発作
19
「この手紙を手にしておられる方へ。
私の小瓶を見つけてくださったことに心よりお礼を申し上げます。
さっそくですが、貴方様にお願いがございます。
お手数ながら、同封の青色の手紙を、**県**郡***の大城浩一さんのもとへお届けください。
奇妙に思われるとは存じますが、私にとっても、大城さんにとっても、さらに申せば島の方々にとっても、時がせまっています。どうか、一刻も早く大城さんに手紙を届けてくださいますよう、切にお願い申しあげます。
万一、大城さんの所在が不明、あるいは死亡の場合には、手紙は風吹亭の相上さんにお渡しください。
吉舎 永悟」
リカの全身に鳥肌がたった。
トキオの方を見ると、まるで幽霊にでも出会ったような顔だった。無理もない。ずっと昔に亡くなったはずのお祖父さんが、突然、生きて目の前に姿を現したようなものなのだ、とリカは思った。
リカ自身、小瓶がまさか吉舎永悟その人からのメッセージだとは想像もしていなかった。たしかに、テンシバルの海で碧色の瓶をみつけたとき、これは何かの合図に違いないと直感した。だからこそ無茶をして瓶を拾ったのだ。だが、正直にいえば、リカの勘はよくはずれる。
「どうしよう」
リカが尋ねた。トキオはゆっくりリカを見た。まっ青だ。
「ぼくさ、なんだか、気分がわるくなっちゃった。ちょっと休んでいいかな」
「ええ。もちろん。中に入りましょう。顔色がよくないわ」
リカはゲストルームのドアを開け、トキオの背中に手を置いてやさしく中にいれた。トキオはふらふらと窓際に行き、籐いすにぐったりとすわった。リカはもう一度庭に出て、割れた瓶のかけらをていねいに拾いあつめ、それらをすべて厚手の封筒にいれた。
部屋にもどると、トキオがぼんやりと窓の外をみていた。後ろ姿がとても幼く頼りなげに思えた。リカは封筒を机の引き出しの奥のピーターラビットの缶にしまい、もう一度手紙の文面に目を走らせた。
吉舎永悟が届けて欲しいと書いている「青色の手紙」というのは、きっちりと固く棒状に巻かれてセロファンに包まれたもう一つの手紙のことだ。吉舎永悟の手紙は、これを芯のようにして包んであった。
なんて奇妙な手紙だろう。いったい、「青色の手紙」にはどんなことが書いてあるのだろう。時がせまっているとはどういうことだろう。この手紙を届けたら、大城浩一さん、つまり、クマさんがなにか行動を起こすのだろうか。吉舎はクマさんがいまどんな状態になっているか知っているのだろうか……。とめどなく疑問がわきあがってきた。
廊下の向こうからだれかが近づいてくる足音がきこえた。リカは急いで手紙を引き出しにつっこんだ。ほぼ同時にドアをノックしてヒミコが顔を出した。
「ごはんよ。さっきから呼んでたんだけど聞こえなかった?」
「ごめんなさい。ちょっと庭に出てたの」
「あらそうだったの? 今日は忙しいから、手のあいた人から先に食べちゃったのよ。あとはもうあなたたちだけ。ここに運んでこようか?」
「それじゃ、わたし取りに行きます」
「そうしてくれると助かるわ。トキオ、あなたも手伝いなさい」
「だいじょうぶです。ひとりで」
「そお? すっかりリカちゃんに甘えてるのね。ごめんね」
リカはヒミコのあとについてキッチンに向かった。トキオくんはいまヒミコさんに面と向かったら、どんな顔をしていいかわからないだろう。そして、ヒミコさんはそんなトキオくんを見て何かがおかしいと気づくにちがいない。けど、いったい何て言えばいい? 吉舎永悟さんの手紙を見つけました。永悟さんは生きています、って? まさか、いきなりそんなことは言えない。――そういえば、あの手紙には日付が入っていたかしら? ううん、なかった! ということは、あの手紙が書かれたのはずっと前、もしかしたら何年も何年も前だったのかもしれない。リカはがく然とした。そんなことは思いたくないが、可能性としては十分ある。あの瓶だってすごく古そうだった。むしろ、吉舎永悟が小瓶を流してすぐに自分が拾ったと思う方がおかしいかもしれない……。
小さなテーブルに向かい合ってフミヤが作ったまかないのチャーハンを食べながら、二人とも頭の中は手紙のことでいっぱいだった。トキオは機械的にスプーンを口に運んでいる。顔色はさっきより少しましだ。そこでリカが、手紙が書かれた時期について考えたことを話すと、トキオは意外にもきっぱりと否定した。
