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4.画家と狸

さて、病院に入って、初めてのお買い物だ。自販機の前に立ち、小銭入れを出し、富士の名水の値段を確かめ、小銭を入れる。ごとんとボトルの音。痛みをこらえながらゆっくりかがんで取り出し、隣のソファにそっと座った。今までは当たり前だった日常を、いまこなせることが、いちいち嬉しい。

蓋を開けて口を付けたそのとき。

左のほうから、聞き覚えのある声が聞こえた。


「いちいちもうええわ、わかっとると言っとるじゃろう!」


ぎょっとして声の方を向くと、エレベーター前を、歩行器を押して歩く老人が見えた。

うわ。あの咳払いお爺さんだ。

はいはい、じゃおひとりでお部屋に帰れますね、と言いながら看護師さんが去ってゆく。

じろりと、お爺さんの目がこちらを見た。そして、歩みが止まった。ぽかんと口を開けると、

何やら口元に笑みを浮かべ、まっすぐこちらへ進んでくる。


うわ、見つかった! 咄嗟にそう思った。

逃げようか。でもここで立ち上がって来た道を戻ると、いかにもお爺さんから逃走しているのがまる出しになる……


お爺さんは一瞬たりとも私から目を離さず、正面が半円形になっている、車輪のついた歩行器を両手で押しながら、まっすぐ進んできた。

ソファに座る私の真ん前に来ると、私を見ながら止まった。パジャマのズボンのポケットが大きく膨らんで、何か手帳のようなものが突っ込まれている。

あ、病室で手に持っていた、あのノート?

どこか田中泯に似た風情のお爺さんは、唇を震わせながら、ひとこと言った。


「帰り道が、わからん」


あ、迷ったのか。だから看護師さんがついていたのに。

それにしても私を凝視しすぎだって。

私があの時通り過ぎたおばさんだって、わかってるのかな。


「あ、迷われたんですか。それなら、ええと、ご案内できますけど……」

「帰り道が、わからん、のか」


のか? 疑問形だったのか。なんで私を迷子だと思ったんだろう。仕方なく、事実を言う。


「帰り道なら、わかってますよ。私が帰る部屋は、あなたの隣です」


とたんにお爺さんはにたーッと顔じゅうで笑った。


「そうか。あんたの帰る場所は、わしの隣か」

「え?」

「そうじゃろうとも」


「………」


「わしも、飲もう」


お爺さんは震える手でズボンのポケットから直接小銭を取り出した。そして歩行器を押しながら、ちらとわたしの手元を見て、同じ、富士の名水を買った。

そして、歩行器から手を放し、よっこらしょ、と言って私の隣に座った。

私はそうっと、少しだけ、間隔を空けた。

ああ、結局、つかまっちゃったわ。


「部屋の水は、あれだ、まずくてかなわん」

「……そうですね」

ひと口水を飲むと、お爺さんはほうッとため息をついた。

「ああ、うまい。この病院で食ったものの中で、こいつが、一番うまい」


私は思わず噴き出した。病院食を不味いと感じていたのは、どうやら私だけではなさそうだ。


「あんた、あんた、なんで、ここにいる」

「はい? ええと、歩行練習と、水を……」

「いや、いや。なんでここの病院にいる」


よく見ると、田中泯に似たそのお爺さんの目は、ぎょろりとしてはいるものの妙に穏やかだ。あの叫び声と咳払い、看護師を怒鳴りつけていた声、そうしたものから想像していた粗暴さが、その眼には宿っていなかった。なにか、不思議な優しげな雰囲気さえ漂わせている。


