その6
9月に入っても夏の暑さは健在であった。
おこめ探偵事務所に一台だけ設置されているエアコンは正にフル稼働で涼しい風を吐き出し続けている。
その風に当たりながら坂路理沙は隣の席で本を読んでいる一色一颯を見て、8月の名古屋駅爆破事件以降少し雰囲気が変わった彼に
「やっぱり、彼女が去って行ったことショックだったのかな」
失恋すると変わるって言うし
「頑張れ、チャンスはまだある!」
とポヤンと考えていた。
そして、その向こうの席でパソコンに向かって何かを打っている七尾友晴に目を向け
「私も一色君のエール送ってる場合じゃないよね」
とふぅと思わずため息を零した。
その8月の事件の時に那須幸一の依頼で益田家から送り込まれた七尾友晴は予定調和の如く名古屋に居付き、おこめ探偵事務所の一員となっていた。
理沙としては何時山陰の益田家から帰還命令が来るかと思うとドキドキするしかなかった。
「どうしよう、役立たずは帰ってこいなんて言われたら」
そう言うことである。
一颯はそんな彼女の様子を横目に
「坂路のやつ何百面相してるんだ?」
ったくどいつもこいつも暇そうだな
「ピーの散歩でも行くか」
と心で呟いた。
ピーは一颯の心を読んだのか
「ワタシ、ホムズ」
イブキー、ラブリー
と羽をバタバタとはためかした。
何時もと変わりのないノンビリとした一日であった。
午前中までは。
リショット
その依頼がおこめ探偵事務所に入ったのは一颯がピーを散歩に連れて行って名古屋城の堀に添って散歩し終わった時であった。
城の周辺の散歩と言えば大した距離ではないと思うかもしれないが意外と外周は広い。
しかも、残暑厳しい9月である。
朝の11時ともなれば気温が30度を超えているのだ。
暑いのである。
一颯は事務所のある雑居ビルを出て歩き始め眩しく降り注ぐ陽光に目を細めた。
8月7日に28歳となったが大きく変わった事と言えば初めて女性に胸を焦がしたことだろう。
『今だけで良いから…抱いて…』
父親である黒崎零里の死を知った夜に黒崎茜から身体を委ねられた。
悲しい。
寂しい。
孤独を感じて人の温もりが欲しかったのだろう。
一颯はふと
「28歳で筆おろしだったんだな」
と呟いた。
考えれば遅い方なのだろう。
色々あり過ぎてそう言う部分が削ぎ落ちていたのかもしれない。
ただ、あれから一ヵ月経った今も時折胸の中を記憶と共に熱い思いが過っていく。
短い期間だったが…それでも自分は彼女に惹かれていたのだろう。
一颯は笑みを浮かべると
「まあ、幸せに暮らしていてくれたら、それでいい」
と独り言を呟き、汗を拭った。




