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1.チューブ人間

全身麻酔という体験はいつも不思議だ。


寝たなら寝たなりの「よく寝て今起きた」という満足感があるけれど、全身麻酔を受けると、いきなり「自分がなくなる」。

さっき点滴を受けていたと思ったら一瞬でブラックアウトし、次の瞬間「はい、終わりましたよ」と声をかけられるのだ。その間の自分は、完全な「無」。

私は今までに三度全身麻酔を受けたが、死後の世界はあの一瞬が永遠になるだけかと思ったら、死がさほど怖くなくなった。


ああ、今回も同じだ。

8月の中旬、地域で一番大きな総合病院の手術室で、私は「さっき麻酔かけられた途端に声をかけられた」気分で目をしぱしぱさせていた。手術する先生方は大変だろうけど、全身麻酔って毎回、何て楽なんだろう。

リカバリー室のようなところで横になっていると、寒気が全身を襲ってきた。

ストレッチャーの上から眼鏡をかけた執刀医が私の顔を覗き込んで、言った。

「肝臓の腫瘍は綺麗に全部取りましたからね。もう心配ないですよ。握りこぶし大はありましたね。あとで取り出した腫瘍はご主人に見てもらいますね」

どこか、田舎の道を散歩していそうなのどかな顔つきの先生だ。

はい、ありがとう、ございます、と私は蚊の鳴くような声で答えた。


それにしても、夫は腫瘍、というか腫瘍付きの肝臓の一部を見せられるのか。

君のいない間に食べようと思ってビーフシチューを鍋一杯作っといたとか手術前に言ってたけれど、そんなもの見せられて、煮込んだお肉なんか食べられるのかしら。


ストレッチャーは手術室を出てガラガラと廊下を進んだ。ふと止まったと思ったら、夫の顔がさかさまに視界に入った。

白髪交じりの長い前髪が目にかかった、いつもの穏やかな顔。


「大丈夫?」

「うん。だけどね、寒い」

「寒いの?」

「うん、凍えそう。凍えてる」

「七時間もかかったからね、心配したよ。手術室が寒かったなら時間かけてたっぷり冷やされちゃったんだね」


七時間? 大体五時間と聞いていたのに。

そりゃ心配しただろう。申し訳ない。

一階のラウンジで待っていてと言われたのに、最後の方ではいてもたってもいられず手術室のあたりをうろうろしていたらしい。


会話はそれだけしか覚えていない。退院の時また来るからね、と言われた気がする。全身が小刻みに震えていた。

確かに、手術室に入った途端、冷蔵庫みたい、と思った。金属の手術台は冷え冷えとしていて、手術着は台の上であっという間にはがされ、紙のようなものを一枚体にかけられただけの姿になって、もう煮るなり焼くなりどうにでも料理してくれという気分になったが、焼く代わりに七時間たっぷり冷やされて、全身がソルベになっていた。


病室は個室にしていた。

以前四人部屋にしたら、隣のベッドに夜中になると叫び出すお婆さんがいて、とにかくひどい目に遭ったのだ。


麻酔のさめやらぬ切れ切れの意識の中、寒さだけが確実に全身を支配していた。ストレッチャーからベッドにうつされ、てきぱきと点滴の管がつなげられていく。

両手の甲に針を刺される、これはブドウ糖の点滴か。手の甲の点滴は場所的に一番痛い。腕の内側にも点滴針を刺される、これはなにかわからない。背中に深く刺された針は、手術前に挿入された硬膜外麻酔の注入口。麻酔はよく効いてくれて、手術の傷跡は体を動かさない限りさほど痛まなかった。

横腹にあけられた穴にはドレーンが繋がれて、赤茶色の胆汁が流れ出ている。股間には導尿管。口元には酸素吸入器をかぶせられ、シューシューという音とともに口元に自分の吐息が水蒸気となって溜まっていく。右手の人差し指にはクリップが止められて、その先は計器に繋がっている。血中酸素濃度を測る装置だ。数値が低くなると、ピーピーピーと耳障りな音を立てる。

