人が変わったクマさん
7
トキオはまた足どり軽く風吹亭に通うようになった。
ボスはいつでも好きなときに店のテーブルを使っていいと言う。それでトキオは朝ご飯の片付けと洗濯を終えると『夏の練習帳』と海水パンツをカバンに入れて風吹亭に"通学”する。
最近は風吹亭のテラスで潮風に吹かれながら宿題を済ませるのがトキオの日課になった。ころあいを見てボスか楓子がレモネードを持ってくる、ごほうびに。宿題をやるのはトキオの仕事だから、ごほうびをもらうのはおかしいが、トキオはありがたくちょうだいする。
トキオは国語と社会が好きだ。とくに歴史はワクワクで推理小説みたいだと感じる。家には歴史の本がたくさんあるが、トキオにはまだ難しいものが多い。その代わり、学校の図書室にある日本と世界の歴史シリーズはもうぜんぶ読んでしまった。
反対に算数は全くダメだ。ヒラメキというものが自分にはまったくないとトキオは思う。頭をかかえていると、ヒミコがいちおういっしょに考えてくれようとするが、うなるばかりでさっぱり進まない。私は文系だったからねと、最後にヒミコは言う。けど、小学生の算数が解けないレベルっていうのは、文系とか理系以前の問題じゃないだろうか。
いま、トキオを悩ませているのは「速さ」の問題だ。
≪90㎞の道のりを時速40㎞で進むと何時間何分かかりますか。≫
これが解けるのにまる一日かかった。それも大人たちの助けを借りて。
最初、司馬がトキオのノートをチラッと見て車の運転を思い出し、すぐに「二時間っとちょっとッスね」と胸をはった。が、トキオがちょっとって何分? どんな式? と訊くと逃げてしまった。
そのあとフミヤが通りかかって、「90割る40だよ、トキオくん」と教えた。余りは? と計算を終えたトキオが顔をあげたときには、フミヤもすでにいなかった。
結局、ボスが昼休みの時間をさいて、余りの「10」は「10分」ではない、ということを根気よくトキオに教えた。
今日の問題は、「分速120メートルで9分40秒進むと何メートル進めますか」という、これまたトキオにとっては難題だ。「時速」と「分速」は似ている。関係があるに違いない。でも、トキオにとってこの問題もまたそうとうハードルが高い。
トキオはしばらく問題とにらめっこし、算数の教科書をめくったりノートを見たりしたあと、だれか助けてくれそうな人はいないかとあたりを見回した。
ボスと司馬は奥でランチの仕込み中。ボスは寸胴なべのホワイトソースにつきっきりで、司馬はヘッドホンをつけてジャガイモの皮をむいている。楓子はモップで床磨きに余念がなく、ヒミコはテーブルを拭いたり花を飾ったりしている。フミヤも台車に積んだビールケースを運んでいる。
皆、トキオに質問されないように、わざと忙しそうにしているんじゃないかと思うくらい熱心に動いていた。
トキオはため息をついた。今日はいちおうがんばったから、練習帳はやめて泳ぎに行こうと決めた。
トキオは宿題をカバンにしまい、それをキッチンの奥のパントリーに置かせてもらった。ついでにサッと海水パンツも履いてしまう。そしてヒミコにひと声かけて外に出た。
今日のビーチにはいつもよりたくさんのパラソルが広がり、ビーチバレーをしている若い男女がたくさんいた。数えてみると十人だ。今日のランチタイムは混むかもしれないな、トキオはそんなことを考えながら、まずはいつもの場所に蜂巣さんのおばあちゃんの姿をさがした。
おばあちゃんは黄色とオレンジの大きなパラソルの下で、タオルを広げた椅子に座って誰かと話していた。パラソルの陰になって相手の顔は見えない。わきにベビーカーがある。お孫さんは眠っているのだろう。
トキオは「こんにちは」と言いながら近づいていった。おばあちゃんがこっちをむいて手招きした。なんと話し相手はリカだった。そばにハナちゃんがお座りしている。リカはトキオを認めると一瞬気まずそうな表情をみせ、すぐにそれを消して笑いかけた。
「泳ぎにきたの?」
リカの方からトキオに話しかけたのは初めてだ。トキオは一瞬にして心が軽くなった。
「うん。宿題おわったから」
