2話
ガタガタと揺れを感じて、ゆっくりと目を開ける。
まず視界に入ったのは、白く塗られた壁だった。それから、赤い布で覆われた背もたれ。
「ここは……?」
つい先ほど、自らの人生に終止符を打ったはず。それなのに、視界に移る光景や手から伝わる感触は、とてもそうとは思えない。
横を見ると窓があり、その向こうでは青い空と色とりどりの家屋が流れている。
そのどれもが、見覚えのあるものばかり。
「一命をとりとめた……という感じではないわよね」
私がいるのは、どう考えても馬車の中だ。
危険な状態にある人間を馬車に乗せたりしないだろう。しかもひとりで。
そうなると、私がいるのは――
「……今さら……」
ふ、と自嘲する。
私の母国であるリンエルは特産も何もない小さな国だけれど、ただひとつだけ、他の国にはないものがあった。
それは、王家の人間にだけ伝わる不思議な力。
人生に一度だけ、危機的状況に陥る夢を見るというもの。
正確には、危機的状況を予知して、それを夢として見ることができる。だからリンエルは小さいながらも存続し続けた。
だけど私だけが、その力を発現しなかった。
国が傾きかねないほどの災害に襲われたのに、私はいつもと変わらない夢ばかり見ていた。もしも予知していたら備えることができたのにと役立たずのレッテルを張られ、求められるまま嫁に出された。
家族はみんな喜んでいた――役立たずでも、見初められることはできた、と。
だから私はお飾りの王妃だろうと、他の女性を愛したとしても、受け入れるほかなかった。
逃げ出しても家族は受け入れてくれないとわかっていたから。いや、家族だけではない。役立たずの姫君を歓迎する人は、リンエルにはいない。
それなのに今さら、予知をするだなんて。
「これから……どうしようかしら」
今乗っている馬車は、ライナストン城に向かうものだ。流れる街並みは城までのもの。
つまり私はこれから、オーギュストの妻になる。
誰にも愛されない、お飾りの王妃になる。
「絶対にいや……愛されない妻になんて、絶対にならない」
リンエル王家に備わる予知は回避できないものではない。むしろ、回避するために見るようなものだ。
さすがに天変地異はどうにもできないけれど、被害を最小限に抑えることはできる。人災であれば、元を絶つこともできる。
父も兄も姉も――そうして、リンエルを護ってきた。
だから、私が見た夢もどうにかできるはずだ。
愛されない妻を回避する手段がどこかにあるはず。
こぶしを握り、絶対に回避してみせると決意したところで馬車が止まった。
御者席にいた騎士が恭しく扉を開け、私に外に出るように促してくる。
小さく息を吸い、緊張が騎士に伝わらないように注意しながら馬車を降りて、目の前に聳え立つ城を見上げた。
壁も行き交う人も、すべて覚えている。
これからのことすべてが私の頭の中にある。
「シェリル様、遠路はるばるお越しいただきありがとうございます。陛下がお待ちですので、どうぞこちらに」
出迎えてくれた家臣も、案内される道のりも、夢の中で見たまま。
「ご苦労だった」
そして案内された玉座の間で、この場所の主が腰掛けながら言う言葉も記憶の通り。
燃えるように赤い髪に、赤い瞳。見慣れた風貌も、夢で見たのと同じもの。
「お気遣い感謝いたします」
彼が愛する人はまだこの城にいない。一年後、侍女見習いとしてやってきて、彼との間に愛を育み、子を生す。
「この結婚が政略であることは君もわかっているだろう」
聞き慣れた低い声。告げられたのは、夢で聞いたのと同じ言葉。
「俺が君を――いや、誰かを愛することはない。だが王妃として尊重はしよう」
その言葉が嘘だということを、今の私はわかっている。
だからここで私が返す言葉は、一つだけ。
「政略であることは存じております。ですがこの結婚、一年ほど延期してくださいませんか?」
延期を申し出られるとは夢にも思っていなかったのだろう。オーギュストの目が驚いたように瞬いている。
「そんなことがまかり通るわけがないだろう」
だけどすぐに気を取り直し、眉間に皺を刻んだ。
あっさりと認めてくれるはずがないことはわかっている。こちらは支援を受けた身で、普通に考えたら何かを願えるような立場ではない。
だけど、私はオーギュストがお飾りの王妃をほしがっていることを知っている。誰も愛さないと嘘をついてまで結婚したい理由が彼にはある。
私が頑なに拒めば、無理強いはできないはず。
「陛下にいただいたご恩を忘れたわけではありません。ですが、あまりにも急なことだったもので……時間をいただきたいのです」
真剣な表情でオーギュストを見つめる。もしもここで視線をそらしたり、少しでもおかしな表情をすれば、何か企んでいると警戒されてしまう。
「お恥ずかしながら、私はこれまで母国から出たことがありません。ですので、ライナストン国のこともあまり詳しくはなく……できることなら、王妃として迎えられるよりも先に、この国のことを知りたいと思っていたのです。いずれ陛下の隣に立つ身として……この国を共に支えられる王妃となってから迎え入れていただきたいと思っているのです」
離縁が認められていないライナストンで一度でも結婚してしまえば、逃げることはできなくなる。
だからせめて一年――オーギュストが愛する人と出会うまで、時間を稼ぎたい。
そうすればオーギュストは愛する人と結婚できて、私もお飾りの王妃にならなくて済む。生まれてくる子供も他人を母と仰ぐ必要もなくなり、誰も困らない大団円を迎えることができる。
「ずいぶんと、志が高いものだな」
「支援だけでなく迎え入れていただけたのですから、温情に甘んじることなく尽くしたいと思っております。……一年ほどお時間をいただければ、陛下は自身の隣に立つにふさわしい王妃を迎えられるとお約束いたします。それが、受けた恩義に報いることになると考えております」
嘘はついていない。
オーギュストが愛した女性は伯爵家の娘だった。由緒正しき家柄で、伯爵家当主は家臣として陛下のそばに仕えているほどの人だ。
私という障害がなければ、オーギュストは迷わず彼女を王妃として迎えていただろう。だけど、なんのうまみもない妻を迎えたせいで、彼女と結婚することができなくなった。
障害がなければ誰の反対もなく、オーギュストは彼女と結婚することができる。誰の目もはばかることなく彼女と愛を紡ぎあい、二人の手で子供を抱き上げることができる。
だからこれは私のためだけの提案ではない。オーギュストのためでもあるのだ。
「……なるほど。ならば、いいだろう」
そんな私の真剣さが伝わったのだろう。
オーギュストは少し考えるようにしてから、大仰にうなずいた。
「だが条件がある。一年後には式が開けるよう、準備は進めておくように」
「……かしこまりました」
少し悩んだけれど、ここで断ればオーギュストに不信感を抱かせてしまう。絶対に使われないものを準備するのは心苦しいから、せめて私ではなく彼の愛する人に似合うものを用意しよう。
幸い、彼女の顔は克明に覚えている。金色の巻き毛と青い瞳の女性で、オーギュストの隣でほころぶように笑っていた。
茶色い髪と茶色い瞳の私とは違い、笑うだけで華やぐほどに可愛らしい人だった。
「式の準備、つつがなく進めさせていただきます」
首を垂れて感謝の意を示す私に、オーギュストは部屋に向かい休むように告げた。
「部屋の用意はすんでいるから、今日はもう休め。長旅で疲れただろう」
一見すると、こちらを気遣ってくれているように感じてしまう言葉で。
だけどその真意はよくわかっている。彼はただ、私に時間を割きたくないだけだ。