6.鶴の行方
その夜、ブラックコーヒー二本を立て続けに飲んでトイレで頑張ってみたが、下剤を飲んだにもかかわらず、お腹はびくともしなかった。おまけに、カフェインに邪魔されて、看護師さんに言われた通り、眠気はさっぱりやってこなかった。
隣からの咳払いもうめき声も、久しく聞こえてこないというのに。
翌日、朝食を「八分ほど」食べてご馳走様にし、部屋の中で「腰回し体操」をしていると、「あら、お元気そうですね」と言いながらS看護師が入ってきた。
「お水は、たくさん飲んでます?」
「はい、多めに飲んでます。でも、肝心のお通じは、まだ……」
「うーん、そうですか。じゃあ夜からは、もう少し強力な下剤をお出ししましょう」
「お願いします!」
「廊下もよく歩いてらっしゃいますね」
「ええまあ、お水を買いに行くのと、狭いところが苦手なものでつい出歩きたくなって」
「いいことですよ。それだけ動けているなら、もう加圧タイツはいりませんね。脱ぎましょうね」
やった。やっとあの暑苦しいタイツからも、解放された。
「ところで、お隣、静かになりましたね」ちょっと気になっていたので、様子を聞いてみた。
「ああTさんね、騒ぐのをやめたら入浴を許可してあげます、と言ったら、急に大人しくなったんですよ。何しろ文句ばかり言って暴れるもので入浴も延び延びになっていたんです。部屋の鏡を見たりして、髭も自分で剃っていいか、とか言い出して、なんだかおしゃれ心に目覚めたみたいです」
うーむ。いいことやら、悪いことやら。
「お風呂、いいですね。私も早く入りたいです」
「今日の午後、I先生がいらっしゃいますよ。そのとき先生の判断でドレーンチューブと手の点滴が撤去されたら、もう完全に自由の身ですね。そしたら、お風呂の予約をとりましょう。お風呂の場所は、ドアの地図に書いてあります。エレベーターの右横の通路を入って行って、突き当りです。あとでご案内しますね」
心待ちにしていた、お風呂! 私はワクワクして先生の来報を待った。
先生は私の傷跡を診察すると、あの口癖の「順調、順調」を繰り返して笑い、
「よく歩いてるようだね。もうドレーンも点滴二本もいいでしょう。抜いちゃいましょうね」と言ってくれた。
やった!ついに、私の体から最後の三本が抜かれた。
ドレーンチューブの跡は、どてっぱらの穴に、これでいいのかと心配になるぐらいぶ厚いシールをペタッと貼って、それでおしまいだった。
「ありがとうございました!」
先生が出て行くと、私は浮き上がるような気持ちで、窓辺の応接セットの方に行き、窓を開けた。と言っても、15センチぐらいしか開かないようになっている。
それでも、街の音と外の風が入ってきた。私は鼻を突き出して、街の、緑の並木の匂いを懸命に嗅いだ。
ああ、四肢がどこにもつながれていないって、なんという解放感だろう。
私は応接セットの椅子に座って、スマホのカレンダーを見た。
もう少し、あと少し。14日に入院して15日に手術して、今日が18日で21日が退院予定だから、あと少しの辛抱だ。
それでも、毎日の血圧は異常に高く、脈拍は100を超え、血糖値も140あたりで定着していた。
もういい、数字なんてどうでもいい。あとは出るものに出てもらって、何が何でも浣腸を回避するだけだ。
わたしは買い置いたブラックコーヒーを一気飲みすると、だんまりを決め込んでいるお腹にカツを入れるため、点滴台を引きずらないでいい自由な体で、トイレに入った。
いきめるだけいきんでも、その日もまた、傷を痛めただけで徒労に終わった。
翌朝、ベッドで採血があった。
いつも思うのだが、針の痛みより、最初に腕に巻くゴムのチューブが痛い。
そして、そして。
ついに入浴の許可が出た!
S看護師さんが、午前9時半に予約入れときましたから、ちょっとお風呂への道を案内しましょう、と言ってくれたのだ。
遂にこの汗まみれの体とおさらばできる時が来た。私はウキウキと、Sさんについてお風呂場への結構長い道を歩いた。
自動販売機を過ぎて、エレベーターの横の通路を入って、畳んだ車椅子の並んでいる薄暗い廊下を進み、正面の両開きの扉が、お風呂。
開けてみると、脱衣所もシャワールームも思ったより広い。お風呂イスもちゃんと取っ手がついている。でも、浴槽は、体が不自由な人のための、特殊浴槽がポツンとあるだけだった。
「入浴時間は30分ですからね」
「はい」
さて。私はこの30分を、守れたかというと。
結論から言って、守れなかった。
顔も髪も全身も泡だらけにして、仰向けになって浴びるシャワーの心地よさにうっとりし、鏡に映る傷だらけの醜いお腹にげっそりし、けれどお湯の沁みない回復の早さに感激して、ついつい時間を超過してしまったのだ。
しまった、時間かけすぎたかな、と思いつつ新しいバスタオルで髪と身体を拭き、どうにかパジャマを着終わったところで、
ドンドン!