リカはいつものステキなワンピースを着て大きなツバの麦わら帽子をかぶっている。足元はかかとの高いサンダルで、ひもを足首に巻き付けて結んでいた。海水パンツにティーシャツ姿の自分は完ぺきにガキだとトキオは急に恥ずかしくなった。
「蜂巣さんのおばあちゃんにレモネードの作り方を教わってたの。こんど、いっしょに作らせてもらうのよ。養蜂場にも連れてってくれるんですって」
「わあ! いいなあ」
トキオは思わず声を上げた。蜂蜜を採るところをいちど見てみたいと思っていたのだ。
「トキオくんもおいでなさい」おばあちゃんが誘った。
「え? ぼく?」
「おいでなさい。それで、レモネード、ヒミコさんに持ってっておやり」
「いいの?」
トキオは許可を得るようにリカを見た。
「トキオくんも、行きたい?」
リカはハナちゃんの頭を撫でながらうつむいたまま訊いた。
「えっと。……うん。行きたい。蜂蜜を集めるところを見てみたい」
「じゃ、決まりね。いっしょに行きましょ」
リカが顔を上げた。笑顔だった。
リカは楓子の手伝をするといって、すぐに帰ってしまった。ハナちゃんもトコトコついていく。トキオはしばらく所在なくおばあちゃんと並んで座った。
「トキオくん。あんた、リカちゃんが溺れてるのを助けてくれたんだってね。ありがとうね」
「え? いや。ちがうんだよ」
トキオはあわてて手を振った。
「ちがう?」
「ふざけて遊んでただけだったのに、ぼくが溺れてるって勘違いしちゃったんだよ」
「え、なに?」
「勘違いだったんだ!」トキオは声を大きくした。
「勘違いだったんかい――」おばあちゃんは納得がいかないように首をひねった。「さっきリカちゃんはトキオくんに助けられたって言ってたよ」
「ほんと?!」
トキオは信じられなかった。あの日、リカは本気で怒っていたのだ。
「この島では、誰かがだれかをいつも気にかけてるのね。そういうの、うれしいことね。そんな風に言ってたねえ」
トキオは感心してしまった。なぜならそれはトキオがいつも感じていたことだったからだ。
東京にいたときには、母のヒミコとふたりきり、誰にもかえりみられずに世界の片隅でひっそり生きてるような感覚があった。今思い返せば、それはけっこう被害妄想的な思いこみだったかもしれないのだが。でも、島に来てからはそんなふうに感じたことが一度も無かった。
「おばあちゃん――」トキオは思いきって気になっていたことを訊いてみた。「クマさんは前はあんなふうじゃなかったってほんと?」
「うん?」
「クマさんのこと」トキオはくり返した。
「ああ。クマさんのことかい。そうさ。昔はいい男だったよ。うちのせがれと同級でね。いっしょになってようく遊んでたものさ。いつもきげんがよくて、親切で、島いちばんの人気者だったのさ」
「それがどうして今みたいになってしまったの?」
「それはねぇ――」おばあちゃんは手を伸ばしてパラソルの向きを変え、トキオのほうに日陰をつくった。「もうだれにもわからないねえ。今となってはね」
「何かあったの?」
「まあ、そうさね」
「海で?」
「ああ」
「もしかして、溺れたの?!」
「船が流されたには違いないがね。あのときは、島のみんなが心配したさね。けど、助かってからこっち、あの男は何も話さなくなったんでねえ。どういうわけか人が変わったように無口になってしまったのさ。みんなあれこれ世話をしたり元気づけようとしたんだよ。けど、結局は島のみんなを遠ざけて、山小屋で一人で暮らすようになってしまってさ。わたしゃ、それが不憫でねぇ」
おばあちゃんはタオルで目頭をこすった。
「おばあちゃん、クマさんはどこでみつかったの」
「テンシバルさ。四日後にテンシバルの浜に打ちあげられてるのが見つかったんだよ」
「テンシバル……!」
テンシバルにはやっぱり何かある――。おばあちゃんは、考え込んでいるトキオをしばらくそっとながめていた。
「さあさ。泳ぎにきたんだろ? 気をつけていきなされ。わたしはそろそろご飯の支度にもどらんと」おばあちゃんは帽子をかぶり、よっこらしょと腰を上げた。
「トキオくん」おばあちゃんがベビーカーを押しながらふり返った。「クマさんをあんまり怖がらないでやっておくれ」