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3.自動販売機への旅

部屋に戻り、Sさんが点滴やチューブをてきぱきと元の位置に戻してくれる間、あの大きな咳払いの声は聞こえてこなかった。それが余計に、不気味だった。


スマホは枕の下に大切にしまってあった。家族ラインを見てみよう。身体が少し動かせるようになったので、左手で探るように取り出して、震える指で電源を入れる。薄いスマホが、デジカメのように重い。

パスワードを入れるにも難儀するほど、手の震えは激しかった。体にメスを入れるというのは、これほど全身に負担をかける事なのだ。

少し体を横に向けて、スマホを持った左手を枕で支えるようにして、家族ラインに目を通す。息子と娘と夫のやり取りが続いている。


 お母さん大丈夫かな? 

 手術の後腫瘍見たよ、大きかったよ。

 へえそうなんだ。お母さんまだライン無理かしら。

 手術の翌日から歩行訓練するとか先生が言ってたから、今頃は歩けてるんじゃないかな。

 電話かけちゃダメ?

 負担になるだろうから、遠慮しといたほうが……

 ………


私は懸命に、時間をかけて文字を打った。


 みんなありがと。今日歩けた。でも手が震えて、短文しか打てない。お父さん、猫たちの写真、見せて。


とたんにずらずらと、すずとすみれとミーシャの、それぞれの寝姿が送られてきた。


ああ可愛い。可愛い可愛い。

縮み怯えていた心にふわっと温かい風が吹く。あのふわふわとした体を、抱きしめたい、頬ずりしたい。


 猫たちのこと、お願いね。毎日、写真見せてね。


何度もミスしながら懸命に文字を打つ。


 お母さん、もう歩いたんだ! 寝たきりだと思ってた! と娘。

 頑張ったね、よく歩けたね、と息子。

 猫たちはたっぷりよしよししてるから安心して、と夫。


帰りたい、一刻も早くここから出たい、と尚更思う。


ぐえーっほえっほえっほ、うおおおおお、と隣からいつもの声が聞こえてきた。

あのお爺さんも一刻も早く出たいんだろう。でも出迎えてくれる人はいなさそうだ。どんなに救いのない心地だろう。

私を凝視していた目を思い出す。

あの叫びは、孤独の出口を捜す咆哮なのかもしれない……


食事と水分が取れるようになったので、その日、左手の甲の点滴が外された。

指の先の血中酸素測定器も外され、それだけで随分気分が楽になる。片手がフリーになるだけで、モノが取りやすくなるのだ。テレビのリモコン、テーブルの上の眼鏡、テーブルに置いておいた大島弓子のエッセイ漫画本、水の入ったコップ。空調のダイヤルにも、痛みをこらえつつどうにかこうにか指が届くようになった。

ああ、冷風だ。汗まみれの体に、それはどんなにありがたかったことか。


角度を付けた背にもたれて久し振りにテレビを見ていると、ノックの音がしてI先生が入ってきた。


「今日歩けたんでしょう、部屋の中だけでもいいからとにかくベッドから降りて一人で立ち上がる練習とか、足踏みとかして、体を動かしてね。一人で点滴台ごと室内のトイレに行けるようになれば、導尿管も外せるよ」

「はい、そうですね」

そして私のお腹をめくり、「ああ、順調順調」と言って、再度

「とにかく運動ね。寝たきりじゃだめだよ」と念を押して、出て行った。


導尿管は便利なもので、入れる時は全身麻酔中で無感覚だったし、入れている今も違和感はないし、尿意を覚えてエイッと出そうとしなくても自然に袋に溜まっていく。でも、立って動こうとすると、股間から繋がっている管がどうにも邪魔だし、その姿で廊下を歩くのもなんだか恥ずかしい。

しかし、便意を催したら終わりだ。生き恥をさらさないようにするためにも、一刻も早く、一人でトイレに行けるようにならなければ。


よし、動こう。

私は意を決した。


できるだけ腹筋に力を入れないようにして起き上がるにはコツがいる。

まず右横を向き、右ひじをベッドについて肘に体重を預け、次に掌をベッドにつけて腕に体重を移し、その腕を突っ張って体を斜めに起こす。そして左手でベッドの柵を掴み、あとは全身の力を両手に集中させて体を無理やり起こすのだ。痛みに負けたり力が足りなかったりすると、そのまま全身を震わせてどさりとあおむけに倒れて一からやり直し。

