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7.さよならだけが人生だ

「翌朝早く、目が覚めてな。4時ごろじゃったか、なんか胸騒ぎがしてな。妻の方を見ると、横を向いて、眠っとる風だった。じゃが、わしにはわかった。華の周りの空気が、動いていないことが」

「周りの空気……」

「おい、おい、とわしは声をかけた。おい、華。妻は揺すられるままだった。手を握ると、冷たかった。

もうわかった。わしには瞬時に、わかっておった。華は、息をしておらんかった」


「そんな……」


私は両手で口をふさいだ。


「救急車が来るまで、わしはな、80のこの体で、胸を押して懸命に心臓マッサージをしとった。

手の下のあばらが折れそうで、可愛そうになってな。ふと妻の足を見ると、あのとき、狸を跳ねたとき怪我させた部分と同じ場所に、赤い痣が広がり始めとった。

わしは呼びかけ続けた。華、おい。おいていかないでくれ。わしが悪かった、

いっしょに生きましょうと言ってくれたじゃろうが。

おい、頼む、もう置いていかないでくれ、わしを一人にせんでくれと」


Tさんの落ちくぼんだ目に、涙が光った。次に聞いた言葉は、しかし、にじみかけた私の涙を止めるほどの意外なものだった。


「当たり前じゃ。当たり前のことじゃった。狸に、ワクチンなどという人間用の毒物を注射すれば、どうなるか」


「……」 


「病院に運ばれても、華は息を吹き返さんかった。

何もかも終えて、家に戻ると、いつも華の座っておった座椅子の正面に、ハナミズキがあってな。わしが飲み歩いても悲しそうにしているだけで何も文句は言わんじゃった、ただあの花を見て待っていたのじゃろうと思うた。古い砂壁に、うっすらと、華の影が残っとるんじゃ。いや、西日を受ける部屋じゃから、華の周りの壁が日に焼けたんじゃろう、じゃがわしにとっては華の影じゃ」

「……」

「ここであんたに会えた時、わしは、心から嬉しかったぞ。もう、騙すのはやめるんじゃな。わしには、わかっておる」


そしてついと手を伸ばすと、私の頭のてっぺんから何かをつまみ上げた。

木の葉だった。

あ、窓から顔を出していた時、飛んできた……


「もう、化けの皮ははがれとる。のう?」


「あの、いえ、これは、さっき窓を開けていた時の葉っぱで、ですね……」


「冗談じゃ」


そのとき、ナースセンターからさっきの看護師さんが現れ、声をかけてきた。


「Tさん、もういいでしょう。お部屋に戻って、点滴をつながないと。じき昼食ですし」

「ここの飯は何かと味付けが濃すぎる。不味くて食えるかい」

「それがお嫌ならもう一つ点滴を増やすことになりますよ」

「わかったわかった」


素直に車椅子に乗ると、Tさんはこちらを向いて、言った。


「あんた、いつまでここにおる」

「予定では、あさって退院です。今日の血液検査の結果次第ですが」

「あさってか。誰か迎えに来る者はおるのか」

「夫が、……来ます」


Tさんは上を向くと、続けた。


「もう、どれぐらい酒を飲んでおらんかのう。全身が、かさかさじゃ。わしはもうじき、死ぬ。これだけ持病のあったわしが生きていて、華は死んだ。わしの代わりに死んだ。酒の飲み過ぎじゃない。酒が切れたことで、わしという機関は止まるんじゃ。酒がわしを生かしとった。わしは、死なねばいかん」

「そんなことおっしゃらないでください。せめて、奥様の分まで……」

「下らんことを言いなさんな。人は、他人の分まで生きられやせん。人が生きられるのは自分の人生だけじゃ。他人の人生までは、背負えんのじゃ」

そして宙を向いたまま、歌うように言った。


 この盃を受けてくれ 

 どうぞなみなみつがしておくれ

 花に嵐のたとえもあるさ

 さよならだけが人生だ


聞いたことがある。

確か、干武陵の、漢詩…… じゃなくて、井伏鱒二だっけ?


背を向けて手をあげると、


「旦那さんと、仲良くな」


そう言い置いて、Tさんと看護師さんは、車椅子で去って行った。



その夜はひときわ風が強く、窓がガタガタ鳴って、木の葉のこすれる音がざざざざ、と聞こえ続けていた。

真夜中を過ぎても、眠気はさっぱりやってこなかった。

パニックは収まっていたが、何か背中がぞわぞわするような嫌な心持がして、今自分がいるのが病院かあの世かわからなくなるような、今がいつで自分が誰かわからなくなるような、混乱した不安な心境のただなかにいた。

ああ、もしかしてTさんは、私に会うまでこんな世界の中にいたのかもしれない……

私はそれを今、味わっているのかもしれない。


自動販売機へ行こう。そして、水を飲もう。

もはや私にとってあの自動販売機は、道も定かでない夜の森の中の迷路の、たった一つの泉のようなものになっているように思われた。

何かに取りつかれたように立ち上がり、私は混乱した気持ちのまま、そっと廊下に出た。

すると、夜勤でワゴンを押して回っている看護師さんに声をかけられた。


「眠れませんか」

「はい、あの、気晴らしにお水でも買いに行こうかと思って」

看護師さんの胸のナースコールがピーピー鳴りだした。マイクをとると、「はいNさん、どうしました? おトイレですか? 今行きますからねー」と言いながら、ワゴンを押して今来た廊下を戻っていった。


