5.ブラックコーヒーと折り鶴
その日は、なぜか、咳払いが聞こえてこなかった。
夕方、D看護師さんが来て、「一度点滴外してお着換えして、その間に体を清拭しましょう」と言ってくれた。
手術後三日目にして、やっと手術着が脱げる。
パジャマや紙パンツ、タオル類はすべてレンタルで頼んであったので、新品が箪笥の中に揃っていた。
手の甲と腕の内側に刺さっていた点滴針をいったん抜き、背中の痛み止めとドレーンチューブはそのままに、手伝ってもらって長いベロンとした空色の手術着を脱いだ。熱いタオルで全身を拭いてもらう。これをしてもらうまでにこんなに時間がかかるとは思っていなかった。
「下着はご自分で取り換えて、そこの小引き出しにあるビニール袋に密閉して、ごみ箱に捨ててくださいね」
「はい」
顔も体も拭いてパジャマに着替えると、全身がすっきりして、やっと人間としての尊厳を取り戻した、そんな心地がした。
「トイレには行けてますか」
「はい」
「お通じはありました?」
「そういえば、大の方は、まだですねえ……なんか傷のこともあって、いきむのが怖くて」
入院した日食べたものが下から出てくるのが怖くて、自分の足でトイレに行けるようになるまでお腹の中で石になれ、と祈ったのが効きすぎたのか、もうオッケーだよとお腹にいくら言っても、びくともしない。
入院からまる4日、お腹はしんとしたままだった。
「今日の夕方から下剤出しますね。あまりため込んでトイレでいきんでも傷に響きますから」
「はい……」
そう答えた後、恐る恐る聞いてみた。
「あの、あと二日たっても三日たっても出なかったら、どうなるんでしょうか」
「それは内臓にとっても負担になりますから、その時は浣腸ですね」
ヒエーッ。
何もそうまでして出すこたないのに。いやいや、世の中には便秘で死んだ女性もいる。毒素が外に出ないのは身体によくないし、確かに今の自分には「気張る」ことができないのだ。
しかし、浣腸とは。もうこれ以上そんな生き恥はごめんだ。
「I先生も仰っていた通り、とにかく歩いてくださいね。お部屋の中で、腰をねじる運動をするのもいいかもしれません。立って腰に手を当てて、痛くない範囲でこう、右に左に」Dさんは私の前でぐりぐりと身体を左右にねじって見せた。
よし、多少痛くてもできることは何でもやろう。そう決心した。
そうだ、お水じゃなく、ブラックコーヒーを飲もう。あの自動販売機には確か冷たいブラックコーヒーもあった。私には、実はコーヒーが一番効くのだ。夫が入れてくれる濃いコーヒーを飲むと、大抵トイレに行きたくなる。
「あの、肝臓を腫瘍ごと二割切除した状態でも、ブラックコーヒーは大丈夫でしょうか」
念のため聞いてみた。
「肝臓は消化器官じゃないのでコーヒーは影響ないですよ。でも飲みすぎには注意してくださいね、カフェインが効きすぎて眠れなくなっちゃうから」
「はい、わかりました」
Dさんが出て行った後、私はそろりと鏡の前に立ち、腰に手を当てて、そろそろと右に左に腰をくねらせてみた。たいして傷に響かない。あとは、また自動販売機を目指さねば。
そこまで考えて、私はどんよりと気が重くなった。
入院以来、初めてと言っていいぐらい、長話をしてしまった。それも、深い所に刺さる入り組んだ話を。思い返しても、その内容は重かった。
あんなに避けたかった人と、なんであんなに長時間、話し込んでしまったのだろう。
もう、普通の顔をしてあのお爺さんに会えない。Tさんと呼ばれていたっけ。あの人は再び私の顔を見たら、今度はどう出るのだろう。
自分が亡き奥さんに似ているのはわかった。初めて見た時から、凝視されていた理由も分かった。マスクをしていても一目で吸い付くように見つめていたことを思うと、よほど似ているのだろう。
でも私は正直、これ以上深入りしたくない。
この先進入禁止、と、胸の中の危険信号が点滅し始めている。
そんなにボケてはいないのも、悪い人ではないのも、才能ある人であるのも分かった。
でも、また話し込みたいかというと、そうではない。これ以上近づくのは、何だか怖い気がする。
私はブラックコーヒーを手に入れるために廊下を歩かなければならない。あのお爺さんは、また扉を開けて私を待っているのだろうか……
夕食は6時。もう体を押すようにベッドの背を立てなくても、自力でベッドの上に座り、テーブルの上の食事をふるえずに食べることができる。身体の回復度は、思った以上だった。食事を下げてもらったあたりで、I先生が部屋を訪問してくれた。
「食後のお薬に下剤を追加しときましたが、飲みましたか」
「はい」
「そう。あとね、毎食頑張って食べてるのは偉いけど、別に完食しなくていいから。八分目あたりで、後は残していいよ」
「えっ、そうなんですか」
「肝臓は消化器官じゃないとはいえ、消化に関わる臓器もかなりダメージ喰らってるからね。休ませてあげて。ところで、食事前の検温で、また37度を超えてたそうだね」
「はあ、私平熱が35.5度ぐらいなので、何の熱かとは思いますね。上がったり下がったり」
「体切ると発熱するのが普通なんだよ。いろんな意味で消耗するからね。たいていの人が、あなたと同じ手術をすると、大体退院までに3キロは体重が減るんだよ。でも、そんなもんでいいんだ。退院して一週間もすれば、大体元に戻るから」
「そうですか……」
戻らなくていいのに。ふつうの食生活で3キロ減らすのにどんなに苦労するか。
「ドレーンちょっと見せて。ああ、胆汁も相当減って来てるね。これなら、明日当たりチューブ外せるかな」
「え、本当ですか」
「もうそれほど傷は痛まないでしょ」
「はい、かなりましにはなってきました」
「じゃあ、上手くいけば明日痛み止めの点滴も外そうかな」
「えー、嬉しいです!」
「あとはブドウ糖とビタミン剤の点滴だけだね。それ外したかったらせっせと歩いて、自動販売機のきれいな水飲んで、自分で十分水分補給してね。点滴とチューブが全部取れたら、お風呂にも入れるよ」
お風呂!
