本業
仮眠から目覚め、浮上していく意識。細胞に埋め込まれた呪いを自覚しながら、身を起こす。
腕に巻いた時計は深夜零時を指し示している。そろそろか。
黒のスエットスーツを身に纏い、ショルダーバッグを背負う。そして、俺――八神翔は宵闇の中へ吸い込まれるようにその身を投じた。
肌を刺すような冷たい風の中、高い木々の葉を揺らす。その上に、仄かな光を放つ三日月が目の端を尖らせて俺の見方となり邪魔物が入らないか見張っていた。月と闇を味方につけた俺――八神翔は黒いスエットスーツで全身を包み、ひと並外れた身体能力を駆使して城壁のようにそびえ立つ塀を飛び越えた。
鬱蒼とした木々の緑に視界が奪われる。その隙間に僅かな茶色。そこに手を伸ばし、身体全体でしがみつく。地面に足をついて証拠を残すなんてヘマはしない。枝を掴んで身体を前後に揺らし勢いがついたところで手を離す。身体は宙を舞い、鮮やかに天辺へ。
良好になった視界の先に、日本では異様ともいえる欧州の王宮に模した三階建ての邸宅が現れた。
ここの電気系統は、すべて切り予備電源も電波も妨害済み。故に防犯装置は作動しないようになっているが油断はできない。最新の注意を払いつつ、二階のベランダの手すり目掛けてワイヤー銃を構え発射。狙った場所に寸分狂わず、ワイヤーが巻き付いた。手元の銃からワイヤーを抜き取り、幹へ固定し、フックを引っかけ手袋をした両手でと翔は足元を蹴った。
身体が風を切り、滑る音が闇夜に響く。速度を落とさないままベランダへとたどり着くと、手すりを蹴って勢いを殺しながらベランダ内に忍び込んだ。
豪邸のベランダは広い。身体能力に優れている俺にとっては入ってくれといっているようなものだ。しなやかに着地し、鋭い視線と聴覚で周囲を伺うと手すりの端に座り柔和な笑みを浮かべている天使と目が合った。
こんなことをして、罪悪感はないのか?
そんな問いが聞こえてきそうだ。だが、俺は胸中で即答する。そんなものあるはずがない。こんなに豪華で細微にわたって装飾された天使たちも結局、薄汚い金で作られた堕天使にすぎない。
この邸宅の主は、表向きは今大注目されているベンチャー企業社長としてさわやかな笑顔をマスコミにもさらしている。だが、裏の顔は青少年に薬を売りさばいて大金を稼いでいる悪魔だ。
堕天使たちの視線を跳ね返し、予め鍵に細工しておいたガラス戸を開けて室内に入る。しつこいほど豪華に装飾されている部屋を二つ駆け抜けると、素早く目的の書斎部屋に辿り着いた。その奥に壁と同化している物置扉。開くと金庫が現れた。古典的なダイヤル式。まずシリンダーに液体と粘土のような特殊樹脂を流し込むと数秒で固まって、シリンダー内で鍵の形に成形される。
そして、ダイヤルの上に置いた指先へと神経を集中させた。生まれながらにして、泥棒としての天性の才能を持ち合わせていたといわざるを得ない。長い指先と聴覚がわずかな振動を確実に掴み取る。迷いなく左右に何度もダイヤルを回すとしっかりとした手応えが指先に伝わった。それを確認して、シリンダーを回すと難なく扉は開いていた。
目の前には、札束が数百以上。それに、眩いほどの金塊は五十ほど。そして、それ以上にどす黒くその存在を主張しているものがあった。それは、裏稼業の証拠を裏付ける資料と大量の薬。
硬い金の感触と分厚い札束を背負っていた黒いリュックサックを肩から降ろして金庫の中身を次々に放り込んでいく。ずっしりと重くなっていくリュックの分頭に血は上り、金の冷たさで心臓は冷えていった。
一体、どれだけの人間の人生を壊してきたのか。この邸宅の主がターゲットにしているのはほどんどが身寄りのない青少年だと聞く。その理由は、長く生きる分、金を長くむしり取れるからだそうだ。こんな悪魔生きている価値さえもない。一層のこと殺してやりたいと思う。だが、その衝動に任せてしまっては意味がないのだ。絶対に乗り越えてはいけない境界線。この手を黒く赤く染めてしまえば、こいつらと同じ世界へ堕ちることになる。俺はあくまでも、グレー。絶対に、黒くは染まってはならない。
目当ての金品と、それ以上に俺が必要としている薬を買いにきている青少年の名簿。闇の中にあるわずかな光を頼りに、さらりと目を通す。細胞が無意識に探し求める『カスミ』という文字は見つけられず、嘆息しながら乱暴に名簿と大量の薬と共にすべてリュックへ詰め込む。ここにある薬を盗んだところで、まだ山のように薬は存在するのだろうが、せめて少しでも若者に薬が行き渡らないようにするためだ。
薄汚れた金は、本当に子供を助けたいと思っている穢れのなき心を持つ人へと流し、浄化されるべきだ。そして、清らかな金が流れつく先は、罪なき子供たちへ届いていけばいい。
どうしても、不幸な道を歩まなければならい過酷な人生が少しでも救われるように。
金庫のドアを閉め上辺だけはすべて元に戻し、その場を立ち去った。証拠は一切残さない。
元の場所ベランダに出て、ワイヤーにかかっているフックで元の場所へ降り立つ。
邸宅の塀の外へと出て暗闇と月を味方に、ごくありふれた一般人という名の仮面を被り難なく溶け込んでいた。