テンシバルには何かある
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テンシバルビーチで潜ったことは、数日後にはあっけなくばれた。司馬が、下ごしらえをしながら海底洞窟の入り口はやっぱ水が冷たいッスね、と口をすべらせたからだ。
「あなたたち、テンシバルで潜ったのね」
まかないランチを囲んでいるとき、いきなりヒミコが詰問した。フミヤと楓子はギョッとしてトキオとリカの方を見た。司馬はおにぎりを慌てて呑みこんだ。
「あのとき、潜っちゃダメっていったわよね!」
「ごめんなさい」とトキオ。こうなったら言い訳はせず謝るにかぎる。
「ごめんなさい」リカも頭を下げる。
「いやいや、悪いのは自分ッスよ」司馬が急いで言った。「ちょっとだけもぐってみようって言っちゃったんッス。ふたりとも泳ぎはうまいし、あそこまで行ったら見ないでは――」
「司馬ちゃん!」
「はいっ! すみませんでした!」
「あそこは急に潮の流れが変わったりするから、危ないんだよ」ボスも言った。「水も冷たいし、洞窟のなかは迷路だしね。ヒミコさんが潜るなっていうのは当然なんだ。みんな、何ごともなく帰れて本当によかったよ」
「はい。もう、しませんです」司馬がぺこぺこ頭を下げた。
ヒミコは腕組みをし、順ぐりに司馬とトキオとリカをにらみつけた。三人とも首をすくめて、判決を待つ被告のようにうなだれた。一分後、ヒミコはふっとため息をついた。
「反省しているならよろしい。ただし、もうあそこにはぜったい近づかないこと」
「はい!」
三人が声をそろえた。
しばらくしてリカが口を開いた。
「――実はわたし、あの日、海で小枝を取ってきたんです。それを水差しにさしておいたら、なんだか不思議なの」
「不思議って?」ヒミコが訊く。
「次の日、葉っぱの色が少し黄色くなってたんです。その翌日にはピンクっぽくなって。枯れたのかなと思ってたら、次はまたきれいな緑になったの。なんだか毎日、少しずつ色を変えているみたい。こんなことってふつうはないでしょ?」
「色の変わる葉っぱかぁ。どういうことだろ。リカちゃん、あとでそれ持ってきて見せてくれる?」
そのとき店に客がきて、その話はおしまいになった。けれど、トキオは葉っぱの話がどうしてもひっかかった。テンシバルビーチにはやはりふつうと違うものがあるのではないだろうか。
「あの、あのさ」トキオはゲストルームにもどるリカの後ろから思いきって声をかけた。リカがふり返る。「よかったら、テンシバルの葉っぱ、いま見せてもらえない?」
「いま? いいわよ」
リカは意外にあっさりトキオをゲストルームに案内した。
「はい。これよ」リカが窓際においてあったガラスの水差しを持ち上げた。「あら!? またちょっと変わった。根もすごく伸びたわ」
トキオはリカから水差しを受け取って、しげしげとテンシバルの小枝をみた。枝は十五センチほどで、そこに厚くてツヤのある大きな丸い葉が七枚ついている。いまそれは、内がわから光がさしているように青く光り、白くて太い根が何本も元気よく伸びていた。
「光ってるみたいだ。きれいだね」
リカはそんなトキオに興味を持ったらしい。
「トキオくん、どうしてこれが気になったの」
トキオは自分の考えを言ってみることにした。
「あのさ。このごろ、テンシバルの話をいろいろきいたよね。それで、テンシバルには何かがあるんじゃないかって思い始めたんだ」
「何かって?」
「もっともっと秘密がある気がするんだ」
「秘密ねえ。そういえばテンシバルの海底洞窟から、へんな生物が出てきたって司馬さんが言ってたわね。それに、洞窟の奥には空気があるとか」
「うん。それに、クマさん」
「クマさん?」
「炭焼き職人のクマさんだよ。まだ会ったことないかな。たまにお店に来る人なんだけど、すごく無愛想で怒りっぽいんだ。でも、蜂巣さんのおばあちゃんに聞いたら、昔はあんなじゃなかったって。島の人気者だったんだって」