「私は、肝臓腫瘍です。おととい、手術を受けました」

「おととい、か。もう歩くんか」

「はい、お医者さんから言われまして。歩け、歩けと」

「歩け、歩け。ぜんたーい、とまれっ」


……やっぱり少しおかしい。


「腫瘍というと、あれか、悪い方のやつか」

「いえ、退院して10日ぐらいしないと、悪性か良性かはわからないそうです」

「そりゃ難儀なこっちゃのう」


ぶしつけな質問をされたので、こちらも距離を縮めてみる。


「あの、いつごろから、入院なさってるんですか。手術とか、受けられました?」

あれだけ腹式呼吸の怒鳴り声が出せるんだから、お腹なんかまだ切ってはいないのだろう。

「わからん」

一言言うと、お爺さんはまた水を一口、飲んだ。

「酒をな。酒を飲んで、もう、いつも飲んどった。寝ても覚めても、酒じゃ。医者に言わせると、あれじゃ、かん、かんこう……」

「肝硬変、ですか?」

「そんなもんじゃ。最初はそれで、それから、癌があちこちできたとか糖尿病だとかで、わしはそれでももうどうでもよかったが、妹がいてな、そうだ、そうだ、妹に無理やり連れて来られたんじゃ。あいつめ、余計なことをしおって」

ああ、一応思いやってくれる身内はいたんだ。

「それで最初は、でかい部屋にいてな、うろうろまわりを爺さん婆さんが歩いては、糞をひって臭いし、うめき声上げよるし、どもならん」

「でも、妹さんがいろいろしてくださったからここで今、生きていられるのかもしれませんよ」

「あいつらに追い出されたんじゃ。役にも立たないばばあどもが、咳払いがうるさいとかぬかしよって、面倒臭いんでゴミ箱を投げてやったら、ここの個室に、連れて来られた」

「あら、まあ……」


そういうことで個室入りになったのか。まったく女というものは、と毒づいていたのは、お婆さんたちとやり合ったせいかもしれない。


お爺さんは言葉を切ると、お尻のポケットからひん曲がったメモ帳を取り出して、眺めた。

何やら、ごちゃごちゃした歪んだ字と、絵が描いてある。


字はともかく、絵は上手いものだった。


というより、上手過ぎた。どれも動物のスケッチのような感じで、犬や猫、狸……のようなものが描いてある。それはもう、素人の線とは思えなかった。動物の本質を掴んだもののみが描ける、間違いのないフォルム、曲線、命がそこにはあった。

狸の絵が、とくに可愛らしかった。

狸…… 狸?


わしの狸はどこだ! という叫び声を思い出した。あれは、このノートのことだったのだろうか。


「絵、お上手ですね。もしかして、絵描きさんですか」

「そうじゃ」

「えーっ…… さすがですね、素人には描けない線ですね」


自分で聞いておいて驚くのもなんだが、絵描き、と言われると、あの扱いにくい乱暴な態度も癇癪も、納得できる気がするのが不思議だった。


「妙なものじゃのう。ここしばらく、何も分からんかったが、あんたと話していると、いろんな事がわかってくる。頭がすうっとして、いろいろ、見えてくる」

私はうっすら笑うと、自分も同じ気がすることに気づいて、言った。

「私も、ここに入った日から、緊張して追い詰められて、普通の気持ちが取り戻せなかったんです。

私少し神経を病んでいまして、こういう閉じ込められた環境にいるだけで、追い詰められていてもたってもいられなくなるんです。持ってきた本を読んでも、テレビを見ても、何も頭に入らないし、どうにかなりそうで……

それで部屋から逃げるようにして、歩いてるんです。でも今、お話ししている間、何だか気持ちが落ち着いてました」

お爺さんは黙って、柔らかい視線で私の目を見た。


「……そうか」


そして、また言った。


「これからどうなるのか、どこへ帰ったらいいのか、わしにはしばらく何もわからんかった。

だが今は、わかった。わしが帰るのは、あんたの隣じゃ」


「……」


これは、やはり、少し引っかかる。どういう意味合いで言っているのだろう。

私は話題を変えた。


「狸の絵が、とくにかわいいですね。動物、お好きなんですか」

「動物はのう」

しばらく考えて、後を続けた。

「人間以外の生き物は、みな、尊い。昔から一人で絵を描いて、猫を飼っとった。それが、このシロじゃ」

お爺さんは歪んだノートのページの、白猫の絵を指差した。

「きれいなかわいい、猫ちゃんですね」

「7年ぐらい一緒にいたかのう、ある日窓から出て、もう帰らんかった。わしは待った。毎日毎日、餌を用意して待った。あんなに、切なかったことはない。しばらくは絵も描けんかった」

