをしていた。だから、さっきの現場でも勇気ある行動ができのだろう。まさに名前通りの子供だと感心しながら、瑞穂へと視線を戻すと真っすぐ視線が合った。
「そんな最中よ。あなたと会ったのは」
目を細めて静かに解き放つ瑞穂のその一言は、古びた図書館の香りが鮮明に蘇ってくる。
 




