都会から来た少女
3
リカは、父と相上さんの話が当分終わりそうにないのをみてとると、「風吹亭」を抜けだして散歩に出ることにした。どこからか白いむく毛の犬がついてきた。カタロニアン・シープドッグだわ、とリカは思った。ママが昔飼ってた犬だからすぐにわかる。もちろん、写真でしか見たことはないけど。
ビーチは島の北側にかたまってるんだよ、と教えられたとおり、「風吹亭」から五分も歩かないうちに白い砂浜に出た。左手の港には何艘かのヨットと、これから父が乗って帰る定期船が停泊している。数時間前にリカは父といっしょにあの船を下りたばかりだ。本当はここで一週間過ごし次の定期船で帰るはずだったのに、風が強くて出航がまるまる一週間も遅れたため、トンボ返りしなくてはならなくなってしまったのだ。
リカは船員たちが接岸ロープを投げたり、フェリーの周囲を点検したりして忙しく動き回っているのをしばらくふくれっ面で眺めた。そばでむく毛の犬がリカを見あげてクゥーンと啼いた。
リカは港にくるりと背を向けると、白い砂を乱暴に蹴ちらしながら歩きだした。沖の方では黒いウェットスーツを着たサーファーたちが波が来るのをしんぼう強く待っていた。「おあいにくさま」とリカは口に出した。昨日までの高波が嘘みたいに今日の海はぺったり凪いでいる。
「そうやってお行儀よく浮かんでなさい。でも、いつまで待っても良い波は来そうにないわね」
きれいなビーチに人はまばらだ。パラソルがほんの二つ三つ広げられていて、孫のお守りをまかされたおばあさんたちが、小さな折りたたみ椅子にすわって、おしゃべりに興じている。
――こんな島でひと月も耐えられるかしら。
リカはまた不安になった。パパといっしょにヨーロッパに行けたらよかったのに。
リカの父はある機械メーカーと共同で開発した新型の医療器具を売り込みに、あさってドイツに発つことになっていた。いちおう本業は医者だ。フリーランスの。
フリーターの医者!? そんなのってあり? 友だちにはよくそう言われる。以前は大学病院に勤めていて、出世競争のコースに乗りかけた時代もあったらしい。けど、あるとき、そんなこと一切がバカらしくなってしまったのだ。事情はよく知らないけど、リカは父の選択は正しかったと思う。
そんなわけで、父はお呼びがかかると病院に雇われて手術をする。父が腕のいい脳神経外科医だってことはリカの自慢のひとつだ。そのかわり、呼ばれなければどこまでもヒマだから、そんな時間を二人は楽しく過ごす。
リカに英語を教えてくれたり、PTAで活躍したりもする。けれどここ一年ほど、父は新しい医療器具の開発に夢中だった。そして、ようやくそれが完成したのだ。手術をするロボットに取りつけて、人間の手の代わりをするものらしい。それがあれば、患者さんの身体への負担がうんと軽くなるんだよ、と父は言った。あさってから、父はメーカーの人たちと一緒にまずドイツに行って売り込みをする。そのあとは、興味を示してくれた相手と個別に交渉をしたりする。
いくら夏休みでも、今回ばかりはリカを連れて行くわけにはいかないんだよ、と父は済まなそうに言った。もちろんそれはリカにもわかっていた。それに、そんな父の生き方をリカはかっこいいとも思っているのだ。けれど、納得できなかったのは、父の留守中、島で過ごさねばならないことだった。なぜ祖父の家ではいけないの? とリカは文句を言った。これまで父が泊まりがけの仕事のときにはいつも世田谷にある母方の祖父のところで過ごしてきた。父は口の中でなにかごにょごにょ言ったけど、結局リカにはよくわからなかった。
ともかく、きっと島が気に入るさと父は請けあった。もう中学生になったんだから、島でひと月くらい暮らせるだろう? だいたい、リカは家の中にいすぎるんだ。たまには本やパソコンから離れて外に出なさい。わかったね。
だからって、とリカは思う。パパはなんでこんな辺鄙な島を選んだんだろう。フェリーは週に一便だけ、それも風が強ければ欠航だ。何よりショックだったのは島にインターネットがないことだ。いまどき、そんな場所がこの日本に存在するなんて信じられない。