「ううん。ぼくはやっぱり手紙は最近書かれたものだと思う。リカちゃんも偶然じゃないって言ってたよね。ぼくもそう感じるんだ。わかるんだ。あれは、イルミナー祭りをねらって流されたんだ。ぼくのおじいさんは、吉舎永悟という人はそこまで計算すると思う」
「そう、そうよね。吉舎永悟さんならきっとそうするにちがいないわ」
リカはホッとした。そうだ。今度こそ自分の直感を信じよう。
「で、トキオくん、これからどうする?」
「クマさんのところに手紙をとどけよう。それしかない。行かなくちゃ」
「そうね。行きましょう。けど――」リカはヒミコの顔を思い浮かべた。「このこと、ヒミコさんに話す?」
「……迷ってる」
「もし、吉舎永悟さんが今も生きていらっしゃるなら――わたしはそうだと思うけど――ヒミコさんもそれを知りたいだろうと思うわ」
「うん。だけど、まだ確実じゃないよね。リカちゃん、ぼくさ、期待をもたせるようなことを言って、ママがまたがっかりしたりするのはいやなんだ。もっと何かがわかるまで言わないでおくのは悪いことかな」
「いいえ。トキオくんの気持ちはすごくわかる。そうよね、もう少し様子をみましょう。けど、トキオくん、それでだいじょうぶ?」
「なにが?」
「だって、トキオくん、嘘つくのすごくヘタじゃない。それにヒミコさんは鋭いから」
「……がんばる」
トキオはぼそりとつぶやいた。リカはそれで満足するしかないと思った。トキオはチャーハンを半分残してスプーンをおいた。
「あのさ、もうひとつ、気になることがあるんだけど」
「ボスのことでしょ?」
リカもスプーンをおいた。トキオがうなずく。
「あれ、どういうことだと思う?」
「そうね――。まず、吉舎永悟さんは島に何度も来ていたから、風吹亭を知らなかったはずがない。つまり、ボスのことも知ってたはず。それに風吹亭は有名よ。だから風吹亭の名前を出せばだれでも手紙をとどけてくれる」
リカは探偵みたいな口調で言った。けれどトキオはまだ納得がいかなかった。
「それだけかな」
「そこよね。ほんとうのことをいうとね、わたし、最初に会ったときからボスをちょっと疑ってるの。もちろん、いい人だわ。トキオくんだってボスのファンでしょ」
「ファンてほどじゃ……」
「いいのよ。風吹亭のみんながボスを慕ってる。頼りになる人だもの。島の人たちだってそう。うちのパパも、むかしこの島に来てボスにお世話になったんだって」
「へえ。そうだったんだ」
「でもね。なんかあやしい」
「あやしい?」
「うん」
「それも直感?」
「まあそうね、いまのところは。この島は風吹亭を中心にまわってるみたい。そして、そのまん中にいつもボスがいる」
「それがあやしいこと?」
「ボスがなにか悪いことしてるとかって意味じゃないのよ。ただね、相上さんは単に風吹亭のボスというだけではないと思うの」
「ボスには別の顔があるってこと?」
「まぁそうなんだけど。正直、まだぜんぜんわからない。でも、この手紙のこと、ヒントになりそうな気がしない?」
「あのさ」トキオは言いよどんだ。「ちょっと考えたんだけど、ボスにだけは話してみたらどうかな」
「クマさんに手紙をとどける前に?」
「うん。リカちゃんは反対?」
リカは考えこんだ。トキオが続けた。
「もし、相上さんがただのボスじゃないとしたらさ、クマさんのことも、ひょっとして海底洞窟のこともぼくたちより知ってるかもしれないよ」
「その可能性はあるわね。というより、たしかに知ってるんだと思う。だから、吉舎永悟さんも相上さんのことを書いている」
「ね?」
「待って。でも、吉舎永悟さんは万一の時って書いていたわ。やっぱり、まずはクマさんのところに行くべきじゃないかしら」
クマさんの山小屋は、例のハチミツ農場から、けもの道のような細い道をたどっていく。リカはジーンズに着替え、長袖のパーカをはおった。
それから念のため、二人は風吹亭に回ってクマさんが来ていないことをたしかめた。クマさんはイルミナー祭り以来、来てないよ、とボスが二人に教えた。
トキオとリカは誰にともなく、ちょっと調べものをしてくるとつぶやいて風吹亭を出た。みんな忙しそうで二人にほとんど注意をはらわなかった。
山のふもとで二人はもういちど手順を話し合った。
まずは、トキオが吉舎永悟の孫だと名のる。そしてすかさずリカが、テンシバルの海で瓶をひろったいきさつを説明する。いくらクマさんでも女の子にいきなりどなりつけたりはしないだろう。とにかく、クマさんがどんな態度でも手紙は受け取ってもらわないといけない。何があってもぜったいに粘ろうとふたりは励ましあった。今日のところは手紙を渡すだけにする。海底洞窟のことを切りだすのはまた別の機会にすべきだ。