ナースコールを押せばもちろん看護師さんがベッドの頭部分を上げ、手伝ってくれるが、いつもバタバタと忙しそうにしている看護師さんの手を煩わせたくはなかった。


何とか体を起こし、ベッドからそろりと足を下ろすと、(ベッドの柵は腰から下の部分は下げられていた)どういう訳か左足が凄い勢いで貧乏ゆすりを始めた。

貧乏ゆすりの癖は普段からあるが、いつもは右足だ。左足をカクカクさせたことはない。ところがこの時は、いつもは見たことがないような勢いで、左足が高速貧乏ゆすりを始めた。膝を抑え、スリッパに苦労して足を入れ、点滴台に縋って立ち上がる。尿袋と胆汁袋は点滴台の下の方の金具に引っかける。

やはり動くと傷が痛い、そして頭がくらくらする。いちに、いちに、と同じ場所で足踏みしてみる。目の前には洗面所とトイレがある。ありがたや個室。これが廊下のかなただったらトイレ行き達成ははるか先だっただろう。

入ってみようか。一人でパンツは下げられるだろうか?そして、便器から立ち上がれるだろうか?

点滴台を引きずって、恐る恐るトイレに入り、便器に背を向けて下着を下ろしてみる。

かがむ動作だけで、もう傷跡が激痛だ。ここが頑張りどころ。今まで点滴だらけで着替えもできなかったので、まだ手術着のままだ。裾をまくり、歯を食いしばって腰を下ろしてみる。

ここまでは、できた。あとは立ち上がれるかどうか。

ずきずきと容赦なく傷が痛い、それでも懸命にかがんで下着をあげる。手術後履かされたのはぶかぶかした紙パンツで、尿管はその隙間から出ている。

立つには支えが二か所は必要だ。点滴台とトイレのドアノブにつかまって体を支える。ゆっくりと立ち上がり、ドアノブを回し、外に出る。


やった、できた!

私、一人でトイレに行けた。


ドアの前に立ち、フロア案内図を見る。

ナースセンターの近くに自動販売機がある。たしかあの脇にはソファがあった。ラウンジはコロナで閉鎖中だ。よし、次の目標は、かなり離れたあの自動販売機に行くこと、そこでおいしい水を買うことにしよう。あのソファに座ってお水を飲むんだ。自由に部屋を出て廊下を歩けるようになれば、この閉塞感もおさまっていくだろう。

まずは、この導尿管を外してもらわないと……


そこまで考えているうち、動悸が上がり、冷や汗が出てきた。

慌ててベッドサイドまでたどり着いた。胆汁袋と尿袋をベッドサイドの金具に吊るし、点滴台をベッドの右わきできるだけ近くに置いて、どさっと腰掛ける。はあ、はあ、はあ。


うぇーっほえっほえっほ、ごえっほっほ、わーっはははは、ごええええ。


隣の雄たけびを聞きながら思う。

これだけ素通しに聞こえるということは、あのお爺さん、日常的に個室のドアを開けているんだ。廊下を歩くということは、あの部屋の前を通るということ。

嫌だなあ……またあの目で見られたら、どうしよう。もし支離滅裂なことを話しかけられたら……


そしてその憂いは、のちに現実のものとなる。



翌日の朝、努力が報われて、導尿管が外される時が来た。

その日の昼担当の看護師、おかっぱ頭のD看護師さんがベッドわきに座り、私に言った。

「はい、ベッドに腰かけてゆっくり深呼吸してくださいね。あ、座るの私が手伝います。二回です。二回目、息を吐くときに、管を抜きますよ」

「はいっ」

すーっ、はーっ。すーっ、はー…… !!!


膀胱から管が抜かれていくときの衝撃的な感覚は、一番重かった膀胱炎の時の排尿時の痛みに物理的苦痛を加えた感じだった。


「よかったですね。これでおトイレ使えますよ」笑顔でDさんが言う。

「は、はい。転ばないように頑張ります」

「ふらつきはまだ続きますからね。昨夜は眠れましたか?」

「うーん、4時間……半、ぐらいかな……」

「昨日から眠剤、出てますよね」

「はい、それがなかったら一睡もできてなかったと思います」


正直言って、夜家で飲んでいたのは安定剤と抗うつ剤と睡眠剤、それとお酒のカクテルだった。それでどうにか眠れるのは6時間。元々精神が病んでるので悪夢まみれだ。

それがここではお酒もなしで睡眠剤1錠。

我ながらよく4時間半も眠れたと思う。

何の気晴らしもない夜はただとなりのお爺さんの叫び声が怖く、孤独感と得体のしれない焦燥感が沸き上がり、目の前に「永遠の無」の可能性がチラ見えしていた。それは、今の私にとって、手の届くところにある現実的な恐怖だった。


