3話
彼は大国の王らしく多忙だった。執務室から出るのは議会や、視察のときだけ。公の場でしか顔を合わせることがないぐらい、忙しい人だった。
ライナストンに到着してから一週間で結婚式を挙げることになっても、顔を合わせることはほとんどなく、初夜にすら彼は足を運ばなかった。
王妃として過ごしている間も、彼はただの一度も寝所に足を運ぶことはなかった。
その時の私はゆっくり休むような時間が取れないのだと好意的に考えて――諦めていた。
他の女性との間に愛をもうけるまでは。
「お前には悪いと思っている」
記憶の中のオーギュストが淡々と言う。
「だが、愛することは誰にも止められない」
誰も愛することができないと言っていた彼が、傍らに女性をひとり侍らせて言う。
「むろん、俺の妻がお前であることには変わりがない。これまで通り過ごしてもらってかまわない」
これまで通り。
それはお飾りの王妃として過ごせということ。
「子の親としての権威も、お前のものだ」
だけど会えるのは月に一度だけ。ただ、王の子の母という名目だけが与えられる。
「冗談じゃない」
胸に感じた苦しさに、私は吐き捨てるように言う。
目を開けてあたりを見回して、今まで見ていたのは夢なのだと気づく。
前にみた予知とは違う、ただの悪夢にすぎない、ただの夢。
だけどその内容は予知で見たのと同じだった。予知で見たものを悪夢としても見るなんて。
用意されたベッドの上で、ゆっくりと体を持ち上げる。沈みこみそうになるほど柔らかなベッドは、私の記憶にあるものと同じ。
王妃のために用意された部屋。今の私にはふさわしくないからと固辞したかったけれど、今からほかの部屋を手配することはできないと言われ、渋々この部屋を使うしかなかった。
何度ここでオーギュストが来るのを待っただろうか。今日こそは声をかけてくれるかもと、何度期待しただろう。
むなしさだけを感じる部屋なんて、本当は使いたくなかった。
「王妃としての権限も権威もいらないわ」
災害に見舞われてからずっと、役立たずの王女だと言われ続けた。
王女としてのプライドなんてそのときにへし折れたし、立場だけあっても意味がないのだと思い知らされた。
私が欲しいのは、権威でも権限でもない。私を必要として、愛してくれる人が欲しい。
「だけど……私を愛してくれる人なんているのかしら」
オーギュストは無理だ。彼に愛を求めることがどれだけ無駄か、思い知らされている。
だけど王妃になると思われていて、懸想してくれる人なんているだろうか。
王の不興を買うことを理解しながらも愛を貫く――美談に思えそうだけど、やっていることは浮気と同じだ。
オーギュストと愛を誓いあったわけでも、関係を持ったわけでもないけれど、結婚すると目されていることに変わりはない。
「浮気上等な相手も、それはそれでいやね」
私が愛を得るためには、まず先にオーギュストが愛を得なければいけない。
そしてお役ごめんになってようやく、私は私を愛してくれる人が探せる。
「手に職でもつけようかしら」
問題は、愛してくれる人を見つけるまでをどう食いつなぐか。
母国に帰ったとしても、誰も歓迎してくれないだろう。むしろ追い出される気しかしない。そうなると、ほかのところで生きていくほかない。
ライナストンでもどこでも構わないけれど、生きるためには手段が必要だ。食べるのにも寝るのにも資金が必要になり、資金を得るための何かが必要になる。
「準備を進めろと言われたのは……ある意味よかったのかもしれないわね」
結婚の準備を進めるためにあちこち出歩いても、それほど不自然には見えないはず。それにこの国を知るという大義名分もある。
とはいえ、大っぴらに仕事を探せば怪しまれるのは間違いないから、こっそり調べる必要はあるけれど。
ふう、と小さく息を吐いて、ベッドの上に体を横たえる。
今度は悪夢を見ないことを願って、ゆっくりと目をつむった。