「わかります。私も猫を三匹飼ってます。一晩でも姿が見えなくなると、生きた心地がしません」

「そうか、わかるか。猫は、かわいいもんじゃ。ええもんじゃ」

目元を細めて、お爺さんは微笑んだ。


私は本当にあの、咳払いしたり大声で笑ったり看護師を怒鳴ったりしていたあの「ボケ老人」さんと話しているのだろうか。隣にいるのは、今やただの、動物好きの、孤独な、人懐こい絵描きのお爺さんだった。


「じゃあ、狸も、お飼いに……?」

「狸はのう。狸には、悪いことをした」

「悪いこと……?」


皺のよった口に、またボトルを傾ける。細い首ののどぼとけが、大きく上下する。


「東京の、西の方に住んどった。ふつうの町中じゃ。タヌキなどいると思っとりゃせん。

自転車で買い物に行った帰り、近くの公園から何か四つ足の獣が飛び出して、わしの自転車と衝突した。わしは自転車ごとこけたが、大したけがはせんじゃった。

野良犬かと思えば、あんた、それが、目の周りの黒い、狸じゃ」

「珍しいですね。公園に住んでいたのかな」

「それで、腰が抜けたようになって、キューンキューンと犬のような声を出しよる。足からは血が出ていた。わしはかわいそうに思って、自転車を立てて、言った。歩けるか、すまんかった。メシをやるから、来いと」

「狸に、ですか」

「そうじゃ。心を込めて言葉をかければ、大抵の動物には通じる。わしはそれを知っとる。猫の前に飼っとった犬も、猫のシロも、わしの言葉をちゃんと理解しよったもんじゃ」

「狸はついてきましたか」

「ついてきたとも。自転車を押して歩くわしのあとを、怪我した足を引きずりながら、よろよろとな」

「家まで、ですか。すごいですね」

「すぐ近所じゃったからな。家は古いが持ち家だ。わしゃずっと独り身じゃし、狸を連れ込んでも、誰も文句は言いやせん」


あら、確か、看護師さんは奥さんがいたと言ってなかったっけ……?


「それで、昔猫に使っとった傷用の塗り薬を見つけて、足に塗って包帯も巻いてやった。鳥のささ身があったので、軽く焼いて裂いて、皿に乗せた。あの子は、よう食うた」

「それで、家の中で飼ったんですか?」

「なにかのう、法律でそれはダメとかいうのは知っとったんで、庭の昔の犬小屋を指して、あそこで養生しろ、飯はやる、と言ったんじゃ。じゃがさすがにそれは通じなかったんかな、翌朝になると、どこにもいなかった」

「元々野性ですものね」

「いや、いや。それがじゃ。夕方になると、庭に姿を現すんじゃ。いかにも、餌をくれといった風にな。わしはわざわざ買っておいた犬の餌、ドライフードいうやつじゃな、あれを皿に盛って、やった。ポリポリとよう食うた、そうやって姿を消して、次の日も、また次の日も、狸は夕方になると来た。どうやらメスのようで、わしはハナと名前も付けて、毎日、飯を食うとる姿を描いた」

「通い狸、になったんですね」

「そうじゃ。あのとんがった鼻と、丸々と太っていく体がかわゆうてのう。撫でても嫌がりはせんじゃった。鼻を顔につけて、甘えてくる」

「すごいですねえ。犬みたい。心が自然に通ったんですね」

「それがだ。猫と同じだ。ふた月もたったころ、突然庭に来なくなった」

「あら……」


それからお爺さんはしばらく言葉を切った。


「わしは、探した。猫の時と同じぐらい、不安で寂しかった。あの日は雨だった。傘をさして、最初に出逢った大通り沿いを歩いとった。そしたら…… 道のはたに、四つ足の、黒い獣が倒れているのを見つけた。こわごわ近寄ったら、狸じゃった。車にはねられたのか、口から血を流しておった。ピクリとも動かんかった」

「……まあ……」

「よくよく見た。ハナに違いなかった。丸い体、とがった鼻。わしがしゃがみこんどったら、近くのふとん屋の婆さんが出てきて、言った。

 