でもたしかに、父が言っていたとおり島は美しく「風吹亭」はすてきに居心地がよさそうだった。エメラルドグリーンの海を見渡せる風が吹くテラスも、店のすみっこにしつらえられた黒光りする薪ストーブも、その前に陣取っている二匹の猫も。
今朝、「風吹亭」で相上さんにあいさつを済ませると、奥のゲストルームがリカの部屋だから、行って荷物の整理をしてきなさい、と父が言った。ゲストルーム? てっきり民宿かなんかに預けられると思っていたリカはおどろいた。
「風吹亭」の裏の渡り廊下を進んだ先にあるゲストルームのドアを開けて、リカは息をのんだ。
東京のリカの部屋の倍くらいある明るく広い空間だ。壁紙は新しく張り替えられた上品な薄桃色。手作りらしき木のベッドには、リカの大好きなリバティプリントのカバーがかかり、ふかふかの大きな羽根枕が四つ。ベッドに横たわると、傾斜した天井に丸い天窓があった。カーテンは落ち着いたピンクとベージュのストライプ。そばに飴色に使い込まれた古い籐の寝椅子があり、窓の外は涼しそうな木陰だった。二本の木の間にハンモックが渡してある。あそこで本を読んだらきっとすてきにちがいない。
明るいパイン材の床には、元気な色のラグが三つ。ベッドのとなりに小さな書き物机と本棚、そして部屋の反対側は天井まであるクローゼットになっていた。認めたくはないけど、世田谷の祖父の家だって、ここまでリカの理想どおりではない。
リカはピンクのスーツケースを開けた。机の上に宿題のノートとパソコンを置く。インターネットがつながらなくたってこれを持ってこないわけにはいかない。たくさんの本も本棚におさめた。ワンピースやサンダルや帽子を仕舞ってもクローゼットは四分の一も埋まらなかった。リカには部屋を見わたして満足のためいきをもらした。
「風吹亭」に戻ると、二人はまだ楽しそうに話しこんでいた。リカは、相上さんが父のことを「グンジ」と呼んでいるのを耳にした。父を名前で呼ぶ人なんてリカはこれまでに会ったことがない。ずいぶん親しい間柄のようなのに、どうして父はこれまで島のことを話してくれなかったのだろう――。
むく毛のカタロニアン・シープドッグは、忠実な家来のように、波打ち際を歩くリカのそばを遅れもせず前にも出ずにぴったりくっついている。リカはしゃがみこんだ。
「おりこうさんね。名前は何ていうの?」
犬は丸い目にかかった毛をふりはらうように頭をかしげた。
「じゃあ、ハナちゃんにしましょう! いい? あなたはハナちゃん」
犬はまた首をかしげ、それからひと声ワンと吠えた。
一時間ほどたって息を弾ませたリカが「風吹亭」に戻ってくると、父と相上さんの姿はなく、代わりに鮮やかなピンク色のお下げ髪の女の子がひとりでテーブルを拭いていた。リカは「こんにちは」と声をかけた。
お下げの女の子はビクッとして顔を上げ、それから頭を下げた。二本のきれいな三つ編みがたらりと揺れた。
「あの、私、リカです。橘リカ。あのう……相上さんと父がどこにいるかご存じありませんか」
楓子ちゃんはだまって右手で店の奥の方を指さした。
「あ、向こうですか。ありがとうございます。……あの、それから、どこか手と足を洗えるところ、ありませんか」リカは汚れたスカートを広げてみせた。
楓子ちゃんは今度はテラスの方を指さし、リカの前に立って歩きだした。リカは砂だらけの脚をしたハナちゃんといっしょに楓子ちゃんのあとについていった。テラスの端に足洗い場があった。リカはお礼を言い、ホースでハナちゃんの足に水をかけて洗ってやり、それから自分も手足にこびりついた砂をたんねんに洗い落とした。
ふり返るといつのまにかバスタオルを両手に乗せた楓子ちゃんが立っていた。リカは楓子ちゃんが差し出してくれたタオルで身体を拭き、そのあいだ、楓子ちゃんは両手を前できちんとそろえてまるで侍女のように待っていた。
「ありがとうございました。あの、わたし、今日からここでお世話になります。あなたのお名前おしえてくださいますか?」リカは風変わりなピンクの三つ編みから目が離せなくなってしまった。なんてつやつやなんだろう。