「ふうん。で、そのクマさんがテンシバルとどんな関係があるの?」
「クマさんは若いころ海で流されて、テンシバルビーチに打ちあげられたことがあるんだ。それから、今みたいになっちゃったって」
「またしてもテンシバル」
「そうなんだよ!」
リカはトキオの前を横切ってベッドにこしかけ、あごを両手で支えて考えこんだ。
謎の海底洞窟、海からでてきたという奇妙な生き物たち。海に生えるテンシバルのシンボルと色の変わる葉っぱ。人が変わってしまったクマさん。いわれてみればおかしい……かもしれない。
「やっぱり海底洞窟がポイントかな」
「うん。ぼくもそう思う。近づいちゃいけないっていうのも、ただ、危険だからだけじゃないと思うんだよ」
「トキオくん、冴えてる。きっとそうよ。あそこに何か秘密があるんだわ。ヒミコさんもボスも、洞窟のことではすごく神経質になってるもの」
「何があるんだろう。知りたいなぁ」
「うん。すごく知りたい。トキオくん、私たちだけで、もう一度テンシバルに行ってこられないかしら」
「こっそり? ぼくはそれはしたくないなあ。それにママはああ見えて鋭いんだ」
「わかる。それに、たとえビーチに行ったって、海にはいらなきゃ意味ないしね」
「でもそんなことできないよ」
「そうね。私もあそこまで泳いでいく勇気はない。こんどこそ、ほんとに溺れちゃうかもしれないもの。」
トキオはリカが勧めてくれた籐いすにねころび、リカはベッドにどさりと倒れこんで頭の下で手を組んだ。ふたりはしばしそれぞれの考えをめぐらせた。
先に口をひらいたのはトキオだ。
「テンシバルには砂浜と桟橋だけしかなかったよね。やっぱり秘密はあの樹と海底洞窟にあると思う。でも、海底洞窟には入れない。だから、別の安全な方法をためしてみたらどうかな」
「安全な方法ってなに」
「準備っていうかさ。つまり、もっとテンシバルビーチのことを調べるんだ。ぼくたちが聞いたことのほかにも、きっと島にはいろいろと言い伝えがあるはずだよ。それをまず、調べてみたらどうかな。そのなかに、海底洞窟のことや、おかしな生き物のことがでてくるかもしれない」
「あーあ。ネットがつながればなぁ」
リカは恨めしげに机のノートパソコンを見やった。パソコンで日記をつける習慣はここでも続けている。でも、インターネットはできない。ネットにつながらないPCなんて、ただの重たいノートだ。
「いまどき、こんな場所があるなんてね」
「インターネット? そんなに便利なの?」
トキオにはリカの無念さがいまいちピンとこない。
「そうよ。便利よ。テンシバルビーチとか、海底洞窟ってキーワードを入れて検索すれば、たぶん、前に司馬さんから聞いた話なんかが出てくるとおもう。そのほかにも、いままで知らなかったことがいろいろとね。私なんて、こんなところにいるせいで、いま、パパがヨーロッパでどんなことをしているかもぜんぜんわからないのよ。手紙しかない。それも船でイトコ島から運ばれてくるやつ」
「へええ。そんなこともできるんだぁ。島は遅れてるね」
トキオにも何となく、リカの残念な気分が伝わってきた。
「まあ、そういう点で比べたらね」リカは公平になろうとした。「でも、ここには東京よりずっといいものがあるわ。おいしい魚もあるし、蜂巣さんの農場もある。インターネットのことなんて、正直にいうとわたし、いままであんまり思い出さなかったもの」
「ぼくはさ――」トキオは遠慮がちに言う。「ぼくは、なにか調べたいときは学校の図書室にいくんだ」
リカは起きあがってトキオを正面からまじまじとみつめた。
「そうよ、トキオくん。それが正統な調べ物の手順だわ!」
***
午後のお客さんが途切れた風吹亭のテラスでは、ヒミコが海をぼんやりながめながらコーヒーを飲んでいた。仕事がひと段落して、海風が吹くテラスにすわり、熱く濃いコーヒーを飲むのはヒミコの至福の瞬間だ。
