新入りフミヤ君
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ヒミコの話にトキオの想像をプラスすると、ゆうべフミヤ君がおこした「事件」というのはだいたいこんなふうだった。
ボスに声をかけられたフミヤ君は「風吹亭」で働くことを決めた。それがおとといの夜のことだ。そこまでは、まあよかった。
よく朝、さっそくフミヤ君は遅刻してきた。トサカのような寝癖髪に、チェックのハーフパンツと白いTシャツのフミヤ君がおずおずと「風吹亭」に姿を現したのはもうお昼近くだった。店では母と楓子ちゃんが忙しく働いていた。司馬ちゃんは「イトコ島」に出かけていなかった。
イトコ島はこのあたりで一番大きな島の名前だ。島では手に入れることができないもの、たとえば「風吹亭」のキッチンで使っている趣味の良い食器とか、大鍋とか、注文で取り寄せた中華せいろとかはイトコ島まで取りに行かなければならない。電気製品がこわれて買い直すこともある。島の特産品の一つになっている鮮やかな色の紐を編んでつくる敷物の材料も、イトコ島に行けばいろいろと手に入るから、島の女の人たちは定期的に仕入れにいく。郵便物や新聞や小包なんかもイトコ島までしか来ない。
だから、週に一度の定期便は、島の人にとってはちょっとワクワクする船なのだ。司馬ちゃんは月に二度、店で必要なものを買い出しにイトコ島に渡ることになっていた。
いま、島にはささやかな観光シーズンが訪れている。きのうのランチタイムには、頭から水をしたたらせたダイバーが数人テラス席に座っていたし、珍しく養蜂家の蜂巣さんが奥さんとおばあちゃんを連れて来ていた。
蜂蜜を集める仕事をしている人が「蜂巣」さんなんてできすぎてるわよね? ヒミコは蜂巣さんの話が出るといつも言う。
蜂巣のおばあちゃんはボスのお粥が大好きなのだ。そのほかに、島の常連さんが三人とガイドブックを広げた若い二人連れの女の子がいた。
これだけでも「風吹亭」のランチタイムがてんてこ舞いになるのは確実なのに、きのうは間のわるいことにクマさんが来ていた。
クマさんはその名の通り熊みたいに大きなからだをした男の人だ。日焼けした顔はヒゲでおおわれ、指も爪もまっ黒で、いつも不機嫌でだれとも口をきかない。クマさんは島の南側にある山のてっぺんの小屋で一人で暮らしている。そして月に一度か二度、山をおりてくる。まるで餌を求めて里におりてくる熊みたいに。
クマさんは炭焼きなのさ、とても上等な炭をつくるんだよ、とボスが教えてくれたので、トキオは初めて「炭焼き職人」という職業があるのを知った。そしてもちろん、「風吹亭」で使う炭はクマさんから買っているのだ。
この日のクマさんはいつもよりいっそう虫のいどころが悪そうだった。店中のお客さんを順ぐりににらみつけ、走りまわっている母と楓子ちゃんをずっと目で追っていた。
そのうち楓子ちゃんが何かにつまずいた。
ガッチャーン! と派手な音がして、割れた食器と料理が床に散った。
楓子ちゃんはクマさんに負けないくらい無愛想だけど、ハッとするほどきれいな女の子だ。顔は日本人形みたいで、長いまつげに囲まれた眼はすごく深くて涼しそうだ。あの瞳の中に飛び込んで泳いだらどんなに冷たくて気持ちがいいだろう……トキオは楓子ちゃんに会うたび、そんなへんな想像をしてしまう。
けれど、楓子ちゃんの中で何より目立つのは、ショッキングピンクに染められた長い髪だ。それは仕事のじゃまにならないようきちんと二本の三つ編みになって楓子ちゃんの背中に垂れている。楓子ちゃんはうつむいて床にかがみこみ、急いで落ちた物を拾いあつめた。
そのときだ、クマさんが怒鳴ったのは。
「おい、そこの若えの! ほら、おまえのことだよ。さっきからボケーッと突っ立って。このねえちゃんが転んだのがおまえのせいだってわかんねえのかよ! おまえの脚に引っかかったんだよ。俺ぁちゃんと見てたんだからな。おまえ新入りか。あ? 仕事ができないんなら引っ込んでろ!」
楓子ちゃんはクマさんの剣幕がまるで聞こえないかのように黙々と床を片づけ続けた。ガイドブックにかがみこんでいた女の子たちは黙って顔を見合わせ、そのままそうっと席を立って出て行ってしまった。蜂巣さんのおばあちゃんだけは耳が遠いので騒動には気づかず、お粥が運ばれてくるのをただひたすら待っていたそうだ。
ヒミコは「あっ……」と小さな声を発したまま突っ立っているフミヤ君を一瞥し、クマさんに、お騒がせしてすみません、いますぐお料理お持ちしますからねと謝った。
ボスはこの騒ぎの間も手を止めずに奥で料理をつくり、でも事態はしっかり把握していた。店長として最終的な責任は相上さんがとるけど、本人に考えさせ、決めさせ、行動させるのがボスのやり方なのだ。
ボスはクマさんと目が合うと、厨房の奥から頭を下げた。クマさんもそれに気づき、ふんっと鼻を鳴らすとそれきり腕組みをして目をつぶってしまった。
フミヤ君は口もとに弱々しい笑みを浮かべ、なおしばらくその場に不器用に立っていたけど、やがてお客さんに背を向けて静かに出て行ってしまった。