ここのところよく見かけてたんですよ。公園から出てきて、大通りを渡るんです、狸が。

公園に狸がいるのは噂で知ってましたけどね、またなんでちょくちょくここを渡るようになったのか不思議だったんですけど、いつか車にはねられるんじゃないかと思ってたら、案の定ねえ……。

市に連絡して、持って行ってもらわないと、と。


わしは即座に答えた。それはせんでええ。あんたは何もしなさんな。ここからこの体が消えれば、それでええんじゃろ、と。

まあ、それはそうですけど、と怪訝な顔をしとる前で、わしはもしもの時の為に背中に負っていた大きなリュックに、ハナの躯を入れた。婆さんはぽかんとしておった。


わしのせいじゃ。わしの所へ通うようになって、何度も何度も、あの通りを往復していたんじゃ。それで、車に轢かれて、死んだ。ハナは、最初わしの自転車にぶつかって、車に轢かれて、ひとの手で、殺された」


「………」


「わしが一番悪い。じゃが、養うなと言われても、おえんかった。わしは寂しかったんじゃ。たまに面倒見に来る妹以外、誰も来ん。その妹も、部屋をゴミだらけにするな、酒を控えろ、病院へ行けと、説教ばかりじゃ。わしゃいつも怒鳴って、追い返しとった。

ハナを庭に埋めて、石を立てて花を添えて、手を合わせて、願った。化けてでもいい、出て来てくれと。また一緒に暮らそうと。

それからまた酒の量が増えた。何もかも分からんようになるまで飲む、自分でも止められやせん。

飯など喉を通らない。ゴミの中で酒だけ飲んどったら、妹がまた来て、これじゃ孤独死しちゃうよ、そんなの後が大変だわ、と言って、家政婦をよこした。週二回、掃除と片付けと料理の作り置きをしてくれる。

メガネで短髪の、55ぐらいのおばはんだった。ふちの大きな茶色い眼鏡でな、なんとなく狸を思い出す顔だった。それで、通ってもらうことにした」

「それは、ほんとによかったと思いますよ。妹さんとその家政婦さんのお陰で、多分、ゴミの中で死なずに済んだんですよ」

「わしはな」

おほんと咳を一つして、お爺さんは言った。


「眼鏡をかけた女に、ちと弱いんじゃ」


そして私の顔を見た。私も、ふちは太くないが、眼鏡で短髪だ。


「その家政婦が、のちの、わしの奥さんじゃ」

「えっ……」


「ちと太り気味でな。料理がめっぽう、上手くてな。口数は少ないが、そばにいるだけで、なんというかこう、心があったまる、そんな女じゃった。妹は、お金のために働いてる人をタダで自分の持ち物にしようとしてるだけでしょ、と意地糞悪いことを言ってまたわしを責めたが、わしは言った。

惚れたんじゃ、あっちも頷いてくれたことじゃ、黙っとれ、と」

「そうだったんですか……」


「あんた、嫁に、よう似とる」


「……」


「あら、いいですねえTさん。お茶のみ友達じゃなくて、お水のみ友達ができたんですか」

前を通ったS看護師が、からかい気味に声をかけてきた。

「やかましわ!」

ノートを握ってお爺さんが立ち上がると、アハハと笑いながらS看護師は逃げていった。


「しゃべり過ぎた。まるで、酔うたようじゃ。ここしばらく、真面目な話は誰ともせなんだ。あんたのおかげで、自分の昔までいま、見渡せた」

「それは……、よかったです」

「しゃべり疲れた、もう行くわ。よっこらせっと」

歩行器につかまると、尻ポケットに水のボトルをねじ込み、お爺さんはよろよろと立ち上がった。


「あの、帰るお部屋はわかりますか」思わず声をかけると

「あんたの隣じゃ」振り返って、Tさんは二ッと笑った。


からからと歩行器が進んでいく。追いかける気になぜかなれず、後ろ姿を見送った。

姿が角を曲がり見えなくなると、私は改めて水を口に含んだ。


はてさて。これから、どういう風に距離を保ったらいいのだろう。

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