「ふーこ」楓子ちゃんはやっと聞き取れるくらいの声で答え、かすかにほほえんだ。それから「もうすぐランチ」とささやき店の中に走り去った。
残されたリカはタオルを手に持ったまま、ちょっとのあいだ考えた。ともかく、この服を着替えないことにはランチは無理だ。そこで「風吹亭」の庭伝いにゲストルームまで戻ることにした。途中で相上さんの菜園をみつけた。つやつやしたナス、濃い緑のオクラ、熟れたトマト、ピンと立ったコマツナ、ミントやニガウリやレモングラスなどにまじって、ナスタチウムやマリーゴールドも咲いている。
ゲストルームでは父が籐いすに座って雑誌を見ていた。
「おや? これがうちの本の虫のお嬢さんかな」父は笑った。「どうだ? ここ、気に入ったろう」
「まだわからないわ」
リカは澄まして答えた。それからクローゼットを開け、とっておきのワンピースを取り出した。ずっと欲しかったリバティのサンドレス。島に行く代わりに父が買ってくれたのだ。
「もうすぐお昼ごはんだ。相上さんの料理はうまいぞ。着替えたらお店に来なさい」
さっきは気づかなかったが、クローゼットの脇にあるノブをひねると、奥はヨーロッパ風のタイル貼りの洗面台とトイレとシャワールームになっていた。壁紙はピンクのリバティプリント。
「完ぺき」リカはにんまりした。
「風吹亭」にはそろそろお客さんが集まりはじめていた。観光客はリカにもだいたいわかる。サングラスをかけ、リゾートっぽいプリントのドレスを着て、デジカメをテーブルに置いている。ガイドブックを熱心に読んでキョロキョロしていることも多い。
でも、今、お店にいるのは地元のお客さんばかりのようだ。みんな、厨房にいる相上さんに「やっ!」と片手を上げ、楓子ちゃんに「今日もかわいいね」なんて気安く声をかけたりしている。
リカが父といっしょにテラス席に座ると、楓子ちゃんがランチを運んできた。相上さんが用意してくれたのは、ズワイガニのトマトクリームパスタ。リカの好物だ。焼きたての丸パンとコンソメスープとオクラのサラダもついている。
明日から父と離れて過ごすのだということを、リカはなるべく考えまいとした。しかもそれが、日本とヨーロッパだということを。それに、父はひと月といったけれど、正確には五十日だ。
ふと見ると、ハナちゃんが木陰から二人を見守っていた。
「あの子ね」とリカは言った。「ハナちゃんて名前つけたの」
「うん?」
「あのむく毛よ」
父はリカの指さす犬にやっと気がついた。
「ああ、そうか。うん? あの犬はたしか」
「カタロニアン・シープドッグよね」
「そうだ。よく知ってるな」
「だって、ママが子どものころ飼ってた犬でしょ?」
「……ああ。そうだ。そうなんだ」
父は眩しそうに目の上に手をやり、眉間にしわを寄せた。
「前に写真で見たことあったから……ごめん」
「これ、うまいなあ」父はテーブルに目を落とし、くるくるとフォークにパスタをまきつけた。「知ってるか? イタリア人はこうやってフォークに巻きつけて食べたりしないらしいぞ」
リカがだまっていると、父はさらに続けた。
「相上さんは料理の天才だな。いや、なんでもできる。現代のレオナルド・ダ・ビンチじゃないかと思うね。あの畑もみごとだったろ?」
「うん」
「リカ、いいか、困ったことがあったらなんでも相上さんに相談するんだぞ」
父があまりに真剣に言うので、リカも「わかった」と神妙に答えた。
それからしばらくふたりは熱心にパスタを食べた。食事がおわると楓子ちゃんが飲み物を運んできた。パパには熱いコーヒー。リカには冷たいレモネード。
「楓子ちゃん、娘のリカだ。仲良くしてやってくれないか。リカ、こちらは楓子ちゃん」
「さっきはどうもありがとうございました」
リカは改めてお礼を言った。
「なんだ?」父は二人を見比べた。「もう知り合いになったのか?」
「さっき、タオルを貸してもらったのよ」
「そうか。そうか。楓子ちゃんはすごく気が利くんだよね。リカも見習うといい」