その日から、私は体を動かすことに集中した。点滴やドレーンはまだつながっているけれど、何しろ導尿管がないのがありがたい。だいぶ体も自由になった。熱もどうやら平熱に下がった。

歩こう、廊下を。何も考えずに、あの販売機目指して。

でもその前に、トイレに行って…… そのためには、胆汁袋を、点滴台の方にぶら下げなきゃ。

立ち上がって点滴台を見上げて、ぎょっとした。


いつのまにか、三つの点滴袋から下がっている管が、まるでジャングルの木の枝にひっからまっている蛇のように、ぐるぐるとからまっている。しかも中には、途中で固結び状態になっているのまである。

何もいじってないのに、どうして? いつの間にこんなにグルグルになったの?

私は懸命に立ち上がり、点滴のチューブをほどき始めた。これが、ただぶら下がっているだけの管ならほどきようもあっただろう。だがそれぞれの先が、私の腕や背中に刺さったままなのだ。いかんともしがたい。

私は額から汗を流し、痛みに耐えながら、20分は格闘したと思う。膀胱は膨らみ、事態は悪くなってゆく一方だった。管たちはますます絡まり、腕は上げた状態のまま、実質短くなった点滴管につりあげられて、これじゃトイレどころではない。

尿意も限度だ。私はどうにか手の届くところにあったナースコールを遂に押した。

スピーカーから声。


『はい、どうしましたー』

「あのう、点滴台持っておトイレに行こうとしたら、点滴管が絡まっちゃって、この体勢だと下着も下ろせないんです。すみませんが、ほどくの、手伝っていただけないでしょうか」

『あらあら。はい、わかりました』


その時来たのは、初めて見るポニーテールの看護師さんだった。

点滴台を見上げて、

「あらあ、こりゃひどいですね。何とかしましょう」と言いながら両手に薄いビニール手袋をはめる。

「こうかな。えい、これをこうしてっと」

驚いたことに、看護師さんはあのぐりぐりに絡まっていた管の塊を、いともやすやすと一分ぐらいで綺麗にほどいてくれた。

「はい、これでよし」

「凄い、魔法みたいですね! ありがとうございます!」

私は思わず叫んだ。どんな手を使ったのか、見ていてもさっぱりわからなかった。

「では、ごゆっくり用を足してくださいね」

看護師さんは微笑んで出て行った。

つくづくと、看護師さんたちって白衣の天使だ。

と感謝しつつ、私はトイレに突入した。しゃがむとき立つとき、激痛のおまけつき。

ああ、手術前の自分の体は何と自由自在だったことだろう。


ガラガラと点滴台を引きずりながら、そろりとドアを開けて廊下に出る。


動き回る医療関係者の姿を見られる世界はありがたい。空気がちゃんと動いている。自分の病的な恐怖感や孤独感に押しつぶされずに済む。

おはようございます、運動ですか頑張ってくださいね、と周囲の看護師さんたちから声がかけられるのもありがたい。


隣のお爺さんの部屋のドアは、やっぱり開いていた。でも今日は、いつもの叫び声や咳払いが聞こえない。

いないのか、それとも眠っているのか……

横目で通り過ぎざまにちらりと見ると、室内にもベッドにもお爺さんの姿はなかった。

よかった、あのぎょろ目で追跡されずに済むわ。私はほっとして、先へ進んだ。


ドアの地図を思い出そう…… 共同トイレを過ぎると、洗髪台の並んだコーナー…… しばらく行くと、ナースセンター…… ここを右に曲がると、正面にエレベーターが見えるはず。その手前左にあるのが、自動販売機。

あった、あれだ。

右に曲がろうとしたところで、私は廊下の突き当りの、暗く重々しい鉄製のドアが気になった。何か、貼り紙がしてある。

そのまままっすぐ進み、貼り紙の内容を確かめてみた。


「この先小児病棟につき、進入禁止」


そうか。ここ総合病院だから、小児科もあるんだ。

コロナ禍で、面会も禁止されて、幼い子供たちはどんなに寂しく厳しい気持ちで夜を過ごしているだろう。いい年してメンヘラな私の、何倍もの孤独に耐えている事だろう。


情けないぞ、いい年した自分。

頑張れ、小さな戦士たち。



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