遅いまかないを囲んだとき、ヒミコが言った。
「フミヤ君、きっともう来ないね」
「そうかもしれないなぁ。しかたないさ。決めるのはフミヤ君だ。楓子ちゃん、けがはなかったかい?」
ボスの問いに楓子ちゃんはだまって首を横に振った。
「今日は司馬ちゃんがいなかったしねえ。お客さんもいっぺんに来ちゃったし、間が悪かったわね」炊き込みご飯をつめたお稲荷さんを取ってヒミコは続けた。「でもさ、フミヤ君て、たしか風来坊ひきはらって司馬ちゃんとこに居候してたんじゃなかった?」
風来坊というのは島にたった一つのおんぼろホテルの名前だ。へんな変な名前をつけたものだ。
「うん。でも、司馬ちゃんは今朝早くイトコ島にでかけて留守だったからね。もっとも、司馬ちゃんがいたってどっちにしても放っておいただろうけどさ。ま、フミヤ君にもあれでいろいろとあるんだよ」ボスが言った。
「フミヤ君も訳ありってわけか……」
「ぼくらみんなと同じにね」
ヒミコは肩をすくめた。
「まあ、そうね。風吹亭は訳ありびと大歓迎の店だもん。ね、楓子ちゃん? ここはそういうところよね」
でも、フミヤ君のことはそれで終わりではなかった。
もうフミヤ君は来ないと、ボスもふくめてみんなが思っていたのに、ゆうべ、またフミヤ君は現れた。そういうこところがフミヤ君のフミヤ君たる不思議なところだとヒミコは言う。
フミヤ君は例の困ったようなあいまいな笑いをうかべてまず楓子ちゃんに「おはようございます」と間の抜けたあいさつをした。これはみごとに無視された。つぎにヒミコにぺこりと頭を下げた。ヒミコは一瞬ことばに詰まったけど、すぐに「おかえり」と笑顔を返した。フミヤ君が戻ってきてくれて嬉しかったのだ。
フミヤ君はひとつ息をついてからカウンターの奥でグラスを磨いているボスのところに向かった。ヒミコと楓子ちゃんがそれとなく様子をうかがう中、フミヤ君はボスに頭をさげた。
「ぼく、やっぱりここで働かせて下さい」
「いいよ」
それがボスの答えだった。
それからボスは楓子ちゃんを呼んだ。そして、楓子ちゃんにフミヤ君の教育係を申し渡した。楓子ちゃんはまっ赤になって抗議しようとしたけどことばにならなかった。フミヤ君はうれしそうに楓子ちゃんを見て「よろしく」と右手を差しだした。楓子ちゃんはそっぽを向いた。
そこからが大変だった。楓子ちゃんのショッキングピンクの髪だけしか見ない人は、今どきの女の子だと思うかもしれないけど、楓子ちゃんはそういうのとちょっとちがうのだ。
まず、楓子ちゃんはほとんどなにも喋らない。楓子ちゃんが笑ったらすてきだろうとトキオは思うけど、日本人形のような顔はいつも固まったように動かず、必要最小限の「はい」と「いいえ」しか言ってくれない。
でも、何度も言うけどとびっきり美人なので、「風吹亭」には楓子ちゃんファンがすごく多い。余計な話をしないからそこがいいんだなぁと、あるお客さんはしみじみ言う。そういうものかもしれない。なにしろ、「風吹亭」に来る人たちは抱えこんでいるものが多いから。いろんなものを。
フミヤ君は彼なりに一生懸命仕事を覚えようとしていたらしい。それで、楓子ちゃんにつきまとっていちいち何でも質問した。そんなこと訊かなくてもわかるだろう、ってことでも訊いた。でも、楓子ちゃんはおしゃべりが得意じゃないから、小さな声で「はい」とか「ううん」と首を横に振るかくらいしかしない。
夜がふけるとともに常連さんたちが集まってきた。お酒の入ったお客さんは、新入りが物珍しくて、フミヤ君を呼びつけてはいっぱいオーダーを出した。フミヤ君は「はい」「はい」と注文を取ってきたのだけど、ほんとうは何一つしっかり覚えていなかった。そのうちあっちこっちで、注文したものがまだ一つも来てないとか、これは頼んだ覚えがないぞとかブーイングがおきた。
ボスは楓子ちゃんを呼んで、フミヤ君にしっかり仕事を教えるのがキミの役目だからねと諭した。楓子ちゃんはきれいな目にいっぱい涙をためながらも、「はい」と頷いた。それをフミヤ君は少し離れたところからじっと見ていたそうだ。
ようやく最後のお客さんが帰り、みんなが店じまいをはじめたとき、食器戸棚のまえで楓子ちゃんがしくしく泣きだした。そのうちこらえていたものをぜんぶ吐きだすかのように、大声でわんわん泣いた。すぐそばでフミヤ君が怯えたように立ちすくんでいた。フミヤ君はまたあの意味不明な笑顔をうかべ、右手を楓子ちゃんの肩におくべきかどうか迷ったまま、宙ぶらりん状態になっていた。フミヤ君が楓子ちゃんに「ごめん」とか何とか謝ろうとした瞬間、楓子ちゃんはくるりと後ろを向き、勢いよく外に飛び出して行ってしまった。力まかせに閉めたドアが反動でまた開いてしまうほど。
みんなの方をふり返ったフミヤ君の顔から、はりついたままだった笑顔がゆっくりくずれた。泣きべそをかく子どものように口元が歪み、それでもなお笑おうとして上の歯ぐきが少しのぞいた。そしてとうとう、フミヤ君も楓子ちゃんが出て行ったドアからしょんぼり暗闇の中に消えてしまった。
ヒミコは風船がしぼむように大きなため息をついた。