私はがぜん、やる気がわいてきた。
お風呂に入って髪を思い切り洗う、体を洗う。どれほど待ち望んできた事だろう。
それでこざっぱりしたら、この、一日中追い詰められ閉じ込められたような気持でいるプチパニックも、少しは和らぐかもしれない。
その夜、点滴台を押して廊下に出るには、勇気がいった。
会いたいのか、会いたくないのかと言えば、悪いけど正直、会いたくない。
でもまだ、奥さんの死因とか、聞いていないことがある。もうちょっと知りたい、そんな好奇心もある。
廊下に出てそっと隣を見ると、ドアは珍しく閉じられていた。
咳払いの声も、聞こえてこない。
よかった、今のうちだ。
私は静かに点滴台を引っ張り、長い廊下をゆっくり歩いて、自動販売機に向かった。
あったあった、ブラックコーヒー。
私は祈るような気分でブラックコーヒーのボトルを二本買い求め、取り出して脇のソファに座った。
ブラックコーヒー様、あなただけが頼りです。どうか私のお腹の石をどかしてください。
蓋を外して飲んでいると、足元に、ちらりと紙の切れ端のようなものが見えた。
何だろう?
何気なくソファの下を覗き込むと、そこには、多少よたくたした小さな折り鶴があった。
こんなところに、折り鶴?
見舞いに来た人の忘れ物……いや、今は見舞いは全面禁止のはずだ。
私は鶴をつまみ上げた。と、全体に小さく乱れた字が書いてあるのがわかる。
もしかして、この字……
私はゆっくりと折り鶴を開いてみた。一枚紙になったそこには、見覚えのあるくせ字で、何やら俳句のようなものが書いてあった。
糸蜘蛛や 生命線を 伝い降る
影となりても 見つめて居るか ハナミズキ
病葉を ふたり蹴上げる 夢の森
通ひ路を 尋ねて眠る 今宵また
白い紙をひっくり返して、私は息を呑んだ。
そこに描いてあったのは、マスクを外した私…… ではなく、私によく似た、ふっくらした笑顔の、眼鏡をかけた初老の女性だった。
あのお爺さん…… Tさんが描いたものだ、間違いない。これは、亡くなったという奥様だろう。
どうしてこれを、折り鶴にして、こんなところへ?
あまり考えたくないけれど、私がここへ通っていることを見越して、そして見つかることを前提に、ここに置いたのだろうか。
なんだかその絵を見ていられなくなって、私は紙を元通りに折りなおし、ぺたんこの鶴にした。
それを持ち帰ることは、まるで恋文を人知れず受け取って帰ることになるように思われたが、やがて掃除されるであろう床に放置するのも、何か哀れに感じた。
そんなこんなでコーヒーと鶴を部屋に持ち帰った自分は、なんというか、阿呆だなあと思う。
鶴がないことにもしお爺さんが、Tさんが気付いたら、次にコーヒーを買いに来た時、二羽目の鶴が置かれているのではないか。そうしたら私はまた持ち帰るのか。
うーん。
ここにきて辛い思いしかしていない毎日だ、こういう多少夢のあることもあっていいのではないか。そんな風にも思われた。
私はこの行為に、ロマンスの欠片でも見ているのだろうか。亡くなった奥様によく似た自分に執着している、80前後のお爺さんとの関係に。
私は部屋に戻り、第一の目的であるブラックコーヒーを飲み干し、ベッドに座ると、俳句を読み直した。
私ではない。死因は知らないが、亡くなった奥様に、会いたいのだろう。
どうかして会いに行ける夢の道を、探しているのだろう。
でもそれは、私じゃない。
多少ボケが来ているとしたら、万が一悪化して、私を奥様の身代わりのように勘違いしては困る。
でも、ちゃんと正気でいられるなら、話し相手は欲しい。
だって彼は、笑顔を浮かべて言ったのだ。
『そうか、わかるか。猫は、かわいいもんじゃ。ええもんじゃ』
Tさんが「眼鏡をかけた女にちと弱い」ように、私も猫好きの男性には「だいぶ弱い」のだ。
猫と野良狸にあそこまで情をかけられる人が、悪い人であるはずがない。
手元のスマホのラインには、今日も定期便のように、夫から猫たちの画像が送られてきていた。写真も、動画もある。ご飯をむさぼり食べながら、こちらを見上げて、なーお、と鳴くすずちゃんの甘い声、黒目がちの目。
こうしてみているだけで、病み疲れた心をほんわりとほぐしてくれる。
あの人には、こんな画像を送ってくれる人もいないのだろう。
せめて、奥様と一緒に緑の公園を散歩する夢でも見られますように。