腫瘍を取り出した傷の上にはきつく腹帯が巻かれ、太ももから下は血栓防止の圧縮タイツを履かされていた。

「寒いんでしょう。お布団二枚掛けますね」

看護師さんがそう言って布団を二枚かけてくれたが、それでも全身の震えは止まらなかった。

ドレーンと導尿管の先にはそれぞれ排出液を受け詰める袋がベッドサイドにぶら下げられ、点滴台には体に繋がるいくつもの袋がぶら下げられている。これでベッドの両脇の柵をあげられると、もう全く身動きができない。ベッドに磔の刑状態。

そのうち、かじかむような寒さは熱気に変わっていった。全身がほてっている。息が苦しい。血中酸素測定器がピーピー鳴り続けている。

しばらくして、体温を測りにきた看護師さんが言った。

「あらあ、お熱上がってきてますね。氷枕しましょうか」

ゴム枕のようなぶよぶよしたものに氷水が入っているものを、頭の下に押し込まれる。キンキンに冷えている。

「これでいいですか」

「あの、直に触れると冷たすぎるので、バスタオルか何かでくるんでもらえませんか」

頑張っても蚊の鳴くような震え声しか出ない。全身麻酔をかけると呼吸も止まるので喉まで酸素吸入のための管を挿入するのだが、今回はその後遺症というのか、とにかく喉が酷く痛かった。


ベッドで一人になると、改めて思った。

私は今、生きている。とにかく生きてあの手術室を出られた。それだけでも感謝しなくちゃ。


肝臓腫瘍は、たとえ手術して取り出しても、時間をかけて細胞検査しないと悪性か良性かわからないと手術前日、I先生に言われた。結果が分かるのは退院して十日後ぐらいだと。その間、自分は宙ぶらりんの気持ちで待つしかないのだ。

握りこぶしほどもあったそれが悪性か良性か、自分の中では五分五分だった。

でもそんな不安よりも、閉所恐怖症と鬱とパニック障害持ちの自分が、一人ぼっちで約一週間の入院期間、この孤独で不快な状況に正気で耐えられるかどうかの方が私には差し迫った問題だった。


最初にパニック発作が起きたのは13歳の時、居間で漫画を読んで寛いでいるときだった。何の前触れもなしに、それは来た。理由などいらないのだ。

世界が閉所でありそこから出られないという、言ってみればそんな感覚。逃げ場のない恐怖と焦燥、狂気への不安、動悸、全身の震え、居ても立っても居られない焦燥感。

そんなものが、塊になって突然襲ってきた。

私は漫画を放り出し、突然の恐怖発作に叫び声をあげ、頭を抱えて転げ回った。

助けて、助けて、ここから出して、ママ、気が狂う、気が狂う!

台所にいた母が飛び出してきて、どうしたのどうしたのよとうろたえながらストッキングをはき、服を着替え、近所の内科へ私を引っ張っていった。その道の途中で、すとんと発作は収まったのだ。

さっきまでの自分に何が起きていたのか、思い出せないほど急に心は静まった。


「ママ、もういい。私治っちゃった」

「何言ってるの」


母の顔は真っ青だった。内科医は、精神科ではないので、一通り症状を聞いても、首をかしげるばかりだった。最近この子、犬に手を噛まれたので狂犬病ではないでしょうか、と母が見当違いなことを言っていた。それならこんな治りかたしませんよ、と先生。


だがその日を境に、私は定期的に「不安発作」を起こすようになったのだ。当時私のような症状は、発作性不安神経症と言われていた。


その後、パニック障害という病名が付けられ、その発作に効く薬が処方されるようになってから、私はずいぶん楽になった。それまでに、10年以上の月日が必要だった。

病院ジプシーを繰り返したのち、25歳のころ出逢った精神科の先生は、それまでの症状を聞くと、頷きながら言ったものだ。


「それは典型的なパニックディスオーダーですね。安心しなさい、今では効く薬があります。そして、そういう風になったことに関して、あなた自身にもあなたの性格にも、何の責任もないんですよ。大丈夫、コントロールできる病気です」