山小屋は島ではいちばん高い山の頂上にある。高いといっても、標高は二百メートルくらいしかないのだが。二人は生い茂る草や虫をはらいよけながら細い道を登っていった。夏の午後の強い陽ざしが照りつけ、目の前がくらくらする。やがて頂上のすこし開けたところに、丸太を組んだ小さい山小屋がみえてきた。やや離れたところに炭焼き窯もある。ここがその場所に違いなかった。
二人はクマさんの山小屋の前に立って無言で顔を見合わせた。リカのバッグの中には、あの硬く巻かれたクマさん宛の青色の手紙がはいっている。念のため、リカは封筒にかき集めた瓶のかけらと吉舎の手紙も持ってきた。これを見せれば海で拾ったことを信じてもらえやすいかもしれない。
トキオが思いきって頑丈なドアをコンコンとノックした。ほとんど音がしない。つぎに力を入れてドンドンと叩いた。それでも反応はない。
「おおしろさん」トキオが叫ぶ。
「大城浩一さあん!」リカも声をはりあげる。
小屋の中からは物音ひとつしない。
「いないのかな?」トキオうしろをふり向く。
「いると思うわ。だって、風吹亭以外にはいかないはずだもの。あとはずっと山にこもっているって、ボスが言ってたわ」
そこで二人はさらに声をはりあげてクマさんを呼んでみた。依然として返事はない。思いついて二人は炭焼き窯を調べてみた。
「熱いわね。窯に火がはいっているみたい。そばについてなくてもいいものなの?」リカが訊いた。
「わかんない。まえにボスが炭焼きは何日もかかるって言ってた。ずっとくっついていなくても大丈夫なのかもしれないよ」
「そうだとしても山をおりたりはしないんじゃないかしら。きっと近くにいるはずよ」
ふたりがそんなことをゴチャゴチャ話しているとき、小屋のなかからかすかな物音がした。トキオがドアにかけよって耳をつける。けれど、音はもう聞こえなくなっていた。そこで二人は小屋のまわりをぐるっと回ってみた。暑い季節だからどこかの窓が開いているはずだ。
山小屋は小さく、一周するのはわけなかった。ドアのある面以外の三面にひとつずつ、すべり出し窓がついていた。ただ、問題なのはそれらがすごく高い位置にあることで、トキオより身長が高いリカでも窓枠の下にとどかない。
二人は窓に向かって声をそろえて「お・お・し・ろ・さん!」と叫んでみた。そうして耳をすますと、今度は動物がうなるような、うめき声のようなものが聞こえてきた。二人は顔を見合わせた。
「あれ、クマさんかな」トキオがささやく。
「本物の熊とか?」リカがとんでもない想像をする。
ふたりはすっかり恐ろしくなって、逃げかえりたい気分に襲われた。が、吉舎永悟の手紙を思い出してなんとかその衝動をこらえた。
とりあえず踏み台になるようなものを探そうと二人はいったんその場を離れた。結局、炭焼き窯のわきに積み上げてあった薪を持ってくるしかないことがわかった。汗だくで薪を運びながらリカが言う。
「勝手にこんなことをして、きっとすごく叱られるわ」
「わけを言えばわかってくれるよ」
トキオが気休めを言った。
窓の下に薪を積んでいるあいだ、きれぎれにあの恐ろしげなうなり声が聞こえてきた。そのうちなにかが暴れまわるようなドタバタいう音が聞こえ、次に重いものが倒れたらしいバッターン! という音がした。ふたりは手を止め、息を殺してしばらく様子をうかがった。中はまた静かになった。そのうち、またあのうなり声が聞こえてきた。
何とか薪が積み上がると、リカが眼でトキオをうながした。トキオは勇気をふりしぼって薪によじのぼった。
すべり出し窓の下から頭を突っ込むようにして、トキオは小屋の中をのぞきこんだ。内部は意外にもとても明るい。そしてクマさんが部屋のまんなかに目を閉じてあお向けにのびていた。いびきをかいている。うなり声の正体はこれだ。そして、口もとによだれがひとすじ。
部屋は意外なほどきれいに居心地良くつくってあった。が、倒れる前にあばれたのか、クマさんは左手にソファカバーを握りしめ、床にはいろいろなものが散乱していた。
死にかけているのだろうか……まずトキオの頭に浮かんだのはそのことだった。トキオはじっと、クマさんの胸のあたりを観察した。胸が上下しているからとりあえず死んではいない。トキオはそっと地面におりようとして、次の瞬間息が止まりそうになった。クマさんがいつのまにか眼をあけていて、トキオをじっとみつめていたのだ。