と、洗面所の扉を叩かれた。
洗面所の時計を見ると、10時7分。しまった、次の人に迷惑をかけてしまった。
「今出ます、すみませーん」と叫ぶ。
「ええ加減にせんか、どこのバカが入っとるんじゃ!非常識もんが!」
うわ、これは間違いなくTさんの声だ。
あわてて洗面所の扉を開けると、知らない看護師さんが立って、Tさんの車椅子を押していた。
「遅くなってすみません!」
「よかったですねTさん、やっと入れますよ」と看護師さん。
「……あんたか」
とがった声を引っ込めて、Tさんは言った。
「もうええ、こっちも40分ほど入らせてもらえばいいだけじゃ」
「ええ、次の回は空欄になってましたから、ゆっくり入れますよ」看護師さんが答えた。
「あの、お待たせして、本当にごめんなさいね……」
私が重ねて言うと、Tさんは黙って風呂場の方を向いた。そして、静かに言った。
「……どんな塩梅だね」
「あの、私浴槽には入ってないので、お湯加減はちょっと」
「寝たきりの後で湯を浴びると、疲れるじゃろう」
「ええ、かなり体力を持っていかれました。でも、生き返ったように気持ちがいいですよ!」
「そうか」
かすかにほほ笑んだ顔をこちらに向けると、そのまま車椅子ごと、看護師さんに押されてTさんはお風呂場に消えた。
何故かわからないけど、力が弱っているように見えた。なんとなく影が薄いのだ。
入浴は確かに消耗するものだけど、今入って大丈夫かな、とちらと思った。
洗髪台の並んでいるコーナーの隅に籠があり、そこにドライヤーが入っていた。
個室に戻ると窓際の応接セットに座り、借りてきたドライヤーで髪を乾かしながら、15センチほどの窓を開ける。
今日は風が強く、名も知らぬ背の高い木の葉が風にさらわれて、時々こちらに飛んでくる。
あとは出るものが出てくれればいいんだけど。昨夜飲んだ、強力だという下剤もお腹を動かしてはくれない。もう、六日も貯め込んだままだ。
そのうち、なぜかわからないが胸の動悸が早くなってきた。
パニックの大発作が起きる時の前兆だ。歯の根がガチガチ震えてくる。
ああ、こんなバカな。
手術は成功して、熱も下がり点滴針も全部抜けて、睡眠剤も安定剤も飲めて、お風呂にも入って、退院も目の前だ。それなのに、今、なぜ。
ああ、今日の発作は酷い、もうダメだ。
私は震える手で、隠していたお宝袋をついに開けた。実は家から隠し持ってきていた強力な精神安定剤があるのだ。何錠か口に放り込んで水を飲んだ。そして震える体を抱きしめて、壁につかまり、頭をガンガンと自分で叩いた。その時、下腹が急に痛み出し、お腹が激しく鳴った。
あ、もしかしてこれ。
ついに来たかもしれない。
私は急いでトイレに入った。そして全身の力を振り絞った。傷は痛むが、ここでひるんだら負けだ。
そして私は、遂に、戦いに勝った。
要するに、パニック発作の恐怖の予感にビビり散らかしてるついでに下腹が動揺し、ため込んでいたこの『石』を遂に吐き出したのだ。
フンづまってから六日目だった。
よし、浣腸の恐怖からは逃れることができた。
あとは残りを出し切るためにも、水をガンガン飲むだけだ。
私は小銭をもって部屋を出た。いつもの、あの自動販売機目指して。
点滴も何も引きずらずに歩く廊下は、何か不思議な気がする。よく見れば、点滴を引きずりながらよろよろと歩行訓練をしている年配の女性が何人かいる。ほんの何日か前の、私だ。今の私は自由の身。それでも、ゆっくり、ゆっくり、傷に響かないように歩く。
私は病巣を取った、私は点滴をすべて外した、ハラのイチモツも解放した、私は自由だ、と自分に言い聞かせながら、自動販売機の水を買う。そしてソファに座り、水を飲む。じきにここからも出られる、落ち着け、落ち着け自分。
やがて薬が効いて気持ちが安らいできたころ、エレベーターの横の通路から、車椅子の音が聞こえてきた。
看護師さんに椅子を押されているお風呂上がりのTさんの姿が現れた。
Tさんはすぐに私に目を止めた、あ、そういえば、と思い、私は足元をそっと見た。どうやら今日は、折り鶴はないようだった。
「喉が渇いた」Tさんは看護師さんに言った。
「じゃあそこの自動販売機でお水を買いましょう。小銭は持っていらっしゃいます?」
「あんたが貸してくれ」
「私は持っていませんし、そういう貸し借りは禁止されているんですよ」看護師さんが困ったように言う。
「たかが100円で貸し借りもあるか。そこのナースセンターに小銭ぐらいあるじゃろう!」
「お部屋に洗面台があるでしょう、あそこのお水も飲めますよ」
「あんな不味い水飲めるか!」
また無茶を言っている。私は観念して声をかけた。
「私でよければお水御馳走しましょう」