その言葉に私はどれだけ救われた事だろう。


でも今の年齢を考えると、実に長いこと、本当に長いこと同じ病気を引きずって生きてきたものだなあと思う。発作を忘れて生きていられる歳月があったとて、飛行機や特急列車や船や病院の個室に入ると、あるいは気取った会食の最中に、隠れていた妖怪が突然出てきて大暴れするのだ。


コロナのせいで見舞いは全面禁止になっていて、夫に会えるのは退院の日になる。その時まで一人でこの環境に耐えるしかない。

昨日入院してこの部屋に入ったその時から、ここは閉所だ、閉じ込められたという危機感に全身が支配され、心拍数と血圧が一気に上昇していた。このままだとまた捕まってしまう。

いや、私が恐れているのは手術だ、と言い聞かせる。腫瘍摘出という初めての体験が怖いんだ。だから、手術が終わればこの異様な緊張感もおさまるだろうと。

とりあえずそれは間違いだった。閉塞感も、居ても立っても居られない焦燥と恐怖も、少しも目減りしていないどころか、この全身拘束状態で一層悪化している。


布団の下で震えていると、I先生が二人の青年医師を連れて病室に入ってきた。


「具合はどう? 熱が出てるのは手術直後だからまあ、しかたないね。傷は痛む?」

「いえ、じっとしていればそれほどでは……」

「そう。肝臓というところは血管が集まっているので血を止めるのに時間がかかっちゃってね。腫瘍は350グラムほどあって、腫瘍ごと肝臓の二割ほどを切除しました。大体肝臓が元通りに修復するのに三か月ぐらいはかかるかな」

「三か月……」

「お水飲むのは明日まで我慢してね。それでね、辛いかもしれないけど、明日から歩く練習してもらうから。頑張ろうね」

「え、手術翌日、からですか?」

熱があるのに? けっこうむごいことを言う。

「そう、いつまでも寝てると体が固まっちゃうから。多少無理してでも頑張って」

「はい……」

「導尿管が取れるのは、自分の足で歩いてトイレに行けるようになってからだからね」


主治医が出て行ってからある恐れが頭を支配した。

ちょっと待って。

昨日、入院した日に、晩御飯が出たよね。ふつう手術前日は絶食だと思っていたのに。

お腹の中に入ったあれはどこに行くの?

歩いてトイレに行けるようになるまでなんて、三日はかかる気がする。その前にお出ましになったら、私はどういう生き恥をかくことになるの?

私が今はいてるのはどういう下着だっけ?

手術の時の脇が開くようになってた紙パンツ、それとも改めてはかされた紙おむつ?

確かめようにも頭を起こすと手術跡が激痛だし、両手は点滴だらけでどうにもならない。進退窮まった。トイレに行けるようになるまで、意地でも便意などに付き合うわけにいかない。

腹の中のイチモツよ、私がいいと言うまで出るな。腹の中で石になれ。私は祈った。とにかく、早く早く、歩けるようにならなくちゃ。

うつらうつらしながら天井を眺めていると、突然、隣の部屋から大きな咳払いの声が聞こえてきた。


ごほほ、ごほほほっ、うぇーっ。ぐぇーっほえっほえっほ。うああああ!


男性の老人のようだ。咳払いというより、叫び声に近い。それに素通しのようによく聞こえる。ここ、こんなに壁が薄かったっけ。

その奇怪な大声は、聞こえ始めてからずっと、5分おきぐらいに続いた。


ぐええええ。おほっおほっ、えっほえーっほ。うあああっ。

わは、わはははははは! ほーっほうっほうっ。シロっ!ハナっ!


どうやらボケ老人らしい。咳払いや笑い声の間に、訳の分からない独り言も交じっている。

参ったな、こういう人に眠りを妨げられないために個室にしたのに、これじゃ意味ないわと思う。

でも個室ならではの自由もある。

病棟の消灯時間は午後10時、起床時間は午前6時と聞かされていた。

大部屋なら一斉に電気が消されるのだろうけれど、個室はそんなところも自由だ。10時過ぎて入って来た看護師さんが、灯は落としましょうかどうしますかと聞いてくれて、望めば右手にある洗面台の上の電気だけ残してあとは消してくれる。