――そして朝を迎え。
夢の中でも私の側仕えをしてくれていた侍女が着付けを手伝ってくれている。
だけど彼女との付き合いは、そう長くはならない。王妃の侍女にふさわしい教育を受けている彼女は一年後、オーギュストが愛する人の侍女になったから。
「手伝ってくれてありがとう」
「いえ、これが私のお役目ですので」
私が王妃になってもならなくても、彼女とは短い付き合いになる。
そうと知っているからこそ、どんな態度をとればいいのか悩んでしまう。
「ご用命がございましたらいつでもお申し付けくださいませ」
「……なら、厨房を見せてもらっても構いませんか?」
「厨房、ですか……?」
「これからお世話になるのだから挨拶をしておきたいと思ったもので……お願いできますか?」
一瞬だけ眉を顰められたけど、彼女はすぐに真面目な顔になり「かしこまりました」と頷いた。
厨房の人たちはお飾りの王妃である私においしい食事を用意してくれた。オーギュストに愛する人ができる前も、できた後も。
偽の国母になるとわかっていただろうに、いつでも目と舌を楽しませてくれる食事を作ってくれていた。
王妃ではない今だからこそ――王妃の作法に従う必要がない今だからこそ、夢の中ではできなかったお礼を、彼らに伝えたかった。
厨房はちょうど朝食の準備を終えたところのようで、慌ただしさはあまりない。
使い終わった調理器具を洗ったり、昼食の仕込みをしている人がちらほらといる程度。
「王妃様……! ではなく、ええと……」
ひょっこりと顔を見せた私に、その中でも一番年若い青年が目を丸くした。
どう呼べばいいか悩んでいるのだろう。きょろきょろと動く目は、私の隣に立つ侍女に助けを求めているようだ。
オーギュストに嫁いでいない私の立場は、リンエルからの貴賓ということになっている。彼らにとってはいつかは王妃になる相手でも、今はそうではない。
「リンエルより参りました、シェリルと申します。今後ともお世話になりますので、よろしくお願いいたします」
「いえ、こちらこそ、こんなところまで足を運んでいただき、ありがとうございます」
淑女の礼をもって挨拶すると、青年もコック帽を外し頭を下げた。それからうかがうように「シェリル様、とお呼びすればよろしいでしょうか?」と聞かれたので、頷いて返す。
そのあとも挨拶して回ったのだけれど、みな一様に緊張した面持ちをしていた。
言葉遣いが大丈夫か、礼儀を逸していないか、不安そうに侍女の様子をうかがっている。
「そうかしこまらないでください。私はただ、あなた方に感謝を伝えたかったのです」
「感謝、ですか……?」
「はい。リンエルは災害による飢餓に襲われたことがあります。ライナストンからの支援により大事にはいたりませんでしたが、その経験から食べることの大切さを忘れられないのです。ですので……こうして私たちが食べるものを作ってくださるあなた方に感謝を伝えたくてまいりました」
ありがとうございますと言ってから、厨房全体を見回す。
ここで働いている人のほとんどはどこかしらで修業し、貴族からの紹介状を得た人たちだ。
貴族出身のひとはほとんどいない。
「……お時間を取らせてしまいましたね。どうぞこれからもよろしくお願いいたします」
少し考えれば、わかることだった。
貴族と多少なりとも縁がある人たちとはいえ、彼らが平民の出であることに変わりない。次期王妃になるかもしれない相手が現れたら動揺するに決まっている。
お礼を言うはずが、逆に気を遣わせてしまったことが申し訳なくて、頭を下げてから厨房を出る。
隣に控えている侍女がなんとも言えない顔をしているのは、王族がやすやすと頭を下げるべきではないと思っているからだろう。
だけど私はライナストンの王妃ではなく、ただの小国の姫君だ。しかも役立たずの。いくら頭を下げたところで、減るものはない。