「おお」Tさんは嬉しそうに笑った。
「あら本当にいいんですか。じゃあTさん、後でお金返しましょうね、お水買ったらお部屋まで送りましょう。点滴もつけ直さないと」
「こんな車椅子自分で回せるわ、たかが昨日ベッドに足をぶつけただけじゃ、正直もういらん、こんなもの」
「Tさん、そんなわがまま言わないで……」
「あの、お部屋お隣なんですよ。お水飲んだら私がお部屋までお送りしますから」
「あら、仲良しさんができたんですね、Tさん」
「そういう余計なことは言わんでええ!」
「じゃあ、すぐそこがナースセンターですから、お部屋に帰りたくなったら看護師の誰かにお声かけてくださいね」
「自分で帰れると言っとるじゃろう、聞かん娘じゃ」
最後まで悪態つきっぱなしの相変わらずのTさんだった。
私が立ってお水を買おうとすると、
「今日は日本茶がええ」
珍しく注文が入った。無理もない、この病院は、どういう訳か食事時にお茶が出ないのだ。
お茶を手渡しながら、
「さっぱりしましたか」と石鹸の香りのするTさんに聞くと、
「さっぱりはしたが、あんた、疲れるわ湯には当たるわでくたくたじゃ」声がいつもより弱弱しかった。
「あら、のぼせちゃいましたか」
「もう出る、言うても、ちゃんと温まらないと、とあの女が言うこと聞きゃせん。真夏じゃぞ、今。何もせんでも暖かいわ」
「どのぐらい入ってたんですか」
「ちゃんと十、数えたわ」
私は噴出した。Tさんはマスクを顎までずらすと、喉を鳴らして、冷たいお茶を飲んだ。
やはりこの人と他愛もないことを話していると、すうっと落ち着いてゆく自分を感じる。不思議なことだ。
ボトルを口から離すと、濡れた口を拭きながらTさんが呟いた。
「鶴がな」
私はどきりとした。
「鶴がな、部屋の机の上に置いといた折り鶴がな、ゴミと間違えられて捨てられたのか、どこにもありゃせんでな」
「お部屋の窓は開けてありましたか」私はとぼけた。
「空気がよどんどるんで、いつも開けておったわ」
「では、風に乗って飛んでいったかもしれませんね。なにしろ、鶴ですから」
多分床に落ちてお掃除のおばさんにゴミと一緒に捨てられて、ゴミ袋から零れ落ちてあの椅子の下にあったのだろうと思いながら、私は言った。
「いつなくなったんですか」
「昨日じゃ」
「では今頃、好きな空を飛んでいるでしょう。大事な鶴でしたか」
「まあ、ええ。たかが折り鶴じゃ。どこかの空の下にいるなら、それもええ」
どうしよう。手元にあることを言うべきか。私が迷っていると、Tさんは言った。
「鶴の恩返し、というのが、あったな」
「昔話ですね」
しばらく黙った後、Tさんは言った。
「妻の名も、ハナというた。華道の、華という字じゃ」
「あら、狸さんと同じ。偶然ですね」
「わしはな」
マスクを口元に戻すと質問には答えず、Tさんは言った。
「入院することが決まった時、あれじゃ、あのワクチンを、一回も打っておらんでな」
「コロナワクチンですね」
「死ぬときゃ死ぬ。それが癌でもコロナでも同じじゃ、と思うとった。だが注射で人工的に毒を入れられるのはまっぴらごめんじゃ」
「そういう人、多いですよね」
「じゃが、病院側は一回もワクチンを受けたことがない患者は、入院の許可は出せないと、こう言うんじゃ」
「それは、そうでしょうね。それで、奥様はなんと……」
「あれも一度も打ったことがないと言うとった。じゃがわしに、病院には入院しなくてはいけません、と繰り返してな。一緒にワクチンを受けましょうと、こう言うんじゃ。あなたには持病があります、コロナにかかったら命ごと持っていかれますと。是非受けてください、一緒に長生きしましょう。もしそれで死ぬならいっしょに死にましょうと」
「まあ」
「ワクチンごときで死にゃせん、阿呆言うな、と言ったら、笑いながら、そうです、一回ぐらいのワクチンで死にはしませんよと」
「それで受けることにしたんですか」
「あの目で見つめられるとのう。わしゃ抵抗できんのじゃ。私はあなたに生きてほしいから言ってるんです、生きてくださいと、のう。そう繰り返されて、わしゃ折れた」
「愛されていたんですねえ……」
「一緒に接種会場に行って、一緒に受けた。注射のあとがちっと腫れて痛かったぐらいじゃ。その場で様子を見る10分の間、手をつないどった」
私は思わず微笑みながら聞いた。
「それで、無事に終わったんですね」
またTさんは黙り込んだ。
「その日の夕飯も普通に食べて、華は風呂には入らんでな。ちょっと胸が痛いので、早めに寝ますと、それだけ言って、布団に入った」
「……」
嫌な予感がして、私は相槌を切った。
Tさんは膝の上で両手を握りしめた。