その夜は明け方ほんの少ししか眠れなかった。

わめき続けるボケ老人のせいばかりではない。

家でほぼ毎日飲んでいた精神安定剤や睡眠剤はナースセンターに保管され、水を飲むことが許される明日までは出してもらえないのだ。

脳みそに血流が集中したように、頭の芯がキリキリ緊張している。

血中酸素濃度測定器が、意味もなくピーピー鳴り続ける。腕に巻かれた血圧測定ベルトが、一時間ごとにブーと音を立てて自動的に腕を締め付けてくる。横目で数値を見ると、下110、上155。いつもは下80上110ぐらいなのに。

夜中1時を過ぎてもバタバタと看護師さんが出入りしては、熱を測り、点滴を取り換える。これで眠れというのは到底無理な話だ。シューシューと音を立てる酸素吸入器に閉じ込められた口元は汗でべったり濡れていた。

早く朝が来ればいい、意味もなくそう思った。朝が来れば何かが解決するわけじゃないけど、あのお爺さんも丑三つ時を過ぎれば力尽きて眠ってくれるだろう。朝方でいいから、少しでいいから、私も眠りたい。


考えることがないので、眠くなるまで、今までの経緯を思い出してみた。


去年の秋の人間ドックで、肝臓に丸い影が映っている、と言われたのが最初だった。出来るだけ早く大きな病院に行ってCT検査をしてください、と言われ、地域で一番大きなこの病院に紹介状を書いてもらった。

造影剤を入れてのCTスキャンとエコー検査で、直径3センチほどの「何か」があると言われた。形からみて良性腫瘍と思われるが、とにかく経過をみようということになった。定期的に病院に通って変化を見ていたが、「何か」は順調に大きくなっていった。5センチに達したとき、消化器内科の担当医が、これだけのスピードで大きくなるならたとえ良性腫瘍でも切除したほうがいい、放置すると破裂したり悪性腫瘍に変化する可能性があると言った。

一度は肝生検の予約を入れたが、医師の方からやめましょうと言われた。実のところ腫瘍が悪性か良性かは肝生検でもわからない、肝生検で調べられるのはあくまで腫瘍の一部だから。結局手術で取り出して精密検査しないと、肝臓腫瘍全体が悪性、つまり癌かどうかは結論が出ないというのだ。

「たとえ良性であると結果が出ても、私は手術を勧めますよ」

そこまで聞いて覚悟を決めて、それでは手術してください、と答えた。

夫が驚いた顔で、えっ、ほんとに手術するの? と言った。

私は答えた。他にどうしようがあるの?

そして、今に至る。


大きい腫瘍なのは覚悟していた。でも、握りこぶし大になっていたなんて。

もし悪性だったら……。

肝臓がんは転移しやすい。そして抗がん剤が効きにくいという。色々覚悟しなくてはならないだろう。もしなにかあったら、三匹の愛する猫たちのお世話は夫に頼むしかない。

あと、エンディングノート、ちゃんと書かなくちゃ。遺影にできるような写真、あったかしら……

60代の初めというのは、寿命とあきらめるには早いけれど、これと言ってし残したこともない。悪い結果だったら、とにかく残された時間を楽しく過ごそう。まず、旅だ。猫の世話は息子か娘に頼んで、夫婦で温泉に行って、美味しいものを食べ歩きして…… あ、その前に冷蔵庫の古いもの、全部捨てなきゃ。

隣の県で一人暮らししている社会人の息子も、結婚してからもバリバリ働いている娘も、私に何かあったからと言って、それほど長い間傷を引きずることもないだろう。二人とも、よくまともに育ってくれた。それでよしとしよう。


朝方、ほんの3時間ほど浅く眠った。愛猫のすみれとすずとミーシャを連れて、夜中の住宅街を散歩する夢を見た。満月が眩しく青く輝いて、踊るように歩く猫たちの影を道路に落としていた。



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[良い点]  この作品は、(一部)フィクションだ。しかし”真実”だ!  某映画の予告CMの締めのセリフのパクリっす……たぶん(笑) [一言]  とりあえず読ませていただきましたけど、実体験を元にして…
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