この一瞬のために、自分はこの島にやってきたのかもしれない――このごろそんなふに思うこともある。
以前のヒミコはこうではなかった。仕事をしていても、家事をしていても、いつも何かにせき立てられるようで、落ち着かず不安だった。
ヒミコがトキオを連れてこの島に来たのは、半年前。木枯らしがびゅうびゅう吹く冬の日のことだ。イトコ島で風がおさまるのを三日待ち、その間隙を縫うようにして、ふたりは島にたどり着いた。
東京しか知らないトキオにとって島はまるで世界の果てと感じられたにちがいない。ヒミコの手を握る小さな手は氷のように冷たく緊張していた。
船を下りると、ヒミコは風の中をまっすぐ風吹亭に向かった。新しい白いペンキを塗ったドアに見覚えのある「風吹亭」のプレートがかかっているのをみつけたとき、体中の力がぬけた。よかった。あった。
そのとき、内がわからドアが開いた。相上だった。少し驚いたように「いらっしゃい」と言った。
「ヒミコです」
相上は一瞬、怪訝そうにヒミコをみつめ、それから大きく目をみひらいた。
「よく来たね」
今度はゆっくり、一語一語に力を込めた。相上はそれからヒミコのとなりに目をやった。
「息子です。トキオといいます」
相上は頷きトキオの頭をなでた。そして、二人を薪ストーブの前に連れて行き、そこにいた二匹の猫をトキオに紹介し、熱いココアを運んできた。
その翌日、ヒミコは風来坊をチェックアウトして、トキオの手を取り、ふたたび風吹亭に行った。その日からヒミコは風吹亭の従業員になり、母子は店の近くの一軒家を借りて暮らしはじめたのだ。
ありがたいことにトキオはすぐに島が気に入ったようだった。東京の学校では中学受験が話題になりはじめた頃で、トキオは窮屈だったにちがいない。トキオが持ち帰る通信簿はおせじにも優秀とはいえなかったが、五年生の二学期、そこに書かれた先生のことばがヒミコの注意をひいた。
「歴史に対して並々ならぬ意欲と関心をもち、図書室の歴史書をほとんど読破している」
担任はそう記し、この方面の力を伸ばすよう助言していた。ヒミコはそれを二度読んだ。
自分も図書室にあった歴史ものを読みあさったものだ。
「血筋ってやつかな……」ヒミコはつぶやいた。
「考えごと? めずらしいね」
いつのまにか相上が来て、マグカップを手に、ヒミコとならんで腰を下ろした。
「ちょっとね。半年前のことを思い出していたのよ」
「あの日は大風が吹いていた」
相上は海のかなたに目をやり、コーヒーをすすった。
「もしも、風吹亭がなくなってたら、わたしたち途方に暮れてたわ」
「風吹亭はいつもここにあるよ。ぼくが生きてるかぎり」
「あの日、私たちを何もきかないで迎えてくれてありがとう」
「なにをいまさら」
「今までちゃんとお礼をいったことなかったし」
「礼をいうようなことじゃないさ。あれから、ヒミコさんには大変なことがたくさんあったにちがいない。トキオくんをみたとき、それくらいはぼくにも想像はついたよ。それでも、風吹亭を思い出して、こんなところまで来てくれた。トキオくんという子を連れて。正直、ぼくはすごくうれしかったね。お礼をいうとしたらぼくの方だ」
「うれしかった?」
「そうさ。何十年たってもまたここを思い出してくれる人がいる。だからぼくも風吹亭をつづけていられる」
「だれがどう思おうと、みんなが店のことを覚えていようと忘れてしまおうと、かまわず迷わず進む人だとおもってたわ」
「それは誤解さ。ぼくも弱い。ぼくもみんなの助けがあってここで生きてる。これはまちがいない」
「なんだかくさいセリフね」
相上は笑った。
「それにしても、ここでコーヒーを飲むのはいい時間だろ。ぼくはこの一瞬は、ほかの何とも取りかえたくない。さて、そろそろ夜の仕込みにはいるとするか」
相上はヒミコの肩をポンとたたいて立ち上がった。