しんと静まった夜中の廊下を歩く。

ナースセンターの灯の斜め前に、自動販売機。私の、いのちの泉。

でるものは出たので、ブラックコーヒーではなく、きれいなお水を買おう。

もう私自身に、憂いはないはずだ。たとえ今夜明日と眠れなくても、もう、死にはしない。

あさってになれば、夫の顔が見られる。

水のボトルをぶら下げて薄暗い廊下を部屋に向かったその時。

信じられないものが視界に飛び込んできた。


私の隣の部屋、つまりTさんの個室のドアがかすかに開いていて、(さっきは確か閉まっていた)

そこへ向けて、四つ足の、犬ぐらいの大きさのころりとした動物が、とことこと歩いていくのだ。

私は思わず目をこすった。


狸のような影は、開いたドアから部屋の中にすっと入っていった。

私はすり足ですすすとTさんの部屋に近づき、小さく開けられたドアから、そっと中を覗いてみた。

豆電球と足下照明だけついた薄暗い個室の中のどこにも、狸はいなかった。


その代わり、ベッドの足元の丸椅子に、こちらに背を向けて、灰色のワンピースの女性が座っていた。いや、そこに座っているはずなのに、輪郭がはっきりしない。

短髪の、小太りの……


……華さん?


Tさんは、静かに眠っている。


私はそうっと部屋を離れ、出来るだけ音をたてないように、自分の個室のドアを閉めた。

何か得体のしれない予感に全身を震わせながら。

あれは、妹さん?

いや、今は、面会はできないはず……


私は何を見たのだろう。


そのまままんじりともせず、風の音を聞きながら、二時間ほど経ったろうか。


隣の部屋からピーピーピーと耳障りな音がし始めた。

血中酸素濃度の低下を知らせる音……

続いて、バタバタと部屋を出入りする複数の足音。

ドアをあけ放った隣の部屋から、声が聞こえる。

 

 ナースコールが鳴ったのでスピーカーからお声をかけたんですがお答えがなくて、来てみたら……

 Tさん!お返事してください! 聞こえますかTさん? 聞こえたら手を握ってください!

 血圧測れません、脈拍も……

 B先生を呼んで! 早く!


分かっていたような気がする。

ガラガラとストレッチャーでTさんの体はどこかに運ばれていった。


……さよならだけが、人生だ。


ここであんたに会えた時、わしは心から嬉しかったぞ。


病葉を ふたり蹴上げる 夢の森……



私はしばらく呆然とした後、再び戻ってきた静寂の中で、ベッドの上に起き上がり、持ち込んだ本に挟んであった、あのぺたんこの折り鶴を取り出し、震える手で折り始めた。


折り上げると、鶴の体の部分に、ふっと息を吹き込んだ。

ぽんと膨れて、鶴は両羽を伸ばし、テーブルの上で窓からの風に揺れた。

右に、左に。

右に、左に。


Tさんは出合えたろうか。華さんの手をとれただろうか。

待っておったぞ、と言えただろうか。夢の中で、抱きあえたろうか。


そうだったらいい。

そうだったら、いい。


一睡もできないまま、夜が明けた。

明るくなっていく空をバックに、大木のシルエットが、美しかった。

無人となった隣の部屋は、ただ、しんとしていた。



「おはようございます」S看護師さんがいつものように入ってきた。

「お通じ出たようで、よかったですね」

テーブルの上には、食事の食べ具合いを記録する紙と、朝昼晩の排泄を、大と小に分けて記録する紙があるのだ。


私は少し逡巡した後、聞いてみた。


「あの、今日はお隣、静かですね。夜遅くに、バタバタしていたけれど……」


Sさんは顔を曇らせて、言った。


「残念なことですが、Tさんは、深夜に容体が急変して、あの、そのまま……」


やっぱり、と思った。予感はしていたので、それほどの衝撃はなかった。


「どなたか、身内の方は来られるのですか」

「妹さんが、今は北海道にお住まいとかで、今日の便でこちらにこられます」

当たり前だが、昨日見た人影は、やはり妹さんではなかった。

「これ、個人情報になるでしょうか。あの、Tさんは、どちらのご出身だったんでしょう」

「確か、お話の中で、広島とおっしゃっていたと思いますよ」

ああやっぱり。

父が岡山出身なので、あの方言には聞き覚えと懐かしさがあったのだ。

するとSさんは、顔を幾分近づけて言った。


「実はね、噂になっていたんですよ。あのTさん、Iさんとお話しするようになってから急にボケが治り始めたみたいねって」

「あら……」

「それまでは、いつも怒っていたし、言ってることが支離滅裂でしたからね。会話は、大事ですよ。個室に入ると、かえって話し相手がいなくてボケちゃうかた、多いんです。Tさんの頭の歯車が、おしゃべりすることで回り始めたみたいですね」

「そうだったら、……お役に立てて、嬉しいです」

「Tさんも、最後にお友達ができて、嬉しかったと思いますよ」


最後のお友達……


私たちは、友達だったのだろうか。

あの自動販売機という泉のほとりで、水を求めて巡り合った、孤独な老人と病んだ私という魂……


ああ。

私はたくさん、幻を見過ぎた。


元々壊れた頭だ、私は多分、頭の中に物語を作り上げていたのだろう。



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