「わっ!」トキオはバランスをうしなって地面に落ちた。踏み台代わりの薪がガラガラと音をたてて崩れリカがあわてて避ける。トキオはリカの腕をうかみ、無我夢中でもと来た道を駈け下りた。
膝や腕や顔にたくさんすり傷をつくりながら、二人がようやくふもとの養蜂場につくと、そこには蜂巣夫婦とおばあちゃんが仕事に来ていた。おばあちゃんがふたりをみつけて、あれまあ! と声をあげた。
トキオは息を切らせながら、クマさんが小屋の中で倒れていると蜂巣のおじさんに告げた。リカが驚いてトキオを見る。おじさんはトキオに問いただしたりしないで、先生を呼んでこいと奥さんに言いつけて、自分は急いで山を登りだした。
取り残されたふたりに、おばあちゃんが水筒からレモネードを注いで渡してくれた。ふたりともそれをごくごく飲んだ。
「トキオくんとリカちゃん、いったいあんたたち、なんで山小屋なんかに行ったのかね」
おばあちゃんが二人を厳しい目つきで見た。
「あの、わたしたち、ちょっとクマさんに用事があって」
リカがまだ興奮状態のトキオに代わって答える。
「用事が?」おばあちゃんは鋭い目でふたりを見た。ふたりが以前からクマさんの行方不明事件に関心をもっていたことを知っているのだ。
「はい。私たちクマさんに渡さなくてはいけないものがあったの。それで――」
「ヒミコさんや相上さんはこのことを知ってるのかね」
「……いいえ」
「それはあんまり感心したことじゃないねえ。トキオくん、びっくりしたろうがね、クマさんはときどきああなるんだよ」
おばあちゃんは何も聞かなくても、クマさんの状態がわかっているようだ。
「ああなる、って何のことですか?」
リカがしびれをきらして訊ねた。トキオはリカの腕をひっぱって下りてくるあいだ、なにも言わなかったのだ。いや、しゃべれなかったのだ。
「クマさんはね、ときどき発作がおきるんだよ。あれが来るとまる一日はもうどうしようもない。急にバッタリたおれて眠っちまって、どうやったって目がさめない。そうじゃないときは、てあたりしだいに物を投げたり暴れまわったりするのさ。深手を負ったけものみたいに。そうなったら、だれも手がつけられないさ。あれで、ものすごい力もちだからね。山小屋に引っこんでるのもそのためなんだよ。あの子なりに、だれにも迷惑かけまいとしてるんだろうねえ」
いつかクマさんが炭を売りに来たとき、ボスが「あれがきたんじゃないか」とクマさんに言っていたことをリカは思い出した。
「おばあちゃん、クマさんは病気なの?」
「わたしらもそれを心配してね。島の診療所の先生にも、イトコ島の専門の先生にも診てもらったんだよ。息子がさ、同級生のよしみでいやがるクマさんを無理矢理ひっぱってってね。いろいろ検査もしたらしいさ。けど、原因はわからずじまいだった。異常はないんだと」
「異常なし?」トキオが不思議そうに言った。あんなふうに暴れて倒れて、それでもなんでもないのだろうか。それとも、行方不明になったあのできごとのせいなのだろうか。おそらくおばあちゃんは心の中でそう考えているのかもしれない。
「ところで、あんたたち、クマさんに何を渡そうとしたんだい?」
リカとトキオは困って下を向いた。
「言えないことなんだね」
ふたりはそろってうなずいた。
「そうかい。それじゃあ、むりには訊かないよ。いやいや、怒ってるんじゃないさ。ただ、心配してるのさ。発作が起きたときのクマさんは危険だからね。そばに人がいたら投げとばされちまう、ほんとだよ」
「はい。ごめんなさい」
ふたりとも口々に言った。おばあちゃんはふたりの肩をかわるがわるたたいて微笑んだ。
「どうやらあんたたち、秘密をかかえてしまったようだね。これだけは言っとくよ。自分たちだけで手におえないことがおきたら相上さんに相談なさい。あれまあ、そんなことを言ってたらほんとに相上さんがきたよ」
蜂巣の奥さんが運転する軽トラックが土ぼこりを立てて止まり、診療所の老先生があたふたとおりてきた。そのうしろからボスが先生の黒いかばんを持ってつづいた。
しかし相上は、トキオとリカがいるのに気づいて、その場に釘づけになってしまった。蜂巣の奥さんが相上から黒い診療かばんをもぎとり、先生について山を登っていく。
「なんでここに?」
相上の声にはかすかな警戒の響きがあった。