「あのさ――」リカは楓子ちゃんが去ると切り出した。パパが相上さんを信頼しているのはわかった。でも、なんだかどこかがひっかかるのだ。「さっき、相上さんがパパのことグンジって呼んでたでしょ。それってあまりないことだよね。パパと相上さんはどんな知り合いなの?」
「さすがだな。リカは」父は鼻の頭をかいた。「世田谷のおじいちゃんだってグンジくんって言うしな」
「同級生?」
「まさか。パパと相上さんが同い年にみえるか?」
「じゃあ、なに?」
「なに……っていわれてもなぁ。うん。だいぶ前だけど、パパは一度だけこの島に来たことがあるんだ」
「そうだったの?」
「大学病院にいたころ、友達の結婚式があったんだよ。イトコ島で」
「イトコ島って、あの、けさ船に乗ってきた大きな島?」
「ああそうだ。十五年以上も前だ。あの頃はイトコ島も辺鄙な場所だったよ。東京から飛行機と船を乗り継いでさ。それで、結婚式がおわってさあ帰ろうって段になって、この島で急病人が出たと連絡が入ったんだ」父は記憶をたどった。「医者の結婚式だから、招待客もやっぱり医者が多い。たまたま式にイトコ島の総合病院の先生がいたんだが、病人は島から動かせない状態だった。こういうとき、離島ってたいへんだな。島にはヘリポートもないし、だれかの漁船かヨットに乗せてもらうか、自衛隊に水陸両用艇を要請するかしかできない。でもその時はちょうど島に向かう週一度の船が出るところだった。で、パパが行くことになった」
「この島にはお医者さんもいないの?」
「いや医者はいたよ。あのころも。でも、手術なんかになると、イトコ島の総合病院に行くことになってるんだよ。それは今も同じさ。でもパパは外科医だからね」
「それから?」
「病人はひどく出血していてショック状態だった」
「わ!」
「でもなんとか助かった」
「へえ。じゃあ、パパ、いいことしたね」
「そうだな。けど、ほんとうはいいことをしてもらったのはパパの方だったんだ」
「どういうこと?」
父はコーヒーをゆっくり一口飲んだ。
「パパはあのゲストルームに次の船が出るまで泊めてもらうことになった。リバティプリントはなかったけどな」父は笑った。「その日からもう、毎日ごちそう責め。けど、いちばんよかったのは、相上さんや島の人と毎晩酒飲みながら、くだらないことを喋ったことだった。なにしろ、あのころパパは毎日二十時間近くも働いて、病院の夜勤なんかもいくつも掛け持ちして、立ち止まって何か考えるなんてまったくできなくなってたんだ。なにもパパだけじゃない。研修医の大半はそんな生活さ。むしろ、立ち止まって考えはじめたらおしまいなんだよ。リカにわかるかな」
「うーん。よくわからない」
「今思えば、そんな状態なのを見かねた上司がパパを島に行かせてくれたんだろうな。島を去るとき、いつかきっとまた戻ってきますと相上さんと約束した。島の医師になろうと真剣に考えた時期もあったよ。結局、そうはならなかったけどさ。でも、大学病院を辞めたことや今の仕事なんかは、めぐり巡ってここでの体験からつながってる」
「ちょっとまって、じゃ、相上さんはそんな昔から風吹亭をやってたの?」
「そうさ。ずっとここはある。あの時と変わらずに。島のシンボルみたいなもんさ。風吹亭がなければ島もぜんぜん違うところになってるだろう」
「ふうん……」
「相上さんはたぶんパパより十歳は上だ。そのくらいリカにも見当つかないかなぁ」
「そんなこと言ったって……」大人の年齢なんてわからない。「あんな髭面じゃ齢なんてわからないよ。それに」
「それになんだ?」
「うん……」リカは言い淀んだ。「相上さんのこと、わたし、信頼していいかどうかわからない」
「ほう?」
「だってさ――」趣味のいい食器やインテリア。元気よく育った野菜。料理の達人。島中の人に愛されるお店。リカは頭の中で数え上げた。「できすぎじゃない。珊瑚礁に囲まれた美しい島の、すてきなお店の店長さんなんてさ。たしかに相上さんていい人かもしれない。まるで絵に描いたように。でもなんか、そういうの、わたし、そういうの信じられない」
父は椅子に深く座りなおし、リカをまじまじとみつめた。満足そうに。